須藤が懐中電灯の心細い明かりを頼りに歩き始めると、それに続く松尾も同じように明かりを取り出した。その時、二人の背後で、今入って来た扉が「ガチャン」という音と共に締まるのが聞こえた。それに続く「カタン」という音が、その扉が施錠されたことを告げ、二人が既に地下の暗闇の一部であることを宣告した。

 軌道と並行するように敷設された作業用通路を歩きながら、須藤は蕎麦屋での会話を持ち出す。

 「ここに来る途中、考えてたんだが・・・」

 「日ハムの件ですか?」松尾が悪戯っぽく言うと、須藤はフッと笑った。

 「いや、それよりももう少しだけ重要な案件だ。ほんのちょっとだけどな」今度は松尾も微かに笑った。

 一拍おいてから須藤は続ける。

 「例の海底火山から出てきたっていう細菌の件だが・・・ あれが生き延びるに為は光合成をする必要が有るから、日が当たらないと死んでしまう、だったよな?」

 松尾は黙って頷いた。この暗闇でその動作をしても、相手に何も伝わらないはずであるが、須藤はその気配から肯定の意を感じ取っていた。

 「ということは、つまり・・・」

 その続きは松尾が引き継いだ。

 「ご明察です。人への感染力を手にした変性タイプは、この奈落では生きてはいけない・・・ ということになります」

 二人は暫くの間、沈黙を共有した。二人の靴が奏でる微かな足音が地下軌道内に充満したが、遠くから近づいてくる電車の音が、それを覆い尽すように徐々にボリュームを上げ始めた。そして二人のすぐ横を「グワン、グワン」という轟音を響かせながら通過してゆくのだった。流れる窓は明るい線のように連なって過ぎていったが、その内部を認識できるほどの優れた動体視力は須藤にも松尾にも無かった。辛うじて判明したのは、オレンジ色とか黄色のけばけばしい配色が多く見られたことだ。きっとどちらも、東京ドームでの試合観戦に向かう人達に違いなかった。

 「おぉぉぉん・・・」という余韻を残して走り去った、電車最後部の窓が徐々に遠ざかって行き、その先の緩いカーブを曲がって見えなくなった。すると再び足音が戻って来て、しつこい幽霊のように二人に付きまとうのだった。

 「随分と・・・ えげつない・・・・・話になりそうな予感がするんだが・・・」

 その言葉を聞いた松尾が、何かを言おうとしたのに直前でその言葉を飲み込み、押し黙るような素振りを見せた。結局、何も言わなかった。

 「少なくともハッピーな結末は待ってはいなさそうだ」

 須藤が若干沈んだ声でそう付け加えても松尾は何も言わなかった。だが、その沈黙は肯定を意味していると須藤は理解した。それ以上に踏み込んだ部分を口にするには、松尾にも覚悟が必要なのかもしれない。須藤は彼女の腹決めに猶予を与える様に言った。

 「そこを左に折れよう。ちょうどこの辺が、遊園地を南北に二分割する中心線付近だ。そのまま数百メートルほど進めば、丁度、ドームの真下辺りに出るはずなんだが・・・ そこまで行く必要は有るかな?」

 須藤のそんな心配りに、松尾は感謝するのだった。


 暫く進むと、明らかにこれまでとは違った感触の壁が現れた。須藤はその前に立つと、その壁を片手でパンパンと叩きながら振り返って「東京ドームだ」と言った。無論、ドーム自体は地上の建造物であるが、これだけの規模の物ともなればその基礎部分も含め、地下にのめり込んでいる領域はかなりのものだ。従って浅層から中層にかけては、そのエリアに下水管は通ってはおらず、ドームに関連する設備群に占められている。須藤は何かを探す様に壁伝いに歩き、そしてそれを見つけたようだ。「もう少し下に潜ってみよう」そう言って、床から五十センチほど飛び出た土管の様な縦坑に近付き、その上部に取り付けられたハッチ状の蓋を開けた。それを見た松尾は、ビデオゲームのスーパー・マリオの様だと思いながら彼に続いた。

 その土管の壁面に取り付けられた梯子を降り切ると、明らかに上の層よりも新しい領域に出た。おそらくドームの建設に伴って作り直された、もしくは新しく増築されたエリアなのだろう。そんな物が必要なのかどうか松尾には判らなかったが、このような新しい区画は、所々に ──かなり疎らで頼り無さげではあるが── 非常灯のような照明が敷設されているのが有りがたい。この地下で懐中電灯の灯りだけに頼って行動していると、いつの間にか三半規管が上下の感覚を失い、暗黒の宇宙空間に放り出された様な感じになってしまう。これは下水道酔い・・・・・と呼ばれる症状で、自分の身体が傾いていることすらを認識できない結果、気付いた時には下水の流れる溝に這いつくばっているという有様だ。そんな時に、壁でも天井でもいいから固定された光源が存在することは、その発症を抑制したり、或いは症状を改善するのに大いに役に立ってくれるのだ。また、閉塞感に伴う精神的な圧迫を軽減させてくれることによって、パニック症状に陥る危険性も回避できる。松尾には経験が無いが、衛星軌道上の宇宙飛行士が船外作業をするうえで、地球の姿を視認出来ることや太陽の位置を把握出来ることが、途轍もなく重要であるのと同じかもしれない。


 須藤は暫く進んでは耳を澄まし、そしてまた進むという動きを繰り返していた。しかし彼の耳は、微かな唸りを上げる排水ポンプだか換気扇だかの無機的な機械音以外は、足元を流れる水音を捉えるのみで、狙いの少年達の存在を告げる兆候を聞き取ることは出来なかった。

 「リョータは・・・ いないみたいですね」

 申し訳なさそうに言う松尾に向かって須藤は手を振った。

 「タレコミ・・・・なんてそんなもんさ。十の内、一個か二個当たれば御の字だよ」

 少し挑発的な視線を向ける須藤を見て、松尾は彼の真意を測りかねた。

 「松尾・・・ 君のスマホに掛かって来るのは・・・ 本当に本部からなのか? それは何処ぞの情報屋からのタレコミなんじゃないのか?」

 須藤は、松尾を通して提供される本部の情報に、何やら胡散臭さを嗅ぎ取っていた。そもそも本部・・という組織自体、有るのやら無いのやら。これまでの話の流れからして、それは警察組織ではなく厚労省が掌握している組織、或いは厚労省そのものと考えるのが順当と思えたが、その本部とやらが地下の少年達の動向をウォッチ出来ることが理解できない。ましてやそこからもたらされる情報をどこまで信じていいものやら。その疑念に今、決着を付けようとしているのだ。

 「いつもは無線機を使って署と連絡を取っているのに、時々スマホで連絡を受けているよな。その相手って、いったい誰なんだ? 誰から少年達の情報を得ている? 俺を相棒と認めてくれているのなら、その辺りをオープンにしてくれでもいいんじゃないか?」

 そして最大の謎はその怪しげな本部が、どうして松尾を送り込んでまで少年達を確保しなければならないのかである。他セグメントの女性担当者とは異なり、松尾は須藤の知らない何者かの意図に沿って行動しているのは間違い無い。その読みに関して須藤は絶対的な自信が有った。彼女は何か別の目的で動いているという刑事としての感が、この任務のあやふやさを警告して止まないのだ。明確な理由や根拠など無い。ただ須藤の五感が、彼を窮地に追い込みかねない危険に対し、敏感に反応するのだ。それによって、これまでに何度となく絶体絶命の崖っぷちから生還を果たしている。ヤクザ相手の捜四時代であればそれも判らないでもないが、まさか地下の少年達を確保するという任務で、あの頃の忘れかけていた五感が疼き出すとは思ってもいなかった。枯れて錆び付いた老刑事にも、刑事としての本能だけは残っているということだろうか。


 とうとう観念したのか、或いはそろそろ頃合いだと判断したのか、松尾は静かに語り出した。須藤相手にいつまでも隠しておけるはずなど無いと、コンビを組む前から判っていたことなのだから。

 「厚生労働省に勤務していた頃の私は、全国に点在する児童自立支援施設の管理、運営に携わっていました」

 立ち止まって話し始めた松尾を促す様な仕草と共に、須藤は歩きながらそれを聞いた。話は聞くが、仕事も続けるという意思表示だ。

 「やっぱり厚労省が絡んでいるんだな?」

 「はい」松尾は、今度はキッパリと答えた。

 「君が持ち出した海底火山の話・・・ あれだって、まだ最後までは聞いていないんだぞ。あっちの話がまだ納得いっていないうちに、今度は厚労省時代の話を持ち出すのかい? それらの話は、最終的には一つに繋がるんだろうな?」

 今度は須藤が立ち止まった。言いたいこと、聴きたいことが一杯有るが、どれから持ち出せば良いのかが判らないといった様子だ。

 「はい、いずれは」松尾は喋りながら歩き続けた。

 「いずれは・・・か」今は須藤が松尾を追いかける様な位置関係になっている。

 「主任が私の情報源についてお聞きになりたいということなので、先ずはそこからお話しします」

 松尾は立ち止まって振り返り、須藤が追い付くのを待った。

 「オッケー、判った。でもこちとら頭の固くなった年寄りだ。妙などんでん返しは無しにしてくれよな。シンプルな話で頼むよ、シンプルにな」

 その言葉を聞いた松尾は、何故だか沈んだ顔だ。

 「シンプル・・・ですか・・・。考えてみればシンプルな話かもしれませんね」

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