「ご存知かもしれませんが・・・」

 そういう前置きから話し出そうとした松尾を制して、須藤がチャチャを入れた。

 「多分、ご存知じゃないよ」

 松尾は微かに笑った。

 「児童福祉法、並びに児童福祉法施行令によって、国や都道府県、或いは人口の多い政令指定都市は、それぞれに児童自立支援施設を設置することが決められています」

 「ほぉ~ら、やっぱりご存じなかった」

 須藤はおどけて見せたが、松尾はそれに反応せず話を続けた。

 「それらの施設に関わる詳細は厚生労働省令、つまり『児童福祉施設の設備及び運営に関する基準』なる指針によって定められているわけですが、私は各地の自立支援施設が指針に沿って適切に運営されているかどうかをチェックする仕事をしていました」

 そこまで聞いた須藤が、申し訳なさそうに口を挟む。

 「その児童自立支援施設ってのは、言ってみれば少年院みたいなものかい?」

 すると、それを聞いた松尾が目を丸くした。それは驚きの表情だ。

 「何を言ってるんですか、主任! そんなわけ無いじゃないですか! 主任はいったい何年、刑事をやってるんですか!?」

 松尾のあまりの剣幕に、須藤は首をすくめた。まるで飼い主の逆鱗に触れてしまった仔犬のようだ。彼が仔犬だったら、間違いなく耳をペタンとしていることだろう。

 「す、すまん・・・ ヤクザ相手の仕事しかしてこなかったもので・・・ 厚労省と言えば麻取くらいしか付き合いが・・・」

 日本で警察官以外に逮捕権を持ち、かつ拳銃の携帯が認められているのは厚生労働省の麻薬取締官しかいない。どちらも暴力団相手の仕事ということで、捜四とは切っても切れない仲なのだ。大袈裟にため息をつく松尾は、出来の悪い生徒に向かって噛んで含めるように説明を加えた。

 「いいですか? 少年院というのは、刑に服する者が未成年だった場合に適用される施設を示し、懲役または禁錮刑の執行対象者を収容することを目的としています。つまり、その存在理由はあくまでも『刑の執行』であり、いわゆる刑務所と同じです。従って少年院を管轄しているのは、法務省の矯正局となります」

 「な、なるほど・・・」

 「それに対し児童自立支援施設では、家庭環境、生活環境などが原因でサポートが必要であると判断された十八歳未満の児童が入所します。その判断は家庭裁判所だけでなく、児童相談所が行う場合も有るんです。つまり犯罪を犯した子供が行く所ではなく、親から虐待を受けている子供とか、クラスメイトからイジメられているのに学校に見放されてしまった子供、或いは親の収入が不安定で貧困に喘いでいる子供とかがやって来る、厚生労働省管轄の施設なんです」

 「じゃ、じゃぁ、小さな子供が犯罪を起こしてしまったら、ど、どうするのかな?」

 貴方の話をちゃんと理解していますよ、というポーズを取るために、興味も無いことに関してあえて質問をするというのは良くある話だが、須藤の思慮の浅い質問はかえって松尾を呆れさせる効果しかなかったようだ。一瞬、虚を突かれた様に押し黙った松尾は、先ほどまでの勢いが完全に消失した風に肩を落とした。

 「主任・・・ 十四歳未満の少年には刑事責任を問うことが出来ません。つまり彼らが刑務所や少年院に入ることは有り得ないんです。そんな彼らが自立支援施設に入所したからと言って、それは決して刑の執行の為ではなく、文字通り自立を支援する為なんです。それは刑法に定められています。やっぱりご存知じゃなかったんですね?」

 「す、すまん・・・」須藤は白髪混じりの頭をポリポリと掻くことしかできなかった。

 「その頃に知り合った少年がいました──


*****


 頑張って優秀な大学に進学した松尾は、在学中にも勉強に打ち込んだ。講義にも真面目に通い、彼氏と呼べるようなものは作らず、その結果、優秀な成績で卒業を迎えた。彼女の成績であれば花形の外務省だとか通産省にも就職できたはずだし、警察庁だって選択肢になったはずだった。勿論、大手の一流企業だって射程圏内だ。当然ながら大学側としても、彼女の輝かしい活躍が母校のを上げてくれるものと期待していたわけだが、松尾は特に深く考えることもせずに厚生労働省に就職してしまったのだった。ゼミの教授からは「勿体ない」とか「考え直せ」という風な言われ方をしたものだが、元来エリート意識の希薄な彼女は「別に何処だっていいじゃん」という程度のノリで就職先を決めてしまったのだった。

 彼女には元々、エリート官僚になってやりたいことなど何も無かったのだ。世界を舞台に活躍するだとか、国を動かすような大プロジェクトを手掛けるだとか、そういった大志に突き動かされていたわけではなく、他に打ち込めるものも無いからという消極的な理由によって、学業に時間を費やしていたという方が当たっている。強いて言うなら、子供の頃に憧れていた保母という仕事に近しい存在として、厚生労働省を選択したのであるが、その動機らしきものを他人に打ち明けたことは無かった。きっとバカにされると思っていたからだ。


 そんな彼女でも、厚労省での日々は目まぐるしく過ぎて行った。雑多な業務に追われ、忙しく過ごす日常だ。それは彼女が思い描いていた生活とは言えなかったが、よくよく考えてみれば「こうなりたい」という自分の理想像を描いて入省したわけではなかったので、その日常に対して何らかの不満を口にできる立場にはなかったのだが。ただ漠然とした虚無感というか、寂寞感せきばくかんというか、喪失感の様なものに抗いながら仕事をしていたことは否めない。

 その頃からである。彼女が生きる目的の様なものを意識し始めたのは。自分の人生が何らかの意義を持つかもしれない、或いは持たせることに価値が有るかもしれないという想いに駆られるようになったのは。それは彼女にとって初めての感覚であった。

 「美帆、あなた最近変わったわね」

 カフェテリアで安いインスタントコーヒーを不味そうに啜る夏世が言った。彼女は松尾と同期入社で、隣の課に配属となって以来親しくしている。地味で奥手でパッとしなかった松尾が一人前の・・・・女になれたのは、服装やアクセサリーから化粧の仕方まで、ことごとく指導してくれた世話好きな夏世に依るところが大きい。

 松尾は手許の資料から視線を上げた。

 「えぇっ? 私が? どんな風に?」

 「うぅ~ん、何て言うんだろう・・・ 張りが出た・・・ みたいな?」

 「何よ張りって? お肌の調子は別に変化無いけどぉ」

 「そうじゃなくって、内面的なものっていうのかな? 精神的な部分に芯みたいなものを持ってて、チョッとした仕草にもそれが滲み出ている女、って感じかしら。でもそこはかとなく漂う危うさが男どものハートを鷲掴みよっ!」

 いつもの事だが、夏世の巧みな話術に半笑いで応える。

 「随分と詩的な表現ね。言ってる意味は解る様な気もするけど、結局判らないのよ、あんたの言うことって。いっつもそうなのよ、夏世は」

 しかし回転が速過ぎる夏世の頭脳は、有りもしない空想を燃料として勝手にレッドゾーンへと吹け上がっていた。はた迷惑なこと、この上ない。

 「美帆、あんたひょっとして私に黙って男作ったんじゃないの? あっ、ひょっとして戦略企画室の笹沼さんじゃないでしょうねっ!?」と言いながら松尾の首に両手を掛ける。「もしそうだったら、絶交だからね! 遺書にあんたのこと色々書いて、京浜東北線に飛び込んでやるっ! きぃぃぃぃーーっっ!」

 夏世は自らの両腕に力を込めて松尾の上半身をグワングワンと大きく揺すぶった。松尾の首はそれにつられてカクカクと揺れた。

 「あぁーーー・・・ もしもし? 夏世さん? 首が折れそうなんですけど・・・」

 「いやいや、京浜東北線じゃ轢かれて痛い思いするわね。やっぱり快速じゃないと一気に死ねないわ。はぁ、美しく死ねる方法って無いのかしら?」

 「女子高生かっつうのっ!」と松尾がツッコミを入れた時には既に、夏世は自分の席に戻って、次の話を始めていた。

 「ってかさ、今晩空いてる? 合コンの面子が足りないんだけど。お相手は慶応病院のお医者様よ。どぉーよ? こんなチャンス、滅多に無いっしょ!?」

 「あぁ・・・ ゴメン。私、仕事が退けた後にちょっと確認しておきたい事が有って。川崎の方の施設なんだ」

 「それ『仕事』じゃない? それを『仕事が退けた後』とは言わないわよ。まったく・・・ ちっとは男遊びも憶えなさいよ、あんた。そんなんじゃお嫁に行けなくなるって」

 夏世はふぅとため息をついて、帰り支度を始めた松尾を見詰めた。

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