それが松尾と淳二の出逢いだ。そしてこの件に関し、最も驚いていたのは施設職員である。もっとも恩恵を受けていたとも言える。あの心を閉ざして取り付く島も無い淳二が、松尾との間に会話を成立させているのだから。この異常事態・・・・を目の当たりにした職員達は、いけ好かないはず・・の厚労省役人 ──いつもであれば適当にあしらって、体良く追い返しているはずだ── に向かって、「是非またいらして下さい」とか、「もっと頻繁に足を運んで頂きたい」などと、およそ似つかわしくは無い言葉の数々をその本心から口にした。そんな厚遇を受けた松尾も現場の要望に応え、時折この施設に足を運ぶようになり、いつしか淳二とも打ち解けるようになっていった。それに伴い淳二も少しずつではあるが、他人と接することを覚えていったのだった。

 「ねぇ、聞いていい? 嫌だったら答えなくてもいいけど」

 「はい」

 施設に付随する小さな運動場を囲む土手に座り込んだ二人は、スイスイと泳ぐ赤トンボを眺めていた。丘の中腹に在るこの施設では、周囲をぐるりと山の尾根に囲まれていて、都会の喧騒から隔離された別世界を形作っている。既定のカリキュラムの途中であっても、松尾が淳二を連れ出してこんな風に話し込むことを施設側が容認しているのは、ひとえに彼女が淳二にとって必要な人材と判断されているからであった。

 「飯田所長に聞いたんだけど、淳二君・・・ まだ小さい頃、お父様を亡くしてるよね? その事実を君は、どう飲み込んだのかな? それともまだ飲み込めていないのかな? ゴメンね、私カウンセラーでも何でもないんだけど」

 たとえそれが淳二の母親であっても、彼の内面に築かれた強固な防塞を取り除くことは叶わない。それはきっと淳二にとって母親という存在が、既に意味の有る存在ではなくなってしまっているからなのだろう。

 「うぅ~ん・・・ あの時は何だか良く判らなくって、判ろうとするのも面倒臭くって、そんな風にしてるうちに、もうどうでも良くなって、気付いたらココに来ることが決まってって・・・」

 カウンセラーにこういった類の質問をされても、決して心の内を現さなかった淳二も、松尾の問いであれば素直に答えるのであった。それは、彼の幼い恋心が成せる業なのかもしれなかったが、本人はそのことに気付いてはいなかった。

 「そっか・・・ 確かお父様は事故に逢われて・・・」

 「はい、殺されました」気を使って躊躇いがちに話す松尾の言葉に被せるように、淳二はキッパリと言い放った。「池袋で何処かのジジィがブレーキとアクセルを踏み間違えて。歩行者を何人も轢いたんです。でもあのジィサン、結局最後まで逮捕すらされなかったなぁ・・・ なんでなんだろ? 他にも何人も轢き殺してるのに・・・」

 それは松尾の記憶にも残っている。高齢ドライバーによる悲惨な事故として、当時はマスコミに大きく取り上げられていたが、いつまで経っても警察はそのドライバーを逮捕しなかったのだ。他の人間が同様な事故を起こした場合、たちどころに逮捕されて容疑者として実名報道されるのが常だったのに対し、その池袋の事故に限っては、警察は身柄を確保することすらせず、容疑者という立場になることも無いまま無罪放免となったのだった。一説によれば、かつて政権の重要ポストについていた権力者で、いわゆる上級市民として超法規的な扱いがまかり通る老人だったと言われている。結局、警察とはそういう組織ったのだ。

 「でも美帆さん、どうしてそんなことを聞くんですか? カウンセラーに頼まれたんですか?」

 ただ、自分達を守ってくれる存在だと信じていた警察が、とっくの昔に正義を失っていたことを淳二が気にしていないのが、ある種の救いのような気がした。自分の父親を轢き殺した悪党が、警察によって大切に守られていると考えただけで、普通はやり場のない怒りに火が点くはずだし、実際にあの当時の国民はそう感じていた。しかし彼にとって父親は既に過去の存在であり、もう怒りを導く対象ではないのだろう。

 「ううん、違うの。私も幼い頃に父を亡くして・・・」

 少しばかり疑いを混ぜ込んだ視線を投げかける淳二に、松尾は屈託のない笑顔を向ける。どうしたら自分も、彼のように父の死を飲み下せるのだろうか? そんな時が、いつか自分にも訪れるのだろうか?

 「へぇ、そうだったんですか? じゃぁその後はお母さんと二人で?」

 「ううん、母親には生活力が無かったから。結局、私はそのまま養子に出されたの。今にして思えば、それが皆の為に良かったんだってことが判るし、そう決断してくれた母に感謝もしているけど、あの頃は捨てられたんだって思ったなぁ・・・ だから産みの母親には、もう随分と長い間逢ってもいないんだ・・・ 薄情なもんだね」

 「ふぅ~ん・・・ 俺の母ちゃんは・・・」

 松尾が自分の母親の話で沈んでいるのを見た淳二は、自分も母親の話を持ち出して、同じ痛みを感じていることを示そうとしたのかもしれなかった。それが彼なりの気の使い方なのだろう。とは言え、こちらから尋ねなくても自分の過去を自ら語り出す淳二の姿を見たら、彼の担当カウンセラーは卒倒してしまうのではなかろうか。

 「何処かのサラリーマンと再婚したらしいです。そんで、俺の知らない所にでっかい家を建てて住んでるらしいです。金持ちと再婚出来て幸せなんだと思います」

 松尾は思った。彼の母親は金持ちと再婚したのではなく、池袋の大量殺人ドライバーから莫大な額の和解金・・・を入手したのだろう。そんな彼女にとって淳二は、どういった存在として認識されているのだろうか? 邪魔者扱いされていなければ良いのだが、と思う反面、彼の母親を語る時の態度を見る限り、今更、関係改善の余地は無さそうだ。父を亡くし、母すらも自分の心の中から締め出してしまった。天涯孤独とは、彼の為に有る言葉なのかもしれない。松尾は淳二に言った。

 「何か有ったら、いつでも私の名前を出していいからね」


*****


 「その児童自立支援施設で知り合った少年が、奈落の情報を流してくれている・・・ というわけか」

 松尾は須藤の顔を見たまま頷いた。

 「その後、彼は退所して今でも付き合いが続いています」

 「オッケー。ネタの入手先に関しては判った。その少年が何処の誰かは ──今は奈落に潜んでいるのか、或いは奈落の少年達と接触できる立場に有るのかは── ひとまず横に置いておくとしてだ・・・」

 「・・・」

 「そんなネットワークを構築してまで、君は刑事部で何をしてるんだ? この裏でいったい何が進行中なんだ?」

 「主任・・・ 私は・・・」

 「君はいったい・・・ 何者なんだ?」

 突然、松尾が須藤に向かって頭を下げた。

 「もう少しだけ待って下さい。いずれ・・・ いずれ主任も知る時が来ます。知らざるを得ない時が必ずやって来ます。でも今はその時じゃない」

 「そんな風に言われてもなぁ・・・ 自分が踊らされているのが判っててモチベーションを保てってのは酷な相談だぞ、松尾」

 「申し訳ありません!!」松尾は更に深く頭を下げた。「でも、私には主任が必要なんです。主任じゃなきゃダメなんです。もう少し、時間を下さい! お願いします!!」

 須藤は頭を下げる松尾の後頭部を見下ろした。その姿をボーッと眺めながら思うのだった。若い頃だったら、こんな素性の判らない仕事は絶対に引き受けなかったはずだ。しかも裏には厚生労働省が暗躍しているという、きな臭さ満載の案件だ。中央省庁が絡んでいるということは、ひょっとしたら政府レベルの思惑に乗せられている可能性だって捨て切れない。そんな土俵にノコノコと乗り込んで行くほど、自分は愚かではなかったはずである。

 更に言えば、松尾が匂わせた海底火山の件もある。今、世界規模で問題視されている人口減少の原因がそこに有るということまでは判ったが、そこに奈落に潜む子供達が絡んでいるという部分に関しては、話の顛末をまだ聞かされてはいない。自分のような人間に聞かせて良い話なのかは甚だ怪しい気もするが、となると本件の全体像は須藤が予見できるような類のものではないはずだ。そこは所轄叩き上げのちっぽけな刑事ごときには見渡せない、途方もない世界に違いなく、松尾はそこからやって来た人間なのだ。


 しかし・・・ とも思う。松尾という人物を知れば知る程、彼女が体制側の理論だけで動いているとは思えないのだった。そこには何か彼女なりの理由 ──それが何かは判らないが── が有って、今の仕事に打ち込んでいる様に思えるのだ。それは第一印象の時から全く変わっていない。だからこそ、老いて意欲の薄れた自分のようなクズ刑事にも、奮い立たせるように接してくれているのだろうと感じている。

 この気持ちは何と表せば良いのだろう? 自分は彼女のことを愛しているのか? 年の離れた恋人の様に? いや違う。それはむしろ、娘を見るような気持なのではないか。娘を持ったことなど一度も無いが、もし彼女が自分の娘だったらどんなだろう、という想いが頭を過ったことは今までに何度となく有った。家族を持つということをしなかったツケ・・が、こんな形で現れたのかもしれない。この歳になって初めて家族のようなもの・・・・・・が出来て、自分は嬉しかったのだ。彼女と共に過ごす時間が楽しかったのだ。

 彼女が成し遂げたいと思っていることを ──それが何であれ── 達成するための手伝いが出来るのであれば、自分の刑事としてのプライドなどどうでも良いではないか。裏が有りそうな仕事? 上等じゃないか。この老いた身体に鞭打って、その怪しげな仕事とやらをチャッチャと片付けてやろう。彼女がそう望んでいるのなら。

 「俺に頭なんか下げるんじゃない、松尾。いずれは話して貰いたいものだが、今はその時ではないと君が言うなら、おそらくそうなんだろう。それで君の目的が達成できるのであれば、俺はそれで構わない。その時が来るまで気長に待つさ」

 そう言って笑う須藤の表情には、自分はもう主役ではないのだと悟った人間の諦めと清々しさと、一抹の寂しさが滲んでいた。一方で、こうなったら存在感のある脇役に徹してやろうじゃないかという意欲と決意と、闘志の様なものを感じさせるのだった。

 頭を上げた松尾が顔を上げて微笑んだ時、彼女の腰の無線機がノイズを発した。

 「ガガッ・・・ちらK・・・ ザーーーッ、現在、神保町・・・ ボッ、ボッ・・・ 願います、ブツッ」



 その時、同じ無線をより近くから傍受していた二人がいた。

 「ちらKM2天本。KM2の天本です。現在、神保町中層にてターゲットと接触中。付近を警邏中のセグメントは応援願います」

 それを聞いた竹内は今枝の顔を見た。

 「麹町署のセグメントから応援要請です。どうします? 向かいますか?」

 「あぁ、そうしよう。神保町なら、そう遠くはないからな」

 今枝が神保町方面へと足早に歩き始めると、その後を追いながら竹内が無線に応答した。

 「YY3からKM2。YY3からKM2、了解しました。西側からそちらにアプローチします」

 「KM2からYY3、応援感謝します。現場は西神田付近。相手は(さそり)です。ご注意下さい」

 竹内と今枝は顔を見合わせた。

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