崩壊
『ツクモ』
──レイ?
『君は、空の下──外へ行きたい?』
──決まっている。行けるものなら行きたいと、ずっと願ってきた。けれど……。
『真実を知りたい?』
──それは、どういう意味?
『それが、どんなものであっても?』
──レイ? 君は、何を……──。
どこか遠くで、誰かの泣き叫ぶ声が聴こえた気がした。
「おはよう、ツクモくん」
「──、おはようございます」
「うん。昨日はよく眠れた?」
毎朝、目を覚ます度に行われる、お決まりのやり取りだ。
特に僕らのように、入院が長期化している
精神的な変調の兆候が、ことわかりやすく表れる睡眠は、毎日確認される決まりになっている。
医療スタッフ、もといカウンセラーから、よく眠れたか、夢を見たとすればどんな夢かを
「はい。特に問題はありませんでした。──うぐ、頭いた……」
ずきりと痛む頭に手を
「ツクモくん。……夢は? 何か覚えていることは?」
「え……」
実際のところ、寝起きに頭痛がすることは時々あった。あまり寝たような気がしないことも。
それを正直に申告しては、今のように少々入念に確認が行われるのだが。基本的に僕は夢を見ないものだから──覚えていないだけなのかもしれないが──、簡単に返答しては『うとうとできそうなら
「そう、ですね。いつもより、なんとなく倦怠感が強いような。……あとは、レイが──」
「……れい?」
俺が何気なく発した一言に、カウンセラーが眉をひそめる。
「前いた子たちの亡霊や幻影に
(あれ?)
違和感。
「レイはレイです。ほら、綺麗で、ちょっと生意気な、あの子ですよ」
最近までこもりきりだったとは言っていたが、僕ら
そう思って言い募るが、彼はますます表情を険しいものにしていった。
「……せんせい?」
「……あぁ、すまない」
私も少々疲れているみたいだ、と笑顔を作ってみせるカウンセラー。その顔色は確かに優れないが、それは果たして本当に疲れによるものか。
「応援……代わりの人を呼んでくるから、君はしばらくここで待っていてくれ」
「はい。……あ、」
応じかけて、しかし僕は思い出す。
「カウンセリング、長くなりそうですか?」
「や、どうだろうね。……どうしてだい?」
眼鏡の奥の瞳を瞬かせて、彼は問い返す。
「いえ、大したことではないんですが、今日はモモと約束をしていて。部屋の前まで迎えに来ると言っていたので、もし長くかかるようなら一言断りを入れておいたほうがいいかな、と」
「──ッ」
「……せんせい?」
モモの名前を聞いて、彼の喉がヒュッと音を立てたのがわかった。
ざわり、と胸が騒ぐ。
「モモに何かあったんですか?」
「モモは……、モモはもういないよ。退院したからね」
「は……。嘘だ」
話を一刻も早く切り上げたい、そんな素振りで硬い口調で言ってのける彼に、僕はなおも食い下がる。
「『また明日』と、言っていたんですよ……? それがどうして退院だなんて話になるんですか。急変? 死亡退院? いやでも、それにしたって……」
昨日は元気そうだったのに、どうして。
「あぁそうだ急変だとも。それに、なにより君が──」
彼はそう言いかけて、はっと我に返ったようで。続く言葉を飲み込んで、口を
「せんせい。今のはどういう意味ですか」
「いや、なんでもない。……忘れてくれ」
彼はがしがしと頭を掻いて、大きく息を吐く。
「とにかく。大人しくしていてくれないか。私は上の対応を仰がなければ」
制止する
「やあ」
入り口近くに、またしても彼が立っていた。
面白いことになってるね、と微笑を向けられて、頭にかっと血が上る。
「モモちゃん……だっけ? 残念だったね」
「レイ。おまえ──」
のろのろと立ち上がり、彼のもとへとにじり寄る。
「おっと、まぁ少し待ちなよ。……そろそろ頃合いだからね」
「は──」
ばたばたと
「ツクモくん、少し落ち着いたかな」
「モモちゃんのこと、本当だったらまだ君に聞かせるつもりはなかったのに。ごめんなさいね」
「君が動揺するのも無理はない。大丈夫、大丈夫だから」
三者三様、思い思いの言葉を投げ掛けられて、僕は戸惑う。
「え、なに、なんですか」
「まあまあ。それより、一度別室に行こうか。他の子に要らぬ不安を与えたくはないし、君とはきちんと話をしないとね」
「え、待ってください。ちょっと……!?」
有無を言わさぬ勢いに
「きゃああ!」
「……え!?」
病棟は、真っ暗になってしまった。
そう、文字通りの真っ暗闇だ。
否、
本来あるべきはずの、窓からの自然光と言うべきものが、一切差し込んではこなかった。
先程までは、朝の目覚めに
窓の外──否、僕らがこれまで窓だと思っていたものの先には、何もありはしなかった。
ただ、完全なる闇が広がるのみだった。
(なんだ、これは……!?)
ずぅうぅ……んという重い衝撃が、建物全体を揺るがした。空間がびりびりと震える。
「敵襲か!? そんな
「まさかここが露見するとは……」
「まずいぞ、防護服を! 隔壁は作動するか!?」
「電源喪失! 隔壁は手動でやるしかない!」
「誰に行かせる!? 指揮を!」
「通信も妨害されているぞ!」
「おかしい、流石に手際が良すぎる! 内通者がいるのでは!?」
「憶測で物を言うな! 状況把握が優先だろう!」
慌ただしく動き出す医療スタッフたち。
(いや、この動きはまるで──)
あまりにも現実感のない光景に、まるで理解が追い付かない。
(待って、待ってくれ……)
飛び交う怒号の中、僕の視界がぐらりと揺れる。
その刹那。
「これでわかってもらえたかな」
僕と彼は、どこでもない別の空間にいた。
「レイ……」
ピンクで、青で、紫で、オレンジで、暗くて明るい。高熱に
「……わからないよ」
震える声で
何もかもが致命的にひっくり返ってしまったことだけは、
「僕に見えていた、ちっぽけな世界はすべて偽物で。焦がれていた外は──空は、
「うん」
彼が打つ相槌の、その声色が優しくて。僕は泣きそうになりながら言葉を紡ぐ。
「レイ。ねぇレイ」
「うん」
「ここは……僕たちは、いったい何なの……?」
僕の問いに、彼は慈母のように
「俺が言葉で説明するよりも、思い出してもらったほうが早い気もするけどね」
そう前置きして、彼は語る。
「ここが普通の病院ではないことはわかるだろう?」
「それは……、うん」
「ここは軍事施設だよ。戦争の末、汚染地帯と成り果てた山の地下深くに、隠されて存在する、ね」
「…… 」
「君たちは、彼らの大切な
沈黙する僕をよそに、彼はなおも語る。淡々と。
「被験体九十九号。……被験体一〇〇号の脳の味はどうだった?」
「──っ!?」
そう聞いた途端、ガツンと殴られたような衝撃が僕の頭を襲う。
──泣き叫ぶモモ。
──目を覚ましてと乞う声にも表情ひとつ変えることなく私に手を伸ばすツクモ。暗転。
──彼ら彼女らの、恐怖の眼差し。悲鳴。
──俺は見過ごせなかった。人体実験に、強力な催眠……洗脳。非人道的だと上層部に抗議し、子供たちにも余計なことを言ってしまった。そのために、よりによって
「うぅぅうぅ……!」
僕は誰だ?
自分であって自分でない誰かの、僕たちの、私の、彼らの、記憶が次々と
わからない。
僕のかたちがわからない。
……ぼく……?
「ありゃ、性急すぎたか」
私(ぼく?)の眼前で、レイと名乗る彼(誰?)は
「まぁでも時間ないし仕方ないか。大丈夫」
彼は語る。まるで歌うように。
「俺が君のかたちを思い出させてあげる。君はツクモくんだ」
「……違う」(違わない)
「私は」(僕は)
「だってこんなにも
あはは、とレイは笑う。
「想像以上だね。脳を
言われて身体を見下ろせば、女のものと思われる胴体と、おそらく幼児と成人男性の、長さの釣り合わない両腕。
(あぁ、本当に──)
歪な身体を見慣れた形に整えて、僕は少し冷静さを取り戻す。
「レイ。ねぇレイ」
「うん」
「僕が、僕がモモを
どうにか否定してほしくて、
「君が一番よく知っているだろう? 見て、識って。それに、さっきの姿が、何よりの証左だ」
「……」
「何故か急に催眠が効かなくなって
(モモ……)
「ねぇ、ツクモ」
へたり込み沈黙する僕に、彼は続けて問うた。
「君は、これからどうしたい?」
「これから、って……」
「君を取り巻く世界は崩壊した。だからこそ、君は選ばなければならない」
君も知っての通り、と彼は前置きする。
「ここはただの病院ではない。君はただの病人ではない。君が憧れた窓の外は、奥行きのある
それでもここに残ることを選ぶというならば、と彼は人差し指を立てる。
「きっとここの連中はもう一度君に催眠をかけて、
「ここに、残る……」
「ああ。それもひとつの選択肢だ」
彼は頷く。
「ここの外は、君が思うような平和な世界ではない。世界的な戦争のおかげで、情勢は不安定だ。地上は、空は、君が観ていた映像とは違って、けして綺麗なもんじゃない。……ここ、汚染地帯だし」
選んでほしいのだと、彼は重ねて訴える。
「それでも外へ行くことを、過酷な自由を得ることを選ぶのであれば。どうか俺と一緒に来てほしい」
差し出される手に、僕は逡巡する。
「君も気付いているとは思うけれど、俺は人の精神に干渉できる。君が
悪い話ではないはずだよ、と彼は
「どうかな、ツクモ」
「……わからないよ。どうするべきなのか、何をするのが一番正しいのかなんて、僕にはわからない。何もかも急で……。今だって、すごく混乱してる」
でも、と僕は頭を振る。
「もうここにはいられない。それだけは確かだよ」
「……ツクモ」
僕は自ら彼の手を取り、選択した。
「僕は外に出る。詳しい話は、それからだ」
「そう。……うん、わかった」
ありがとう、と
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