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そこは周囲の下水が一か所に集まるターミナル駅のような機能を持っていた。そういった中間集水施設は文字通りターミナル ──または後述のグランドターミナルの対表現として、サブターミナルと呼ばれることも有る── と呼ばれ、都内の地下あちこちに点在している。そこから延びる下水道が更に大きなグランドターミナルへと導かれ、効率良く排水処理されてゆくわけだ。言ってみれば、東京駅への一極集中を避けるための、上野や品川、横浜や大宮と言ったところか。
シンジが選んだのは、そのターミナルの中でも比較的新しいもので、あの2020東京オリンピックに併せて整備されたものだった。それまでのターミナルは、側孔の集結部から上に伸びる伽藍洞のような構造で、かつて少年達が自転車レースを繰り広げていた、あの構造体である。それに対し東京オリンピックの頃に増設されたターミナルは、従来より深層に建設されたことも有ってか、側孔の集結部から下に
ターミナル下部の壁にも側孔の合流口は有るが、それらの低い位置に有るものは全て、斎藤達が滑り落ちてきたような傾斜を持って連結されているため、とても人間が登れるものではない。設計図面上の四十五度は歩いて登れそうな印象を与えるが、実際にそれを目の当たりにすると、あたかも垂直に切り立った絶壁のように感じるはずだ。事実、それを登ることは、たとえ四つん這いになったとしても ──足元を洗う水によって床が滑りやすくなっていることも重なって── 不可能であろう。
円筒状のターミナルの底の中央付近にはグランドターミナルへと導かれるメインの排水口が有り ──斎藤の脛を砕いたのがこれだ── それ以外は他の水系に水をバイパスするポンプへと続く比較的小さな取水口が有るのみだ。つまり、このターミナルに落ち込んだ排水は、それらのどちらかを経由しなければここから出ることが出来ない。無論、それは人間も同じである。当然ながら人間がポンプの中を通ってゆくことは出来ないので、その場合はグランドターミナルへと進むしかないわけだが、たった一本しかない脱出路は格好の待ち伏せ場所になることは言うまでもない。
「サイトウさんつったっけ? あんたみたいな年寄りには酷だよな、その仕事は。クックックックッ・・・ 脚が妙な具合に曲がってるところを見ると、結構ヤバイことんなってんじゃね?」
床の排水口以外の脱出ルートは、自分が取り付いているこの梯子しかない。それは壁に打ち込まれたコの字状の梯子であり、これを登って側孔の一本に入ればこの蟻地獄のようなターミナルの構造から解放されるわけだ。しかし底から三メートルほどの高さまでの梯子は、前もって切り落としてある。つまり底にまで落ちてしまった蟻は、もう梯子には手が届かないのだ。そういう自分は、予め梯子に結わえておいたロープを伝って、その到達不能な三メートルをクリアしていたのだった。
二人を見下ろしていたシンジは、梯子から手を離すとロープに体重をかけた。そしてそれにぶら下がったまま壁を蹴って身体を振り、徐々にその振幅を増していったかと思うと、途中まで一緒に逃げていた二人が顔を覗かせている側孔に器用に飛び込んだ。そして直ぐにロープを手繰り寄せ、無慈悲にも敵の退路を断ってしまった。
そこから顔を出して再びターミナルの底にいる二人を睨み付けると、サイトウがこちらを見上げながら悪態をついていた。
「やってくれたじゃねぇか、シンジよぉ。まんまと嵌められたってわけだ? 俺達に残されてるのは、この真ん中にある排水口しか無ぇってことだろ?」
「まぁ、そういうことだな。さすがベテランだと褒めておくぜ、サイトウのオッサン」
その時、サイトウが後ろにいるアマモトに向かって、何やらモゾモゾと話し掛ける声が聞こえた。本人は彼女にだけ聞こえる小声で指示を出したつもりだろうが、このターミナルの形状がその声を拡声し、上にいてもそれが耳元で囁かれた様に聞こえることをサイトウは知らないようだ。
(無線機の回線を開けておけ)
無論、それは近くにいる仲間にこっちの状況を教えるためなのだろう。シンジはほくそ笑んだ。
「こんな滑り台みたいな罠に誘い込むなんて、なかなかやるじゃねぇかシンジよ」
サイトウの
「あぁ、こんなにもまんまと引っ掛かってくれるとは思ってなかったよ。苦労した甲斐が有るってもんさ。どうだった? ウォータースライダーの滑り心地は? イッヒッヒッヒ・・・」
あぁ、待っててやるよ。頼もしいお仲間が到着するまで待っててやるよ。正直に言って、後から合流してくる増援のことまでを想定した罠ではなかった。だが、途中で別れた三人の中にはトオルがいる。奴ならこの状況を的確に把握し、効果的に対処してくれるはずだ。シンジは隣に付き添っている二人に小声で指示を出した。
(お前らは行け。トオル達と合流しろ)
二人はニヤリと笑って親指を立てると、物音を立てないようにそっとその場から去って行った。
ターミナルの下の層で、逃げ場を失った
シンジと行動していた二人が合流した結果、四人の少年達をトオルが率いる形となった。今頃シンジは巧みな話術で敵の注意を惹きながら、増援が到着するのを待っているところだろう。「罠に嵌った二人を餌に、次の獲物をおびき寄せて潰せ!」直接聞かなくても、シンジがそう命令するのは判り切っている。トオルが次々と指示を出すと、四人の少年達は
暫くすると散開した四人のうちの一人ユウジがトオルの元に戻って来た。そして今自分が戻って来た方角を指差しながら言う。
「やつら、あっちの方から近付いて来てる」
若くして地下に潜ってしまった子供達は東西南北の概念が希薄で、市谷方面だとか神田方面だとかいう土地勘にも疎い。従って「あっち」だとか「こっち」といった表現になるのは致し方なく、むしろ「○○が落ちていた所」みたいな表現の方が的確だ。
「あっちって、あのベビーカーが転がってた方角か?」
「うん。今度の敵も二人組みたいだ」
その報告を聞いていたトオルは暫くの間、宙に視線を漂わせる思案顔になったが、直ぐに焦点が戻るとユウジの顔を見た。あまり時間を掛け過ぎると、更なる増援が到着する可能性も有る。とっとと残る二人も片付けちまおう。
「よし、そこに案内しろ」
シンジはまだサイトウと話し込んでいた。だが下の二人も、そろそろこちらの態度がおかしいことに気付き始めているだろう。明らかに時間稼ぎをしているのがバレバレだったが、そんなことは構わない。シンジはこの茶番すらも楽しんでいるのだった。
「斎藤さん、おかしいです。シンジは何か企んでるんじゃないでしょうか」
小声で意見を述べる相棒にサイトウは「あぁ」とだけ答えた。
「そんなことよりシンジよぉ。お前、俺たちをどうするつもりだ? 俺の足がこんなんなっちまった以上、この排水口を降りて行くことは出来なくなっちまった。それがお前さんの狙いだったんだろ?」
「あぁ、全くだ。サイトウのオッサンがだらしねぇから、予定が全部狂っちまった。申し訳ねぇけどアマモトさんよ。そこのオッサンをおんぶして、その排水口から降りてくんねぇかな? 俺の仲間が下で出迎えてくれるはずだからさぁ。カッハッハッハ」
ターミナルへと続く側孔の分岐の奥から耳をそばだてて、このやり取りを窺っている増援部隊の存在をシンジは感じていた。おそらく奴らは、自分達の仲間が負傷して動けないことを知っているだろう。とは言うものの、この先がどのような構造になっているのか細かい情報は持っていない違いなく、罠になっているという無線を通じて得られた情報も併せて、次の一手を決めかねていると思われた。だが、女一人が歩けない男を背負って行動できるはずなど無いことは明白だ。遅かれ早かれ、奴らは自らの意志で罠に飛び込んでくるに違いない。それしか選択肢は無いのだ。
そしてシンジの予想通り、増援部隊は側孔の分岐の奥からソロリソロリと姿を現した。それはサイトウ達が滑り落ちた傾斜配管ではなく、このターミナル空間の上方で連結する一本だった。彼らはサイトウとシンジの会話が聞こえる方にジリジリと足を進め、最後に大きな滝壺のような空間へと繋がる合流口に辿り着いた。男の方が腹ばいになって少しずつ顔を覗かせ、恐る恐る中を覗き込む。
彼はまず、その円筒形の空間の大きさに息を飲んでいるようだった。こんなエリアが地中に埋もれているなんて想像することも難しいだろう。その後、側壁に穿かれた多くの側孔を見回した彼は、その一個に一人の少年が腰かけているのを見たはずだ。そして少年の視線の先を辿っていって、底面に座り込むようにして少年と会話している仲間の姿を認めたに違いない。それら一連の動きをずっと後ろから監視していたトオルが、ユウジの顔を見ながら頷いた。
「よしっ! 今だっ!」トオルとユウジが増援部隊の背後に躍り出た。
その物音に気付いたタケウチと呼ばれている女が声を上げる。
「今枝さん! 後ろです!」
その声に弾かれる様に男が飛び起きた。
振り返った二人が見たものは、物凄い勢いで突っ込んでくる得体の知れない物体だったろう。それはガラガラと大きな音を立てながら迫り来る何かだ。この薄暗い下水管の中で、その正体を知ることは困難に違いない。トオルとユウジは、それに全体重を乗せて押した。
「うぉぉおぉぉおおおーーーーっ!」
「わぁぁぁぁーーーーっ!」
「何だ、あれは!?」イマエダの声が響いた。
それが何かは判らずとも、このままでは後ろの円筒形の空間に押し出されてしまうことを一瞬で悟ったのだろう。イマエダは立ち上がり、その衝撃に耐えるべく両足を踏ん張った。タケウチはどうして良いのか判らないように立ち竦んだ。
そしてそれが二人の
イマエダが捨て身のジャンプを繰り出し、その逞しい手が自分の左腕を掴んだことを察知すると、トオルは瞬時に戦術を変えた。それまでベビーカーに乗せていた全体重を、今度は自分の左肩に移し、男の身体を真正面から受け止める作戦だ。
「キャッ・・・」
タケウチが悲鳴を上げてベビーカーにすがり付いた。当然だ。もしこのまま押し出されれば、下にいる仲間の元へと真っ逆さまに転落だ。床からの高さは十メートル近い。体勢を整えて飛び降りたとしても、無傷でいることは難しいだろう。跳躍したイマエダの身体がそのベビーカーの上になだれ落ち、その華奢なフレームが悲鳴を上げた。トオルはそれごと弾き出そうとタックルをお見舞いする。その三人が複雑に絡み合ったベビーカーを、ユウジは渾身の力を込めて押す。四人の生身の人間とスクラップ寸前のベビーカー一台が、一つの前衛芸術作品のようになった。そして、その難解なオブジェが円筒形の空間に躍り出た。
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