3
いや、正確には三人と一台だった。ユウジは辛うじて下水管の縁に踏み止まり、致命的な落下を免れたのだ。側孔から放出され、放物線を描いて落下するオブジェは空中でバラバラになった。しかしイマエダの伸ばした右手だけは、ユウジの左腕を掴んで離さない。別の側孔に腰かけていたシンジ、床に座り込むサイトウとアマモトの目には、その現実離れした光景が映画か何かのスローモーション映像のように映っていた。その一種夢のように思えた感覚も、その直後に訪れた衝撃的な破壊音によって寸断された。
ガッシャァーーーン!
「ギャッ・・・」
「ウゲッ!」
ベビーカーが床に叩きつけられる音に混じって、誰のものか判らない声が響いた。サイトウとアマモトは、目の前に落ちてきたそれが人間であることを直ぐには認識できなかった。しかし、ゴキッという鈍く不気味な音と共にタケウチの後頭部が床に打ちつけられ、その顔が足元に転がったままピクリとも動かないのを認めた瞬間、自分達を取り巻く状況を全て理解した。彼女の薄く開けられた両目は空を見詰めたまま焦点を失い、左の鼻の穴から赤い鮮血が一筋流れた。
「キャァァァァァ・・・」
「竹内ぃーーーーっ!」
アマモトの悲鳴を覆い隠すサイトウの絶叫が被さった。
「トオルーーッ!」
その光景を上から見下ろしていたシンジの声も混じった。
折れた脚を引き摺りながら近寄ったサイトウは、抱き上げようとしたタケウチの頭部が、生暖かい血液で濡れていることを知った。彼女の血液で濡れた自分の手を、サイトウは茫然と見つめた。
その様子を見たイマエダが逆上した。
「貴様ーーーーっ!」
トオルは転落した弾みに腰を打ち、起き上がることが出来ずにいた。少し頭も打ったのかもしれない。何だか耳鳴りの様なものがしつこく纏わり付き、周りの情報を聴覚から得ることは出来なかった。すると、その無音状態の靄を突き破る様に、一緒に落ちてきたはずの男 ──確かイマエダといったっけ?── が飛びかかって来たではないか。このじぃさん、あの高さから落ちて平気だったのか?
倒れ込んでいるトオルにイマエダが覆い被さった。その結果、二人は地べたを転がる様に絡み合う。しかし、やはり落下の際に何処かを痛めていたのだろう、イマエダの攻撃にキレは無く、徐々にトオルが優位に立つ展開に。足元にすがり付くようにして足掻くイマエダの顔面をトオルが靴の踵で思いっきり蹴り倒すと、「ゲッ」という蛙が潰されたかのような声を上げて前歯が吹き飛んだ。だが、彼がトオルの足を自由にすることは無かった。
トオルは更に数発の蹴りをお見舞いし、その度にイマエダの顔が惨たらしく崩れていく。口や鼻からダラダラと血液が流れ落ち、瞼も無残に腫れている。それでもイマエダはトオルを離さない。
「ゲヘヘヘヘ・・・ 随分と景気良くやってくれるじゃねぇか、坊ちゃんよぉ・・・」
口から血液の混じった涎を飛ばしながらイマエダは笑った。そしてトオルの服を掴んでは引くを繰り返し、徐々に二人の顔が近付いた。
「ヒッ・・・」
トオルはイマエダの異常ともいえる執念に完全に飲み込まれていた。倒れ込んだトオルの腹の上を、ズリズリと這い登って来るイマエダの顔から眼を離すことが出来ない。
「捜査一課上がりを舐めんじゃねぇぞ、クソガキがぁ・・・」
遂にシンジが動いた。
「クッソォーーーっ!」
ロープを使って一旦は側孔に逃げ込んでいた彼は、再びそのロープを掴むとターミナルの空間に身を投げ出した。そして振り子のように身体を使って、側壁に打ちつけられた梯子に取り付く。
「ユウジ、お前も来い!」
そう言い残すと、彼は猿のような身のこなしでスルスルと降りてゆく。その後を追うようにして、ユウジも別の梯子に飛び移った。
先行していたシンジは最後の三メートルほどを飛び降りると、トオルに絡みつくイマエダに向かって突進した。彼の右脚はそのままの勢いでイマエダの脇腹を思い切り蹴り上げる。ドスッという重い荷物を降ろした時のような音と共にイマエダが呻き声を上げた。更に二発目をお見舞いしようと、シンジが右脚を後ろに振り上げた時、甲高い女の声が響いた。
「大人しくしなさい!」
アマモトがシンジの斜め後ろからタックルを喰らわし、二人はターミナルの隅に転がっていった。
脇腹を蹴られたイマエダが血反吐を吐き、それがトオルの顔に降りかかる。真っ赤に染まった顔から覗くトオルの目は、明らかに戦意を喪失していた。
「ヘッヘッヘ・・・」イマエダが不気味に笑う。
「あ・・・ あぁ・・・」
怯え切ったトオルの口から、うわ言のような声を漏れた。鬼の形相のイマエダから逃れられないと悟ったトオルは、遂にみっともなく悲鳴を上げた。
「うわぁぁぁぁぁぁ・・・!」
タックルを喰らったシンジがアマモトと揉み合いになっているところに、遅れてきたユウジが参戦した。二対一、しかも身体の発達著しい少年二人と女性ではハンデが有り過ぎた。直ぐにアマモトの劣勢が濃厚となる。
ユウジがアマモトを後ろから羽交い絞めにした。アマモトはしきりにそれを振り払おうとするが、それは少年の力強さの前では徒労に過ぎなかった。シンジはタックルされて痛む腰をさすりながら、ジリジリと歩み寄った。
「やってくれるね、お姉さんよ・・・ アマモトさんだったよな?」
シンジが伸ばした右手は、アマモトの着るスーツの襟元から中へと分け入り、ブラウスの上から彼女の右乳房を掴んだ。その痛みに彼女の顔が歪んだ瞬間、シンジの身体がフワリと宙を舞った。アマモトも、彼女を羽交い絞めにしているユウジも、そして宙を舞った当人であるシンジすらも、いったい何が起こったのか判らなかった。
ダーーーンと、シンジの身体が痛烈に床に打ちつけられた。
いつの間にか後ろに立っていたのはサイトウだった。まるで柔道技のデモンストレーションのように見事に投げられてしまったシンジが目を剥いて見上げると、不穏な眼差しでサイトウが睨み返していた。彼は背後からシンジの右脇の下に腕を差し込み、相手の体重を腰に乗せて一瞬にして叩き付ける「後ろ払い腰」を使ったのだった。
さっきまで頭を打った女を抱きかかえながら茫然としていたはずなのに・・・ いやそれよりも、確かこの男は脚の骨を折っていたはずだ。それが、一体どうやって・・・ 混乱する思考を落ち着かせようと、シンジが暴走する頭に急ブレーキをかけた瞬間、サイトウがシンジの上に、バサリと倒れ込んできた。
馬鹿が。折れた脚で無謀なことをするから、そういうことになるのだ。これだから
あれ? シンジはもう一度、サイトウの肩に手を掛け、そしてグィと押してみた。やはり、シンジに覆い被さるようにしたサイトウの身体は動かないのだった。それどころか、左肩と右の脇の下に回されたサイトウの腕は、ギリギリとシンジの身体を締め上げ始めた。シンジはそのまま袈裟固めで押さえ込まれていたのだ。
トオルは命からがらイマエダの腕を振り切った。何度蹴っても離れなかったイマエダの腕を振り払い、慌てて立ち上がって後ずさった彼は、またしても尻餅をついてしまった。再び急いで立ち上がり、化け物のようなイマエダから距離を取るように横へと移動する。
「アンタ、まともじゃねぇよ! イカレてんじゃねぇかっ! 冗談じゃねぇ! 付き合ってられっかよっ!」
そう言い残したトオルの身体は、ターミナル中央に穿かれた排水口の奥へと吸い込まれていった。
サイトウの反撃に目を丸くしたユウジの隙をついて、アマモトが反撃を開始した。彼女は振り返りざまにユウジの襟首を掴むと、左腕で相手の右腕を引き付けて一本背負いを決めた。その鮮やかな投げ技は、彼女が婦人警官であることの証明だ。受け身など取れないユウジは背中を強打する。
「いい加減にしなさい、あなた達! 容赦はしないわよっ!」
アマモトは床に背中を打ち付けて悶絶しているユウジに半身になってのしかかり、腰から手錠を取り出た。
その時、トオルと入れ違いに、中央の排水口から三人の少年達が躍り出た。トオルの指示で偵察に出ていた残りの三人だ。その姿と素早さはまるで、キッチンの流しに現れたゴキブリの様だ。彼ら三人の合流により形勢が一気に逆転し、人数に勝る少年達が優位に立つかに思われたその時、まだ声変わりしていない少年の声が響いた。
「あと二人、こっちに向かって来るぞ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます