第二章:リョータとカナエ

 東京の地下街には、昔ほどの賑やかさは無かった。多くの店舗がシャッターを下ろし、次に入る店も現れない始末で、封鎖されてしまった地下街も少なくない。いまだに開いている所であっても、ゴミやガラクタ、空になった酒瓶、空き缶が散乱し、誰かの嘔吐物や排泄物が干からびてもなお、胸糞悪くなるような不快な匂いを放っている。ここに出入りするのは酔っ払いやホームレス、麻薬中毒患者以外は、痩せこけた猫と怪しげな商売をする連中、及びその客だけという、いかにも裏社会への入り口という雰囲気が漂っていて、おそらく堅気の人間であれば決して近付こうとはしない、東京のもう一つの顔である。ある人によれば、こちらの方が本当の東京の素顔だそうだ。

 そんな薄暗い一角の奥まった袋小路に『J』という看板を掲げた店が有る。元はイタリアンレストランか何かであったと思われる店内には、五脚程の丸椅子を備えたカウンターに、一メートル四方の白いテーブルが六つ並んでいる。至る所に無垢材を用いた内装は、インテリアにも気を使ったそれなりにお洒落な店だったに違いなく、外国語で描かれたポスターや地中海と思しき風景画が当時のまま壁に残っているが、さすがに観葉植物などは干からびて無残な姿を晒していた。それらに描かれた紺碧の海も海岸線の街並みも今では埃を被り、くすんだフィルターを通して見ているかのようだ。テーブルやカウンターには所狭しと物が積まれていて、本来ならそれらを外から見通せるはずのウィンドウは分厚いカーテンや段ボール箱で目隠しされ、外から店内を確認することは出来なかった。

 その店が取り扱っている商品は日用品からなる消耗品の類が多いが、一部、インスタントやレトルトの食品、或いは必要最低限の医薬品なども扱っている。日用品と言っても、それは歯磨き粉や石鹸、トイレットペーパーなどの本当の意味での必需品であり、贅沢品と呼べるものは一つとして無かった。いったい誰がこんな店で日用品など買うのかと思えるのだが、心配には及ばない。だって、この店で買い物など出来ないのだから。何故ならば『J』が店を開けていることは絶対に無いのだ。


 『J』の店舗部分にドヤドヤと大騒ぎしながら少年達が現れた。しかしそれは店先からではなく店の裏側からだった。つまり『J』の表の扉は固く閉ざされながらも、本当の入り口は店の奥に存在し、それは地下に向けて開かれているのだ。表層~中層に位置するこういった地下街は、言い換えるならば奈落と地表を繋ぐ架け橋的な存在で、警察の網にも引っ掛からない店舗・・があちこちの地下街に存在した。そう、店の客は奈落の住人達なのだ。

 「アイツらの顔、見たかよ! ありゃケッサクだったぜ!」

 先頭を歩くタカヒロが言うと、その後ろに続いていたリョータが返した。

 「あぁ。あのポカーンとした間抜け面、僕は絶対に忘れないよ。クックック・・・」

 「それにしても助かったぜ、リョータ。有難うよ! 一つ借りだな」

 そう礼を述べたのは、タカヒロとつるんでいるヒロシだった。彼は今年十四歳になり、タカヒロと同い年である。ヒロシはいまだ可笑しそうに腹を抱えるリョータの肩に手を置いたが、リョータの笑いに釣られて自分も笑いだした。

 その時、奥から野太い男の声が響いた。

 「随分と賑やかじゃないか。何か面白いことでも有ったのかい?」

 リョータ達が振り返ると、店舗部分から続く隣室のドアを開けてジェイが姿を現した。両袖と両肩の辺りに焦げ茶色の糸で刺繍が施されたベージュ色の綿シャツと、腰にジャラジャラとチェーンをぶら下げたダメージドジーンズ。足元はつま先の尖ったブーツで固め、どことなくアメリカンテイストを感じさせる。少年達の様な薄汚れた感じは無く小ぎれいないで立ちだが、かと言ってパリッと決めているわけでもない。髪も清潔感を失わない程度には手入れがされていて、子供から大人への過渡期にあると言って良さそうだ。

 そんな彼の声が野太いと言っても、それは少年達と比べればという意味であって、ジェイ自身はまだ十七歳だ。しかしこの中にあって、既に声変わりした彼は一つ抜きん出た兄貴のような存在と言え、少年達の良き理解者でもあった。

 ジェイの後ろからは、マリアが顔を覗かせていた。肩まで伸びた髪をポニーテールにまとめ、白とピンクの細かいボーダーのキャミソールを着ている。下はジーンズ生地のミニスカートで、そこから延びる脚が彼女の持つ若々しさを発散していた。彼女は少し恥ずかしそうに紅潮した顔を背けていて、キャミソールの胸元には薄っすらと汗が浮き出ている。十五歳にしては豊かな胸の谷間で、ツーと流れ落ちる汗が意味深だ。おそらく少年達が店に現れる直前まで、二人はベッドの中でもつれ合っていたのだろう。タカヒロやヒロシはその様子を見て直ぐに状況を察知し、ニタニタした笑いを交わしていたが、まだ幼いリョータは全くそれに気付かないようだ。

 「そうなんだよ、マリア! 僕がタカヒロ達を助けたんだよ! ハイウェイで! マリアにも見せてあげたかったなぁ」

 彼女は無邪気な弟に話を合わせるかのように、ニコリと笑って応じた。

 「そう? 頑張ったのね、リョータ」

 「えっへん!」リョータは得意満面だ。

 「で、今日は何が要りようなんだい? 一昨日、シャンプーが入荷したけど、持ってゆくか?」ジェイがテーブル席の椅子に腰かけながら聞いた。


 ジェイが薄汚れた地下街でこのような店を開くようになった経緯は誰も知らないが、奈落に巣くう少年達にとって、こういった店が提供する物資は生命線とも言え、ジェイはそれらの必需品を無償で提供していた。本人は「放っておけないだろ?」とうそぶいてはいるが、それが本心からなのかは判らない。従ってそこは、店と言うよりもむしろ配給所と言った方が的を得ているわけだが、それらの物資がどういうルートでこの店にやって来るのか、その目的が何なのか、その活動資金は何処から出ているのかマリアすらも聞かされてはいない。少年達の中にも、そこを根掘り葉掘り聞く者はいなかった。明日をも知れぬその日暮らしの少年達には、そんなことはどうでもいいことだからだ。

 「今日は食べ物を分けてくれよ。レトルトじゃなく缶詰」とタカヒロ。

 「いいよ。好きなだけ持って行きな。でも無駄食いはするなよ。豊富に有り余ってるわけじゃないんだからな」

 「判ってるよ。この缶切りが要らないヤツが良いな! パカッて開けられるヤツ! あっ、あとトイレットペーパーも無くなりそうだ」

 ヒロシは、かつてはレストランのカウンターとして使われていた所に積まれた、ティッシュの箱やロール紙を突きながら言った。その時、この店に来てから一言も喋っていなかったシノブが、遠慮がちに口を開いた。と言っても皆に聞かせる為ではなく、同じ女であるマリアにだけ、そっと話しかけたのだ。彼女はいつもタカヒロ達と行動を共にしていて、今日大人・・に追われていた時からずっと一緒に居たのだ。

 「ねぇ、マリア・・・ あれ、有る?」

 シノブの意味有り気な口振りに、マリアは直ぐに真意を察知した。

 「タンポンでいい? ナプキンは今品切れなんだ」

 「うん、タンポンで構わない」

 マリアはカウンターの奥に回り込むと、その陰から四角い包みを取り出してシノブに手渡した。その素早い動きには、あちらのテーブルでゲラゲラ笑っている男性陣には気付かれないような配慮がなされていた。

 「ありがとう」

 シノブが礼を言ってポケットにそれを仕舞い込むと、マリアは更に声を潜めた。

 「シノブ、あんたいくつになった?」

 「うんと・・・ 十二かな」

 「コンドームはちゃんと付けさせてる? タカヒロって、その辺はちゃんとしてくれてるの?」

 「うん、タカヒロは付けてくれるんだけど・・・ ヒロシは付けてくれないんだ」

 それを聞いたマリアの声のトーンが上がった。

 「ダメだよ、そんなの許しちゃ。付けないんだったらヤらせないって、突っぱねていいんだからね。言い難いんだったら私が言ってやろうか?」

 そう言って顔を上げると、談笑する男たちに向かっていきなり声を張り上げた。

 「ちょっとヒロシ、こっちに来な! 話が有るんだ」

 それを聞いたシノブが、マリアの腕にすがる様にしながら慌てて言う。

 「あっ、いいよ、いいよ。自分で言うから」

 しかしマリアは、そんなシノブを完全無視だ。そしてヒロシがヘラヘラ笑いながら二人の元にやって来ると、彼女はいきなりヒロシの頭を拳骨で殴り付けた。

 「わっ! 痛ぇ! 何すんだよ、マリア・・・」

 「何すんだじゃねぇだろっ! ちゃんとゴム付けろって言ってんじゃん、このバカ野郎!」

 ヒロシは自分の頭を抑えながら、先生に叱られているいたずら小僧のように唇を尖らせた。シノブは恥ずかしそうにしながらも、姉貴分のマリアに頼もしさを感じた。

 「ちゃんとしないとどうなるか・・・・・教えたよね? 判ってんのあんた!? 冗談で言ってんじゃないんだからね!」

 「判ったよ、判ったってば・・・」

 更に二発目の拳骨を振り下ろそうとするマリアに恐れをなしたヒロシは、頭を抱えるように首をすくめた。その姿を見たマリアは「チッ」と舌を鳴らすと、再びカウンターの向こうでしゃがみ込んで、今度は先ほどより小さな包みを取り出した。

 「じゃぁ、これも持って行きな」そう言ってシノブに手渡した。

 「うん、ありがとう」シノブはそれを、タンポンが入った方とは逆のポケットに突っ込んだ。

 そのやり取りを聞いていたリョータが、不思議そうな顔で聞いて来た。

 「ねぇ。ゴムって何? ちゃんとしないと、何がどうなるの?」

 その場に居るリョータ以外の全員が苦笑いを浮かべた。ジェイは椅子から立ち上がると、リョータの肩に腕を回しながら優し気に言った。

 「今度教えてやるよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る