第185話 上官と部下、父と娘

 えん帝国~椻夏えんか


「待て! 徐檣じょしょう!」


 鎧兜を脱ぎ捨てて、ズカズカと城下街を1人歩いて行く徐檣じょしょうを、楽衛がくえいは追い掛けその腕を捕まえた。その腕は、人を宙に舞い上がらせるような怪力の金登目きんとうもくと打ち合った者の腕とは到底思えない色白の細い腕をしていた。


「放してよ!」


 宵に叱られて怒り狂っている徐檣じょしょうは、掴まれた腕を乱暴に振りほどくと上官である楽衛に対しても敵を見るような鋭い眼光を向けた。

 日は傾いているが、まだまだ街には人の往来がある中で、民衆からの視線が2人に集まる。


「何処へ行くつもりだ」


「何処でもいいでしょ! もうどうせ私は出撃出来ないんだから!」


「何を子供みたいな事を言ってる。軍令を破ったのはお前だ。徐檣じょしょう。罰を受けるのは当然だった。それで腹を立てるなら軍人としての適性はない」


 楽衛がくえいの叱責に、徐檣じょしょうの目の色が変わった。


楽衛がくえい殿。私を庇ってくれた事には礼を言いますが、そもそも、私が助けなければ今頃貴方は金登目きんとうもくに殺されてたでしょうが! 上官の癖に部下に助けられながらそれを恥とも思わず、恩人である私を叱責するとは、貴方こそ軍人の資質がないんじゃないの? 貴方は私の味方だと思ってたのに、失望しましたよ!」


徐檣じょしょう、お前は未だに何故軍師殿から罰を与えられたのか理解していないようだな。自分が犯した過ちを理解していない」


「私は間違っていない! 人として仲間を助けた事は正しい筈だ!! 私を悪者みたいに言うなよ!!」


 周りの通行人達は何事かと足を止め、いつの間にか人集りが出来始めていた。


「なるほどな。やはりお前は軍人には向いていない。お前の考え方ならば、民を脅かす山賊と変わらん。仲間想いなのは確かにいい事だが、交戦を好み、自分の思い通りにならなければ激昂し周りを罵倒する。そんな奴は、軍から出て行くといい」


 徐檣の態度に動じる事なく、淡々と話を進める楽衛の放った言葉に、徐檣の大きな瞳が潤んだ。


「言ったな……! 楽衛がくえい! だったら望み通り軍から出て行ってやる! それで山賊にでもなって好きに生きてやる!! 後悔させてやるからな!!」


「勝手にしろ、お前だけが強くても何の意味も無い。すぐに我々が鎮圧してお前の首を斬る事になる」


「お前達じゃ無理だ!」


「ただ、良く考えろよ。その選択でお前の父、徐畢じょひつが喜ぶかどうか」


 徐畢じょひつの名前を聞いた徐檣じょしょうは猛獣のように楽衛がくえいに飛び掛り、地面に押し倒した。

 そして、馬乗りのまま、躊躇う事なく楽衛がくえいの顔をその拳で殴りつけた。

 それを目撃した通行人からは悲鳴が上がる。


「お前が父上の何を知ってるんだよ! 気安く私に父上の事を語るな! 何も知らないくせに!!」


 絶叫しながら再び徐檣じょしょうは拳を振り上げる。その瞳からはポロポロと涙が零れていた。


「俺にも娘がいるんだ」


 不意に発した楽衛がくえいの言葉に、徐檣じょしょうは振り上げた拳を止めた。


「まだ8つだが、素直で可愛い子だ。将来は父上みたいに軍人になるんだと言っている」


「……」


 困惑した表情の徐檣じょしょうは、振り上げたままの拳を収めるかどうか迷っているようにぷるぷると震えている。


「娘は強くなる事を求めた。だから俺は武を教えた。だが、俺は娘を死と隣り合わせの軍人にさせるつもりはない」


「……なら、何故、武を教えたの?」


「自分を守る為、そして、大切な者を守る為だ。自らの武を鼻にかけ、怒りに任せ他人を傷付ける為ではない」


 徐檣じょしょうは震える拳を解き、ゆっくりと下ろす。

 そしてそのまま楽衛がくえいの赤く腫れた頬にそっと触れた。


「ごめん……ごめんなさい」


 声を震わせながら徐檣じょしょう楽衛がくえいの上から立ち上がると、涙を拭いその場から走り去った。


 楽衛がくえいは身体を起こしたが、徐檣じょしょうを追い掛けなかった。


 人集りは次第に散っていった。


 ***


 楽衛がくえい徐檣じょしょうの一部始終を東側の城壁からたまたま目撃したのは校尉の張雄ちょうゆうだった。


「あの女、また騒ぎを起こしているのか。楽衛がくえいの奴もあのザマか」


 張雄ちょうゆうは兵士を呼んだ。


「いいか? 徐檣じょしょうを監視しろ。奴は危険だ。えんの人間で奴を御せる者はいない。あの武をまたろうが手に入れたら我々に勝機はない。分かるな?」


「は、はあ……」


「もし徐檣じょしょうろうに再び戻るような事があれば躊躇わずに始末しろ」


「え……いや、しかし、王礼おうれい将軍や軍師殿が何と言うか……」


「構わん。軍師殿の不安分子となるものを排除するだけだ」


「ですが、我々如きの力ではあの女は殺せません」


「遠くから矢を射掛れば、いくら猛獣と言えど殺せよう。敵に戦力を与えるのを未然に防ぐのだ」


 兵士は「御意」と言うとすぐに走って行った。


 ***



 閻帝国えんていこく秦安しんあん


 光の差さない薄暗い牢獄の中で、厳島光世いつくしまみつよは固い石の壁に凭れて、石の床に敷かれた藁の上に座っていた。


 後ろ手に木製の枷が嵌められたままで両手の自由はない。

 排泄しやすいようにと、くん(スカート)は脱がされ上衣だけ着させられた恥ずかしい状態で、履物もない。上衣は長いので下半身が晒される事はないが、下着を穿いていない為脚は不用意には動かせない。

 格子の外の牢番の男の足元には排泄物を受ける為の年季の入った汚い木桶があり、そこに股を拭う布が掛けられている。

 朝と夜二度の食事と排泄の時だけ牢番が牢の中に入って来てその世話をされる。両手が使えない光世は牢番に全てを託すしかない。

 見ず知らずの異性に下の世話をされるのは耐え難い苦痛である。


 拘束されてから5日が過ぎた。

 光世の耳には何一つ外の情報は入って来ない。

 董月とうげつは時々様子を見に来て情報を吐かせようとしては来るが、拷問のような事は一切しない。

 ただ「喋りなさい」と優しく言うだけだ。

 もちろん、光世は何も喋らないので、董月とうげつは呆れた様な顔をして去ってしまう。


 いつまで続くのか、先の見えない囚人生活に絶望しかけていたそんな時だった。




「光世ちゃん、久しぶり〜」


 随分と久しぶりに聞いた気がする女の声。

 光世は閉じかけていた目をゆっくりと開いた。


「……董陽とうよう……様?」


 牢の外にいた女は、眩しい笑顔を向ける董陽とうよう。普段と同じく高そうな綺麗な閻服に身を包んでおり、この薄汚い牢獄には似合わない。光世は目をぱちくりさせて見間違いではないだろうかと何度も確認する。


「私よ私、げっちゃんじゃないから安心して」


 董陽とうようは口を押さえてくすくすと笑う。


董陽とうよう様、早く助けてくださいよ。私は捕まるような事はしてないのですよ」


「意外と元気そうで良かったわ」


「元気なものですか。知らない男に下の世話をされるとは思いませんでしたよ」


 そう言った光世は、いつもの牢番がいなくなっている事にようやく気付いた。


「あれ? もしかして、董陽とうよう様、私を助けに?」


 しかし、董陽とうようはあははと笑う。

 その反応が光世の一縷の望みを打ち砕いた。


「あら? 何か勘違いをしているようね、光世ちゃん」


「え?」


「私は貴女の味方ではないのよ?」


 董陽とうようは青ざめた顔をしている光世を見てニヤリと笑う。


「私はね、貴女がせいちゃんとしている事を全部知ってるの。あ、今は近くに誰もいないから大丈夫よ? お互い正直に話しましょう?」


 董星とうせいの名が出た事に動揺し、光世は思わず視線を逸らす。

 董陽とうようはニコニコしながら焦る光世を見ている。まるで本当に光世のしている事が見透かされているのではないかと思える程に、董陽とうようという女が恐ろしくて仕方がない。


「そんな事言って……董月とうげつ様の代わりに私から何か聞き出そうとしているんですよね? 残念ですが、本当に私は何も──」


「貴女とせいちゃんは、秦安しんあんにある塩を大量に范州はんしゅう呼巣こそうに運び出した。その数およそ200万石。28日かけてゆっくりと」


「え……」


 流石に詳細な数字まで当てられるともう言い逃れは出来ないだろう。他の者にはバレていなかったのに、何故この女だけはここまで把握しているのか。

 光世は口をつぐみ俯いた。


呂郭書りょかくしょの軍権剥奪の件も、丞相の思惑に背く折衝をして、呂郭書りょかくしょ秦安しんあんに帰還させないようにしているのよね。未だに呂郭書りょかくしょが帰還しないのがその証拠。まさか、邪魔な孫晃そんこうまで消しちゃうとは思わなかったわ」


 光世は顔を上げられなかった。

 終わった。ただ絶望した。

 閻帝国の司徒しとであり丞相・董炎とうえんの娘である董陽とうように計略を知られてしまっては、もはや全てが終わりだろう。

 無論、光世の命もない。


「なるほど、つまり董陽とうよう様は私にお別れを言いに来てくれたのですね」


 光世は大きな溜息をつき項垂うなだれた。

 すると、董陽とうようは小首を傾げる。


「あら? 光世ちゃん、違うわよ? 私は貴女の味方ではないけど、敵でもないわよ?」


 意外な返答に光世は顔を上げて董陽とうようを見る。


「どういう……」


「そうねー、それじゃあ少し私の想いをお話しましょうか」


 そう言うと董陽とうようは牢の前の壁に背中を預け、格子を隔てて光世と向かい合った。

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