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最寄駅からバスに乗って二十五分ほど。小高い丘に挟まれた県道沿いのバス停を降り、今来た道路を渡って東側の丘を十五分ほど登れば目的地に到達する。しかし、バス停から先の最後の徒歩がかなりの登り急勾配で、昔風に言うと胸突き八丁と言われるやつだ。あまり住宅も多くはないエリアで、直ぐ近くに火葬場や霊園が有るのがその要因の一つと思われた。夏場には色濃い葉を茂らせるつる植物が道路脇の斜面を覆い尽くし、人口増加の一途を辿るこの地区にしては荒れた印象を与える。当然ながら歩道が整備されているはずも無く、直ぐ横を走り去る車の排気ガスと土埃で首筋が黒ずむほどだ。
その坂道の途中には盲導犬の訓練施設が有って、えっちらおっちらと登っていると遠くから元気のよい大型犬が吼える声が聞こえるポイントが有る。その溌溂とした犬たちの声を聞きながら、ハンカチで首筋を拭って一休みするのがいつもの松尾のパターンだ。急勾配と闘い続けて疲弊した松尾にとっては、必要不可欠な気分転換である。しかし今日は既に日も傾き始めていたし、街灯も無いあの坂道を徒歩で登るのは危険であるとの判断から、松尾は駅前でタクシーを拾っていた。たまにはこんな贅沢も良いではないか。
タクシーに料金を支払って出ると、ベージュとも薄水色ともいえるノッペリとした外観の建物中央に設けられた、エントランス前に松尾は立っていた。そこの植え込みは小さな車止めを備えたロータリーを形成していたが、タクシーの運ちゃんはその存在に気付かず、バックと切り返しを使って忙しなく駅方面へと帰って行った。たいした距離でもないのにタクシーを使う客にご機嫌斜めの様子で、その感情が車の動きにも表れていた。
丘の中腹に建てられているその建物は比較的新しい建造物で、見た目は小学校のミニチュア版のような感じだろうか。敷地内のあちこちに様々な樹木が植えられていて、二宮金次郎の銅像でも立っていれば、間違いなく小学校と見紛う雰囲気だ。普通の小学校と違うのは、子供達の遊ぶ姿や、明るく元気に歌う歌声とかが聞こえてこないことだろう。むしろ小学校に似つかわしくない、機械工場の騒音の様なものが聞こえ、外観とのギャップを醸し出していた。
その児童自立支援施設から淳二が飛び出して来た。彼は問題行動を起こす子ではなかったが、入所した後も仲間と打ち解けることを拒否し続けていた。同室の少年達とも、冗談を言い合うでもなく、雑談を交わすでもなく、必要最低限の会話に終始した。積極的に就労訓練に取り組むことも無く、何に対しても前向きな態度を示すことは無い。施設職員にもカウンセラーにも心の内を打ち明けることは無く、ただ黙って大人の前に座っているだけだ。そして「もう行っていいよ」と言われるまで、何十分間でも沈黙の深淵に沈む石の様にして待つのだった。そういった意味では優等生的ではないにしても、手の掛からない少年であると言えた。ただ行き場を失って鬱積した感情の内圧を解放するリリース弁のように、突如施設を飛び出してゆくことがたまに有るという点を除けば。
その突然の内圧放出と松尾の来所が偶然にも重なったわけだ。タクシーを降りて玄関に向かう彼女と、いきなり飛び出して来た淳二が鉢合わせをした。少年とは言え十四歳にもなれば、体格的には成人男性に近い子もいる。淳二は同年代の中では長身な方で、そんな彼にラグビーのタックルの如く体当たりされた松尾は堪ったものではない。「キャッ」という悲鳴を残し、登りかけていた階段から転げ落ちることとなった。淳二も寸前で松尾の存在を認め、その衝突を回避しようと身を翻したが間に合わなかった形だ。
突然のことに立ち竦む少年。彼は自分が女性を突き落としてしまったことの重大さを計りかねて固まった。彼女が怪我でもしていたら、自分はどうしたら良いのだろう? まさか骨折などしていたらどうしよう? 所長室に呼ばれて、酷い叱責を受けるのだろうか? そんな思いが脳裏を駆け巡る瞬間にも彼の身体は、ぶつかった瞬間に感じた ──そして今まで知らなかった── 女性の身体の柔らかさや、その軽さを何度も何度も反芻していた。それと同時に、何処かで嗅いだことの有る甘い香りが彼の鼻腔に残っているのを知った。
これって、金木犀だっけ?
そんな想いにふと駆られた少年の心は、女性の上げる呻き声に引き摺られて正気を取り戻した。
「痛ててて・・・」
「あっ、あの・・・ すいません。大丈夫ですか・・・?」
少年はエントランス前の階段を駆け下り、女性の横に寄り添った。尻餅をついている彼女を抱き起すべき状況なのは判っていたが、思春期の男子が大人の女性の身体に腕を回すには十分な勇気が必要だ。その一方で、先ほどのほんの一瞬に知ったあの柔らかな身体の感触を、もう一度この手で感じたいという欲求もまた湧き上がって来るのだった。少年がこの年頃の男子としては至極真っ当な衝動と闘っている間に、彼女は身体を起こし「うん、大丈夫」と言って笑った。そして少年の顔を見ながら右手を差し伸べた。少年は差し出された右手の意味が判らず一瞬だけ狼狽えたが、それが「引っ張り起こしてくれ」という意思表示であることに思いが至り、直ぐにその手を取った。
少年に引き起こされた女性は、自分のお尻をパンパンと叩く。
「そんなに急いで、何か急用だったのかしら?」
少年はバツが悪そうに答える。
「い、いいえ・・・ べ、別に・・・ あの・・・ ごめんなさい・・・」
「あっ、いいよいいよ。怪我もしてないみたいだし・・・」そう言って松尾は、少し悪戯っぽく笑う。「でも、もし申し訳ないと思ってるなら、この施設を案内してくれないかな。ザッとで良いからさ」
「あ・・・ はい。でも・・・ 案内なら所長とかの方が・・・」
「ダメダメ。あの所長の案内は
そう言って人差し指を立てて口元に持ってゆく松尾を、淳二はドギマギしながら見詰めた。その指の向こうで微笑む、艶の有る柔らかそうな唇から視線を逸らすことが出来なかった。女の人とこんな風に会話したことなど、生まれて初めてだ。
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