3
二人が
「ひっ・・・ あ、あれ・・・」
カナエの怯えた声に驚いたリョータは、急いで懐中電灯を差し向ける。しがみ付くカナエのせいで光が揺れたが、確かにそこには何かが鎮座していて、キラリと光る二つの目が怪し気に輝いていた。
二人が息を飲むと、十メートルほど離れた所から様子を窺っていたそれは立ち上がり、ゆっくりと近付いて来た。そして二人の直ぐ目の前に再び座り込み、またこちらを見上げるのだった。
「犬・・・ だね」
リョータがそう言うと、その雑種と思しき貧相な犬は嬉しそうに尻尾を振った。暗闇に紛れて目だけを光らせていた得体の知れない化け物だったそれも、犬だと判った瞬間に愛らしい生き物へと変貌する。全くもって人間の目など、当てにならないものだ。
リョータはポケットから小袋に個別包装されたクッキーを取り出すと、その包装を解いて犬に向かって放り投げてやった。すると犬は美味しそうにそれを食べ、またリョータ達の前でチョコンと座るのだった。やはり尻尾を振って嬉しそうだ。
「この仔、流されてきちゃったのかな?」
そう問いかけるカナエにリョータは首をかしげる。
「どうかな。紛れ込んじゃっただけなのかもしれないね。ほら、地下は複雑だし、犬の敏感な鼻を使っても、一度深みにはまり込んだら抜け出せないのかもしれない。そしてグルグル回っているうちに・・・」
「ずっここにいたら、この仔、どうなっちゃうの?」
それは聞かなくても判っていることだった。それでも、死んだ後のことに思い入れの有るカナエは聞かずにはいられないのだった。
「多分・・・ いや間違い無く死んじゃうね。食べる物が無くて。自分の力では登れないから。そして鼠の餌になっちゃう」
しがみ付くカナエの腕に、ぐっと力が籠るのをリョータは感じた。懐中電灯を動かして、リョータは犬の全身をくまなく観察した。鼻の周りは黒く、その他の部分は茶色だ。右の耳はピンと立っているが、何故だか左耳だけはペタンと倒れている。犬が身体を動かす度に、その倒れた耳がヒョコヒョコと揺れた。よく見るとあちこちの毛が抜け落ちて皮膚が顔を出し、無残な姿を晒しているようだ。おそらく、何らかの皮膚病を患っているのだろう。
「助けてあげたい?」
そう尋ねるリョータに、カナエは首を振った。
「私、犬は苦手。咬み付かれそうになったことが有るの」
「そうなんだ? 僕は犬は好きだけどな。飼ってたことは無いけど」
かなり痩せていて、皮膚病と相まって悲惨な外見ではあったが、まだ比較的元気なようだ。おそらくこのプールに落ちて、まだそんなに時間が経っていないのだろう。リョータ達を見詰める愛くるしい目には生きる力が宿っていて、元は飼犬だったのかお行儀よくお座りをしている。
「私は猫が好き。昔、家に二匹飼ってたんだ」カナエが珍しく、身の上話を始めた。
「へぇ、そうなんだ?」
一旦は腰を上げようとしていたリョータも、再び腰を落ち着けた。
「でも二匹とも死んじゃった」
カナエは今でも覚えていた。その二匹が死んだ時のことを。でも、何故死んでしまったのかは記憶に無い。ただの老衰だったのか病気だったのか、それとも事故だったのか。ただ無性に悲しかったことだけが思い出されるのだ。何日もの間、思い出したように涙が溢れて仕方がなかった記憶が残っている。その時、カナエは一冊の絵本に出逢っていて、それが当時のカナエの心と深く同調し、お気に入りの一冊となっていたのだった。
カナエは少しだけ悔やんでいる。母親に「一つだけ好きな玩具を持って行っていいよ」と言われ、目の前にあった折り紙入りの缶を手に取ってしまったことを。もしあの時、もっとちゃんと考えていたならば、折り紙ではなく、あの絵本を選んだに違いなかった。
あの色とりどりの折り紙が、リョータとの生活に彩を加えてくれていることは承知しているし、それを気に入ってもいる。しかし、カナエにとって本当に大切な物と言えば、やはりあの絵本をおいて他には無かったのだった。少なくともあの当時は。
【一番年下のチョビ】
一番年下のチョビ
一番年下でチビのくせして
お兄ちゃんたちを追いかけたり噛み付いたり
一番おいたをしたね
お兄ちゃんたちが食べているご飯を
横取りなんかもいっぱいしたね
でもそんな時、お兄ちゃんたちが
チョビにご飯をゆずってくれていたことは
知っていたかな?
チョビが寝ている時、お兄ちゃんたちが
ペロペロ、ナデナデしてくれていたことは
知っていたかな?
チョビが寝ている間に
一番上のお兄ちゃんがいなくなったね
それからしばらくして
二番目のお兄ちゃんがいなくなったね
こたつの中にも、お布団のところにも
茶だんすの上にも、ロフトにも
お兄ちゃんたちの匂いはするのに
すがたが見えなかったね
その頃からチョビは
昼間もずっと寝ているようになっちゃった
それでも時々、鼻をピクピクさせるのは
どこかからお兄ちゃんたちの匂いが
やって来るのかな?
お兄ちゃんたちの匂いも消えるくらい
時間がたったころ
チョビの目が見えなくなっちゃった
大好きだったお兄ちゃんたちがいない世界なんて
もう見たくなかったの?
そんなチョビがお布団の上で動かなくなった時
一番上のお兄ちゃんが帰って来たよ
遠い都会で難しいお勉強をしている
一番上のお兄ちゃんが帰って来たよ
一番上のお兄ちゃんは
動かなくなったチョビをやわらかな土に
うめてあげたんだ
二番目のお兄ちゃんのとなりに
うめてあげたんだ
そしてまた都会に帰って行ったよ
そしたら家には
お父さんとお母さんしかいなくなったよ
チョビとお父さんとお母さんの
三人で住んでいたのに
ずっとずっと昔みたいにお父さんとお母さんの
二人だけになったよ
お父さんとお母さんと
それから一番上のおにいちゃんも
いつかきっとチョビに会いにいくから
それまでは二番目のお兄ちゃんといっしょに
待っていてね
そしたらまた五人で暮らせるね
自分が死んだらお兄ちゃんがやって来て、チョビのように土に埋めてくれるのだろうか? そしていつかは、お父さんやお母さんやお兄ちゃん達が会いに来て、あの頃のようにまた一緒に暮らせるのだろうか? そんな思いに浸るカナエを、リョータの声が揺すぶり起こした。
「じゃぁ、行こうか」
そう言ってリョータが立ち上がると、「うん」と言ってカナエも立ち上がった。それを見ていた雑種犬は、次に何が貰えるのだろうという期待に胸を膨らませ、より一層激しく尻尾を振った。リョータはそんな犬に「バイバイ」と手を振ると、カナエの手を牽くようにして踵を返す。カナエは黙ってそれに付き従った。
その時のカナエは、自分が父の顔も母の顔も、仲の良かった兄の顔すらも思い出せなくなっていることに気が付いていたのだった。服装や雰囲気や声の調子は思い出せるのに、顔だけはどうしても思い出せない。交わした会話や部屋の様子なんかも明瞭に思い出せるのに、顔だけは違った。そこに意識を集中すればするほど、靄が掛かったように視界がぼやけ、顔の部分だけは明瞭な映像となることを拒むのだった。自分が思い出せなくなっているということは、彼らもカナエのことを忘れてしまったということではないのか? どうやら自分は、絵本の中のチョビ程は幸運ではなかったらしい。今まで気づいていなかった新たな事実を突きつけられて、カナエは項垂れた。
そのだだっ広い墓場の入り口で、リョータがもう一度振り返って懐中電灯で照らすと、犬はまだ嬉しそうに尻尾を振っていた。彼 ──ひょっとしたら彼女── には二人の行動の意味が判らないのだ。自分が一人、ここに取り残されるのだという事実が飲み込めないし、リョータ達がそうする理由にも心当たりが無い。自分がどういった立場に置かれているのかも、これから先どんなことが待ち構えているのかも判っていない。
リョータはその無邪気な姿を見なかったことにして、カナエに話しかけた。彼女が飼っていた猫のことを思い出して沈んでいたので、わざと明るい調子でだ。だがそれには、人間を信じて疑わない犬を置き去りにするという、自分自身の中に芽生えた罪悪感に蓋をするという意味も含まれているのだった。
「最初の予定通り、遊園地に寄って帰ろうか? ここからは結構近いんだよ」
「うん」カナエは小さな声で返事をした。
「やっぱり折り紙で良かったんだ。私の家族はリョータだけだよ」と付け加えた。
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