弔走

参径

__ has gone, but we're gonna

 車を停めて降りると、凍てつくような風が吹きつけてきた。夜も近く、さすがに人の影はない。


 県境の峠は、以前は交通の要衝だった。だが昭和の終わりかけにバイパスが完成してからは見向きもされなくなり、結果、不良や半グレ、暴走族や走り屋の溜まり場となった。さすがに行政もこれを看過できず、県警の機動隊を投入することでどうにか収まりを見せたが……峠に以前のような活気は既になく、かといって暴走族がたむろするでもなく、ただ寂れ、忘れ去られていくだけの存在と化していた。

 私はその頂上付近――それこそ、走り屋が集っては日夜騒音を撒き散らしていたような――の駐車場にいた。視線の先――数メートルと離れていないところには、髪の長い女が立っていて……私が一歩踏み出すと、ゆっくりと振り返った。

「……お巡りさん?」

 ハスキーなハイトーン。彼女は私のことをそう呼ぶ。呼んでいた。感情は薄いが柔らかい声音で、女は言った。声だけははっきりと通るが、肌がやけに白く、服装も飾り気のない白いコート。まるで幽霊みたいだ……と、稚気の籠もった感想を抱いたところで、あながち冗談にもならない、と、悪寒が背中を駆け上がる。

「――5年前までは、ね」

 私の声は震えていた。5年も経てば、少しは記憶も薄れてマシになるんじゃないかと思っていたが、そんなことはなかった。思い出さない日はなかった。常に記憶は鮮明で、脳裏から離れることはなかった。部長は私の責任ではないと言ってくれたが、私は、目の前で消えていった命の灯火を、ただはっきりと覚えている。

 女は……今目の前にいる女は、おそらくもっとも世界で私を恨み、また憎んでいたが、しかしそれを表に出すことはなく、5年を――恋人を喪ってからの5年を、ただ虚ろに、心休まることなく生きてきた。5年前はこうじゃなかった。髪には派手なエクステ、ブランドものの財布にチェーンを付けて、当時流行りのギャル系ファッションで、車の助手席から私たち機動隊に中指を立てていた。

 その面影が消え去って、今はただ、そうまるで未亡人のように――否、彼女の境遇を思えば未亡人そのものだろう――薄い笑顔をもって、佇んでいる。本物の不良で、社会のはみ出し者だった彼女を懐かしむ気はないが……少なくとも、あの頃のような生命力は感じられない。


「警察、辞められたんですね」

 女は静かに、抑揚のない口調で、微笑みながら言った。驚きもなく、ただ予定調和だと言わんばかりに淡々と。当時高校生で、補導の度に何かにつけては文句と屁理屈を述べていた彼女とは、まったくの別人だった。

「今日は、どうしてここに?」

「毎年、来てるから」

 私の車の助手席には花束が置いてある。供花だ。

「罪滅ぼしですか?」

 彼女の言葉が突き刺さった。呼吸が詰まった。そうだ、罪滅ぼし。自己満足の偽善感情……私は強く、下唇を噛み締めた。

「……」

「顔を上げてください! その……責めたわけじゃないんです」

 彼女は少し慌てた様子で弁明した。

「ごめんなさい。その……あなたの気持ちも、わかってる……って……そういうつもりだったのかも知れません」

 ごめんなさい。ぺこりと頭を下げる。丁度そこに風が吹いて、ダークブラウンの髪をぶわりと揺らした。

「でも……」

 顔を上げた彼女は言い淀む。瞳に、僅かばかりか生気が宿ったような気がする。

 息を吸い込み、ほんの少しの間逡巡して――彼女は言った。

「あなたのこと、許そうとは思っていません」

「…………」

 ああ、良かった、と、私は場違いな安堵を覚えた。下手に責任から解放されると、感情が行き場をなくしてしまう。

 あの事故は私のせいだ。私が半ば強引に彼を追いかけたりしなければ、あのCR-Xがブレーキのタイミングを誤ることもなかった。

「……ごめんなさい、言ってることが二転三転して……正直、まだ長い夢を見てるんじゃないかって、そう思うこともあるんです」

 彼女は言った。

「でも、たくがいなくなったのは本当です。彼はこの峠で、車ごとガードレールを突き破って、折れたステアリングシャフトが喉に刺さって、死んだ。それは――できれば、悪夢だってことにしたかったけど」

 現実に起こったことなんです。彼女は、改めてそれを定義するみたいに、強く言った。

「……あなたも」

 花を供えに? 訊こうとしたが、彼女は何も手に持っていなかった。

 なんとなくわかってはいた。今日が拓也の命日であることも、私と同じで彼女も、まだそのことに踏ん切りをつけられていないということも、私とは違って彼女は、彼の死を少しでも忘れてしまうことが恐いのだろうということも。その行き着く先に、この峠での自死があるのだということも。でもどうやって?

 その疑問はすぐに解消された。彼女はコートのポケットから、車のキーを取り出したのだ。そこではじめて、陽の暮れかけた駐車場の片隅、暗く目立たない位置に、1台の車が停まっていることに気づく。

 ぞっとした。黒いサイバーCR-X。あの時の拓也の車と生き写しだった。今にも、フジツボ製のマフラーを吹かして、運転席から拓也が降りてきそうな錯覚に駆られる。


 そうだ、あの夜もそうだった。この駐車場で張っていた私は、風が少なく見通しのいい晴れた夜に、拓也のCR-Xが――交機の他の隊員が捕まえられなかったCR-Xが現れると踏んで、私はエンジンを切ったパトカーPCの中でただ闇を睨んでいた。

 予想通り現れたCR-Xには彼女も乗っていて……ただ、数分もすると拓也は彼女を降ろして走り去った。私はすぐにその後を追った。彼女が同乗していなかったのが幸いか不幸か、そしてなぜ同乗していなかったのか……今となってはわからない。だが確かなことは、当時の私は気が逸っていて、予定よりもかなり早い段階でサイレンを鳴らしてしまったこと、自分の腕前に絶対の自信を持って、限界に挑むつもりでステアリングを握っていたこと。この二つは、後悔してもし切れない私のだったのだろう。


 彼女は寂しげに笑った。

「私は――彼が全てだったんです。若いがゆえの熱っぽい錯覚なんかじゃない。心から彼を愛していて――そのために、命さえ捨ててもいいと思っていて。でも、拓也は先に逝ってしまった」

「だからあなたも後を追うの?」

 それだけは絶対にさせない。私はそのつもりで……もし、この峠で恋人の幻影を追いかけて、命を散らそうとしている哀れな人間がいるのなら、私の命を代わりに賭けてでも止めるつもりでやって来たのだ。

 勿論それが取り越し苦労で、ただ私が自己満足の献花をして帰れるというのならそれでいい。でも、そうはならないという予感めいたものがあった。

 そして、それは半ば的中した。

「はい」

 彼女は頷き、言った。

「おかしな話ですけど、このためにジムカーナ通って、運転技術を磨いたんです。頑張ってお金貯めて、彼と同型のCR-Xも中古で買って……同じ仕様にチューンしたんですよ。どんなパーツ積んでたか、可能な限り思い出して」

 思い出話をするみたいに、彼女は滔々と語る。

「最初は死ぬつもりなんてなかった。彼の跡を辿ってた。でも、いくら私が上手くなったところで、それを一番褒めてほしい人はもういないから」

 乾いた笑いと裏腹に、彼女は涙を零す。彼女が泣くのを見るのは、5年前のあの日以来だ。

 私は強く歯を食い縛った。

「死なせないよ」

 それは誓いの言葉でもあった。真っ直ぐに彼女を見据えて、言い放った。

「あなたまで死なせたりしない」

「そうですか」

 彼女は言って、ふっ、と表情を崩した。

 その瞬間、私に隙が生まれた。



「……ぐぅっ!?」

 何が起こったのかわからなかった。視界が揺らぐほどの痛み。一瞬の意識混濁の後、走り去る彼女の背中が見えて――その膝に、鳩尾を蹴られたのだと理解する。

「まっ――待ちなさい!」

 頭だけは守り通したものの、突然のことで少しばかり身体が上手く動かない。その間にも、彼女はどんどん小さくなっていって……CR-Xのドアヒンジに手をかけて――叫ぶ。

「お巡りさん!」

 風にかき消されないほどの大声で。

――!!」

「な――」

 捨て台詞、だが、どこか楽しそうな含みもあった。

 私の思考が戻るのとほぼ同じ。CR-Xのエンジンに火が入る。5年前の、片時も脳裏から離れてくれなかった記憶のどれよりも鮮明に、光景が甦る。

「……ほんとに」

 見た目や態度が変わっても、あの時そっくりのじゃじゃ馬で不良娘だ。

 VTECのエキゾーストが耳を劈く。私は自分の愛車に飛びついた。


 レグナムVR-4。ただし、見た目はベースグレードのレグナムにしてある。搭載されるエンジンはV型6気筒のツインターボ、そのままだと当時の自主規制一杯の280馬力だった出力はボアアップやCPUチューンを施行、何よりターボの回転域を調整した結果、400馬力に達している。車内にはロールバーが走り、剛性面は問題ない。タイヤはミシュランの17インチ。ミッションはゲトラグの6速、ブレーキはブレンボ……その他、相当量のチューンナップを重ねている。ギア比はクロス寄りで、この峠に合わせた。四駆の重い車体を、パワーでねじ伏せる。

 セルを回す。すぐさまクラッチを繋ぐ。ターボ車は低回転域のトルクの無さ、及びシフトチェンジのラグが天敵だ。前者はそれ用のチャージャーを積むことで、後者はフライホイールの換装でどうにか解決した。

 出足は速い。1.5トンを超えるとは到底思えないほどに。エンジンの吹け上がりも――懸念事項は、ダウンヒルで同じく改造車であるCR-Xに追いつけるかどうかということだけだ。

(私が追いつけなかったら、あの子は本当に死ぬつもりだろうか)

 なんとはなし、そうはならない、と直感が告げた。今までの態度は全て思わせぶりな演技で、本当は走ることの楽しさに目覚めて……なんてのは都合のいい妄想だろうか。

 考えても仕方ない。どういう真意があるにせよ、おそらく彼女は当時の拓也と同じルートを辿るだろう。左にウインカーを出す。CR-Xのケツはもう見えないが、絶対に追いついてみせる!


 ツインターボを唸らせ、私は現れるコーナーを次々にパスする。それこそ現役時代から、何百回となく走り込んだ場所だ。どの速度域で、どうラインを取れば抜けられるかなんて、それこそ身体が覚えている。重いレグナムでも、下りでも――私は今までにない集中力を発揮していた。

(――いた)

 ヘアピンを抜けると、CR-Xのテールランプが光るのが見えた。拓也が死んだコーナーまであまり距離はない。死ぬぞ、と脅したのが嘘であっても、あの時みたいに先に行かせはしない。

「……待ちなよ」

 ステアリングを回す、タイヤが軋む。タコメーターの針がレッドゾーンを掠める! 私は間違いなく楽しんでいた。あり得ない、5年前の失策を繰り返そうとしているのに?

(違う)

 違う、そうじゃない……楽しんでいるのは事実でも、彼女に乗せられて滾ったのは事実でも、


 車が並ぶ。あの日CR-Xが死んだ場所まで、僅かにコーナーを一つ残すのみとなった。勾配の緩いストレート。カミソリのようなB16A改エンジンでも、4WDターボの加速には勝てない。次のコーナー……5年前のあのコーナーでは、わざと大きくアウトに膨らんで、万が一にも彼女を飛び込ませたりしないよう塞いだ。

 そこで一瞬、CR-Xが前に出たが、すぐに張り付く。僅かな隙でも、見えれば突っ込む。強引になりすぎないよう、余裕のあるタイミングを狙ってスロットルを開く。

(……ここだ)

 僅かに登るストレート。レグナムがCR-Xを抜いた。この先は峠の出口まで高速コーナーが二つ。減速のポイントはない。よって、CR-Xに勝ち目はない。ミラーの中で、CR-Xがパッシングをしたのが見えた。





 花束を崖下に投げ込む。孤児だった拓也に、私たち以外に縁がある者はいない。

 手を合わせて拝んでいると、彼女が肩を震わせて泣き始めた。

「……やっぱりっ……死ぬなんて、わたし、どうかしてた……ごめん、なさいっ……ううっ……!」

 その肩を抱き寄せる。しゃくり上げる彼女に声をかけることも、一緒になって泣くこともしない。できない。ただ、私の胸は、走り出す前と比べて幾分か軽くなっていた。

 何かが吹っ切れたのかも知れない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

弔走 参径 @1070_j3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ