「うわぁぁぁ・・・ 広い」

 (ろい・・ ろい・・ い・・・ い・・・)

 降り立った松尾の声は、サッカーが出来そうなほど広い地下空間の壁に反射して木霊した。そこには等間隔に取り付けられた照明が灯り、奥行きが何処まで続いているのかすらも見通すことが出来ない。その空間の高さは三十メートルほどもあり、何列にも並んだ巨大な柱が遥か上空の天井を支えるように林立している。それはまるで首都高を支える橋脚のようにも見え、そのスケールの大きさが見る者を圧倒した。この大都会東京の地下には、こういった巨大な貯水設備が数多く存在し、中にはある水系から別な水系へと排水をバイパスする為のものも存在する。

 忘れもしない二〇一九年に史上最大の台風十九号が首都圏を襲った際にも、これらの地下設備は活躍したが、それでも各地の水害を抑止することは出来なかった。その教訓を踏まえ、特に東京では更なる地下排水設備の拡充が重ねられてきたのだった。それらは二人が歩いて来た下水道とは明らかに一線を画し、むしろ近代的な構造建築物である。古い下水道では、地上と無線通信することは出来ないが、この深層では、場所によっては本部と通信できる中継基地を備え、水位監視用の遠隔カメラすら設置されているエリアが点在していた。

 二人が立っているのは、その空間の壁面にしつらえられた展望台の様な出っ張りで、つまりその広大な空間の床面は、そこから更に下に有るということだ。須藤は下へと続く階段を降りながら説明を加えた。

 「ここが東京都が誇る雨水貯留槽さ。地上で集中豪雨とかが有って排水が間に合わなかった時、溢れ出た水を一時的に蓄えておく、いわゆる水瓶だな。少年達はこの巨大な管を『ハイウェイ』と呼んでるそうだ」

 「つまりここが・・・」

 「奈落へようこそ」須藤がおどけて笑った。

 「へぇ~・・・ これが・・・」

 物珍し気に辺りをキョロキョロと見回す松尾に、須藤が渋い顔で釘を刺す。

 「遠足に来てるんじゃないぞ。俺たちはリョータを追ってるんだ・・・ と言っても、この巨大な水瓶から延びる、どの側孔に奴が潜んでいるのかも判らないがな。もっと言えば、ハイウェイに奴が逃げ込んだかすらも確証は無いんだが・・・」

 その時、貯留槽の奥から微かに人の声が聞こえた。二人の表情は一瞬にして緊張し、声がした方を凝視した。

 「※▽#◆◎%!」

 この閉じた空間内で反射した声は、幾重にも折り重なって不明瞭となり、何と言っているのかまでは判らない。しかし明らかにその声は子供のそれではなかった。成人男性が何やら大声を上げているのだ。それに合わせて、ペタペタと走る複数の足音がこちらに向かってくるようだ。

 「SJ3かもしれません! ひょっとしたらYY1かも」

 「よし、無線で誰何すいかしてみろ」

 『こちらSJ2、SJ2。ハイウェイで行動中のセグメントは誰か!?』

 ザーザーというノイズ音に続いて、回線が開くピッという音が聞こえた。

 『こちらYY1。はぁ・・・ はぁ・・・ 只今、SJ3と合流して・・・ (むじな)のメンバー三名を追跡中! はぁ・・・ 貯留槽を北に向かって追い立てています!』

 走りながら無線通信をしているのだろう。弾む息がその臨場感を伝えてきた。声の主は松尾も知っている四谷署の女性刑事だ。松尾とは異なり、同署の生活安全課から刑事課に回って奈落の少年達を担当している。

 松尾は須藤の顔を見た。須藤が黙って頷くと、再び松尾が無線機に向かった。

 『了解。もう直ぐターゲットが我々の視界に入ると思われます。側孔に入られないようにして、そのまま追跡を続けて下さい』

 通信を終えると、柱の陰に移動した須藤が顔だけを覗かせるように貯留槽の奥を見据えているのが見えた。松尾もそれに倣い、別の柱の陰に身を隠す。立ち並ぶ柱の奥に目を凝らしながら須藤が言った。

 「来たぞ。少年達がこちらに向かって走って来る」

 「はい。見えました。その奥に仲間の姿も見えます」

 「ギリギリまで引き付けよう。あの中にリーダー格は居るか?」

 「多分・・・ 左の壁伝いに走って来るのがタカヒロだと思います。それ以外は・・・ ブラボーとデルタではないでしょうか」

 「よし、じゃぁそのタカヒロとかいう坊やに優先順位を付けよう」

 「はい」

 松尾がゴクリと唾を飲み込んだその時だった、須藤達が入って来た壁とは反対側の壁に敷設されている展望台に、もう一つの人影が現れた。リョータであった。

 「タカヒロっ! こっちだっ!」

 リョータの叫び声に導かれるように上を見たタカヒロ達は進行方向を変え、一斉にその展望台への階段を登り出した。リョータの立つ展望台の端から一メートルほど離れた壁面には、子供が一人入れる程の太さの側孔が開いており、リョータは忍者の様な軽い身のこなしでその穴に飛び移った。彼はいとも簡単にそれをやってのけたが、一メートルも横に飛んでそれに辿り着くのは至難な業だろう。もし一歩間違えば、五メートルほど下のコンクリートに向けて真っ逆さまに転落してしまうのだから。おそらく彼はその穴に潜んで、ずっとこちらの動きを窺っていたのだ。

 「クソ。あんな所に隠れてやがったのか」

 須藤がそう言っている間にも、松尾は本部に無線を入れていた。

 『(からす)が(むじな)と接触しました!』

 展望台に到達した子供達は、壁の穴から身を乗り出すリョータの腕を掴んで、次々に穴の奥へと引っ張り込まれていった。それこそ、箱から鳩を取り出す手品映像の逆再生を観ているかのようだ。そして最後の一人が穴の奥に消えた頃、やっと展望台の登り口にSJ3とYY1がドヤドヤと辿り着く有様だった。しかし、刑事たちが展望台に登ったところで、そこから離れた所に開いている穴に取り付くことすらできないだろう。たとえ飛び移ることが出来たとしても、大人がスルスルと入れるような太さの穴ではない。

 去り際にリョータが顔だけを覗かせた。その時、須藤は自分とリョータの目が合ったような気がしたが、彼は直ぐに頭を引っ込めてしまった。展望台の手摺にまで辿り着いた大人たちがガヤガヤと地団駄を踏んでいる間に、子供達は安全圏へと姿をくらましたようだ。須藤は彼らを取り逃がしたことを悔しがる風でもなく、黙ってその顛末を見上げていた。年老いた刑事が己を奮い立たせるような瞬間は、もう二度と訪れないのだろうか? 須藤の横顔を盗み見た松尾の顔には、少し悲し気な表情が浮かんでいた。

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