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そこはリョータだけが知っている秘密の場所だ。深さ的には極めて浅い浅層に相当し、地上の喧騒が排水口などを伝って流れ込んでくる。そこから覗き見る地上の風景が、リョータは好きだった。ゴミも多いし、埃っぽい感じもしたが、それでも道を行き交う人々を特に理由も無く眺めていると、時が経つのも忘れてしまったものだ。煌びやかな灯りが瞬くそのエリアは、夜中になっても人通りが途絶えることは無く、いやむしろ夜中の方が活発に活動する街だった。酔っぱらって大声で騒ぎながら歩く一団や、そこに寄り添うようにして歩く身なりの良い男達。街灯に向かって嘔吐する奴や、植木の陰で眠り込む奴。落ちている、まだ火の付いた煙草を拾って美味そうに吸っている奴もいる。原色が溢れる通りを軽やかな足取りで泳ぎ回る、際どい服を身にまとった女達は、行き交う男に声を掛けてては
その刺激的な風景と共に、リョータの心を奪ってやまないのが街に溢れる音楽だ。彼がここに来て何時間もの間ジッと外を眺めていられるのは、聴いたことも無い雑多な音、音、音に魅せられているからに他ならない。そこらじゅうの店から漏れ出てくる無秩序な音楽が混然一体となり、大きくて透明な獣が吼えているように聞こえる。いや、この街全体が一つの生き物であるかのように蠢いていると言った方が的確だろうか。リョータにとっての音楽とは、この薄暗い排水口から聴こえるものが全てであり、ピコピコという不思議な電子音も、何かの楽器の音も、男が歌う歌声も、女が歌う歌声も、全てが新鮮で強烈な印象を伴って彼の脳裏に浸み込んだ。その音楽に乗せられた歌詞も、リョータの知らない遠い異国での出来事のように魅惑的に響くのだった。
いつものように、街が奏でる音の波に心を泳がせていると、リョータの敏感な聴覚が、音の洪水の中にふと耳に残る音階を捉えた。彼は目を瞑ってその音に意識を集中する。騒音をふるいにかけ、雑音の中に紛れながらも彼を惹きつけている微かなメロディに心を添わせる。するとそれは、ありありとした実体を伴った歌となってリョータの心に響いて来るのだった。
それは今までに聴いたことの無い歌だった。シンプルだが力強い旋律に、心のひだをくすぐる歌詞。リョータは一瞬にしてその歌の虜となった。
♪
気分次第です僕は
敵を選んで戦う少年
叶えたい未来も無くて
夢に描かれるのを待ってた
そのくせ未来が怖くて
明日を嫌って、過去に願って
もう如何しようも無くなって叫ぶんだ
明日よ、明日よ、もう来ないでよって
そんな僕を置いて
月は沈み陽は昇る
けどその夜は違ったんだ
君は僕の手を
♪
その印象的なメロディラインはリョータの心に刻まれた。歌詞の意味は正直言って判らない部分も有るが、それでも彼は心の中でリフレインするそれをしっかりと抱き締めた。それはアッと言う間に
通りを流れる
女の子だった。白いシャツに膝上くらいの水色のジャンパースカート。どちらも薄汚れていて、所々擦り切れている。足は・・・ 裸足だろうか? リョータの居る所からは、彼女の足元までは見通せなかった。浅黒い肌にギョロリとした目。髪はボサボサで痩せていて、栄養状態は悪そうだ。酔っ払いが眠りこける植木の横に座り込んだ彼女は、その汚れ切った顔から印象的に覗く両目で辺りをキョロキョロと見回している。通りを歩く大人達は彼女が目に入らないのか、或いは見て見ぬ振りをしているのか、とにかく気に留める様子も見せずに行き交った。リョータは思わず行動を起こした。
今いる所から右手に暫く行くと、側孔が交差する四つ角の分岐が有る。そこを更に右に進めば、グラグラになったマンホールから容易に地上に出られるのだ。通常のマンホールは重くてピッタリと嵌っているので、リョータの様な子供には押し上げることは難しい。ところが、そこのマンホールだけは何らかの理由により変形したまま放置されていて、下から押し上げるだけで簡単に外へと出ることが出来た。
それが有るのはビルとビルの狭間に残る狭い裏通りで、ジメジメした雰囲気がいかにもヤバそうだ。そこから上を見上げても、細長く切り取られたくすんだ空が垣間見えるだけで、それを空と認識できるわけではない。むしろ街のネオンに照らされた低く垂れこめる灰色の大気が、赤や黄色に染まってドームの天井のように見えるのだった。辺りには店の裏口から出された生ゴミが散乱し、餌を求めて集まるネズミや野良猫が走り回る様は、リョータ達の棲む地下とさして変わらないかもしれない。とは言え、余程の事が無い限り地上へは出ないリョータも、今はそんなことは言っている場合ではない。彼はマンホールの穴から這い出すと、先ほどまで自分が排水口の中から眺めていた広場に向かって駆けだした。
果たして彼女はまだ植木横に腰かけていて、引っ切り無しに通り過ぎる人の波を無表情に見つめていた。そしてふと視線を感じ首を巡らすと、自分の横に佇む人の存在を認めた。少女が視線を上げると、同い年くらいの少年がジッと彼女の顔を見詰めていた。彼女も少年を見詰めた。初めてだった。誰かが自分に対し、何らかの反応を見せたことが。少女が何処にいても、何をしていても、誰一人として彼女に反応しないのだ。誰も彼女を見ないのだ。少女は自分が透明人間にでもなってしまったのではないかという、錯覚すら覚えていたほどだ。
見詰め合う二人の顔は、街のネオンが放つけばけばしい光を反射して、目まぐるしく色を変えた。その時、二人の周りの空気だけが、ほんのりと温かかった。行き交う酔っ払いの話し声も、しつこい客引きの声も、店先のスピーカーががなり立てる音楽も、誰かが誰かに向けて放った怒号さえも、優しく二人を包み込んでいた。時間が止まったような感覚を二人は同時に感じていた。無言で差し出された左手を少女が掴むと、少年に引っ張られる様にして二人はビルの谷間に消えて行った。
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