ショク2

 病室でひとり首をかしげていると、控えめなノックの音に意識を引き戻された。

 ──コン、コン、コン。

 すわお叱りか、と思わず身構えた僕だったが、続く声が耳慣れたものであったことに安堵の息を吐いた。

「ツクモくん、いる?」

「あ、はぁい」

 やや間が抜けた返事になってしまったのも、きっとそのせいだ。そういうことにしておく。

「出てこられそうだったら、談話スペースでちょっと話さない?」

「大丈夫。ちょっと待ってて、モモ。今行くよ」

 僕は若干慌てながら、よっこいしょ、と重い身体を持ち上げた。



「ツクモくん、さ。自分から談話スペースこっちに出てくること、あんまりないよね」

 苦手な子でもいるの? と僕に問いかけるのは、モモ。

 僕と同様、この病棟においては年長組にあたる女の子だ。

 彼女の手首にも僕と同じく、患者識別用の無機質な腕輪がある。

「そういうわけじゃないんだけど。『なんとなく誰かと話しに行く』みたいなの? 毎日やる気はしないんだよね。ほら、見知った顔ばかりだし、身体は重いし、点滴も邪魔だしさ」


 身体を支えて動きを助けてくれるからと着せられている特殊な服は、しかしむしろ余計に身体を重くしているような気がする。動きづらくて鬱陶しい。

 治療のために必要だからと繋がれてはいるものの、点滴はやはり邪魔くさい。


 これらを引き摺ってまで、わざわざひとりで談話スペースまで行こうという気は、なかなか起きないものだ。

 ……なんだか言い訳がましくなってしまったが、言ってしまえば億劫なのである。どうやら僕は、存外出不精な性質であるらしかった。

「えー? 折角せっかくなんだから、出てきたらいいのに。病室へやにいるのも退屈だし」

「うん、まぁそうなんだけどね。病室へやでぼーっとしてるのも、そう悪くはないと僕は思ってるよ。ほら僕、結構引っ込み思案だから」

 少しだけ冗談めかしてそう言ってみれば、彼女は「もー」と小さくむくれてみせた。

「そんな調子じゃ、いつか退院する日が来たときに苦労するよ、ツクモくんは」

「あはは」

 いつか。退院する日。外へ出られる日。

(……僕にはその『いつか』は訪れるのだろうか?)

 曖昧に笑いながら、不穏な思考を打ち消す。

「私はツクモくんと話すの、結構好きなんだけど。……迷惑、かな」

 おずおずと問われ、僕は狼狽うろたえる。

「いやいや、そんなことは。ほら、僕あんまり自分から行くタイプじゃないだけで、別に話すのが嫌っていうわけじゃないし。モモが話しかけてくれるのは……その、嬉しいというか」

「ほんと?」

「うん」

 良かったぁ、と破顔するモモ。

 可愛いなぁ、と思いながらその顔を眺めていると。当然と言うべきか、はたと目が合って、我に返った。

「……」

 なんとなく気まずくなって、お互いに顔を逸らす。

(モモといると、しちゃうんだよな……)

 努めて平静を装うべく、僕は談話スペースを見回した。

 見慣れた顔ぶれが思い思いに過ごしているのみで、そこにレイの姿はない。

「ツクモくん? その、どうかした?」

 僕にそう呼び掛けるモモの声も、心なしか平素より僅かに上擦っている気がした。

「あぁいや。モモはもうあいつに会ったかな、と思ってさ」

「あいつ?」

 小さく首を傾げる彼女に、僕は頷いてみせた。

「うん。レイっていうらしいんだけど」

「レイ……ちゃん?」

 彼女の反応を鑑みるに、どうやら心当たりはないようだ。そうあたりをつけて僕は続けた。

、かな。人目を引く綺麗な子なんだけど……可愛げはない、と思う。なんというか、してるんだよね。それこそ僕たちと面識がないぐらいだし、結構大変な病気なんじゃないかとは思うんだけど」

「へぇー。私も会ってみたいな。でも見当たらないってことは、部屋でお休み中なのかな」

「うーん、どうだろう」

 挨拶と称してまた規則違反をして誰かの部屋に入り込んでいるんじゃなかろうか、と、言葉には出さず苦笑する。

「僕もそこまで長く話したわけじゃないから、あまり勝手なことは言えないけれど。気まぐれな印象だったから、いずれふらっと顔を出すんじゃないかな、気が向けば。……って、どしたのモモ」

「……ふふ」

 何か思うところでもあったのか、なにやら不可思議な色を帯びた視線。思わずその意図を問えば、やはり含みのある笑顔が向けられた。

「な、なに」

「ううん? 直接会ったわけでもないのに、ツクモくんからの話だけでこう言うのもどうかと思うけれど。……どこか似てるね。ツクモくんと、レイくん」

「え」

 思わず顔が強張る。

 何と言ったら良いのかはわからない。

 わからないが、彼と一緒にされるのは少し、……そう、少しばかり心外だった。

「……似てる?」

 おずおずと確認するが、やはり肯定されてしまった。

「うん。うまく言えないけどね」

「……」

 揶揄からかわれているような気もして、少しばかりいじけながら窓の外へと目を向ける。

 そこにはやはり、今日も青空が広がっていた。


「ツクモくんさ。よく空を見てるよね」

「うん」

「その……飽きたり、しない?」

「……どうだろう」

 実のところ、僕にもわからなかった。

 眺めるときの心持ちにもよるのだろうが、のが良い、と思う。

 束の間とはいえ、雑念や狭い世界のしがらみを忘れられる。まだ見ぬ外の世界を夢想して希望を得ることもできる。それが良い。

 この感覚を、飽きるとか飽きないとか、そういった言葉で表現するのは、なんとなく相応ふさわしくないような気がした。

 たどたどしくそう言葉を紡げば、「ふぅん」という反応。

 気を悪くしたかと様子を伺うが、どうやらそうでもないようで。

「ツクモくんは、外の世界でやってみたいことってある?」

「え。……あるには、あるけど。そう言うモモは?」

「私かぁ。色々あるよ。そうだなー、森林浴、ピクニック。あとはそう、将来はお花屋さんになってみたいな」

 ちょっとベタだけどね、と彼女は照れたように笑う。

「イロハちゃんあたりは、入院が長すぎて病院以外のところにいる自分なんて想像もつかない、いっそ医者にでもなろうか、なんて言ってたっけ」

「ふーん……」

(皆、やっぱり色々考えてるんだな)

 あ、とモモが声を上げる。

「そろそろの時間だね。戻らないと」

「そうだね」

「いつか外に出る日のために、頑張ろうね、お互い」

「うん。……外に出たら、か。また、話してもいいかな」

 別れ際、モモは笑顔だった。

「勿論。じゃあ、また明日。部屋の前まで迎えに行くね」

「ありがとう。……また明日」



 1日の終わり。

 僕は自室で眠りに就く。

 わずらわしい点滴とも、この時ばかりはおさらばだ。

 眠りに落ちるまでの束の間、今日の出来事を思い返す。


(レイ。不思議な子だったな)

 ああいうタイプの子は、ここでは珍しい。また話してみたいな。


(僕たち、そんなに可哀想に見えるのかなぁ)

 を教えに来る先生たち──医療スタッフではなく、外部から招かれた教育者であるらしい──が、僕たちに教育を施すかたわら、時折見せる表情。

 あれは、そう。

 ──憐憫れんびん、同情。

 紛れもなくに類する眼差しだ。……時折、憐憫を通り越して、何か恐ろしいものでも見るような目を向けられることすらあった。

 まぁ、病気を持っていて、いつ終わるとも知れない治療に耐える以外なくて、病院の外の広い世界を知らない子供たちは、健全な大人の感覚からすれば確かにあわれに見えるのかもしれない。

 先生たちの入れ替わりはそれなりに激しく、着任してすぐいなくなる人もそう珍しくはなかった。

 僕の先生も、一週間ほど前に交代し、前任者は姿を消した。

 やはり人によって合う合わないはあるのだろう。


(それにしても、『お花屋さんになりたい』、か)

 彼女はベタだと言っていたが。

 ──広大な野原を、思い切り走ってみたい。

 ──青い空の下、外の空気を思い切り吸って、この肺腑を満たしたい。

 僕が思い浮かべていたのはで、その先のことなど、まるで考えが及んでいなかった。


 僕は何を成し遂げたいんだろう。

 ──僕に何ができるんだろう?

 何者になりたいんだろう。

 ──何者にならなれるんだろう?


 そんなとりとめのないことをぼんやりと考えているうちに、僕の意識は眠りへと落ちていった。

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