第182話 宵、号令をかける
報告によると、
閻軍の筆頭軍師である宵は、南門の
白い羽扇を胸の前で持ち、とうとう始まる攻城戦に恐怖心が込み上げる。
戦の恐怖というものは長らく戦場で軍師をしていても慣れる事はない。
「宵。一昨日の夜襲の報復かな……。あんな兵器を持ち出して来て、いよいよ本気で攻めて来るんだな」
鎧兜で身を固めた
だが、不意に宵の方を見ると、悲しげな顔をした。
「何? 鍾桂君」
「やっぱり、まだ怖いよね。
「え?」
「震えてるよ。初めて会ったあの時みたいに」
宵はハッとして自らの右手を見た。
確かに手がガクガクと震えている。この震えは、朧軍の進軍による地響きかと思っていたが、どうやらそうではないようだ。
震えているのは手だけではない。身体全体が信じられない程に震えている。
人が目の前で死んでいく今までの戦場の光景が瞼の裏にこびり付いているのだ。
幾度かの戦場を乗り越えて来て、恐怖は乗り越えたと思っていたと思ったが、そんな事はなかった。
宵は周りをキョロキョロと見回して、近くの兵士達に聞こえないよう声を抑えて自分の気持ちを鍾桂に伝える。
「怖い……。人が目の前で死ぬのも、私のいない所で私の献策で人が死ぬのも、私の大切な人達が死ぬのも……私自身が死ぬのも……。何もかも、怖い……」
鍾桂は黙って頷く。
宵は震える手で腰の巾着から異国創始演義の竹簡を取り出し、自分で書いた『宵』の文字を見つめる。
鍾桂の視線も『宵』の字にいく。
「もしかしたら、最後の目標って、『恐怖の克服』……なのかな。私、恐怖を乗り越えて朧軍を殲滅し、
ふるふると異国創始演義が宵の恐怖と共に震える。
「宵」
宵の名前を呼ぶと、鍾桂は宵の異国創始演義を持つ震える手を優しく握った。
宵は自分を見つめる鍾桂の顔を見る。
「誰だって戦は怖いよ。俺だって怖い。兵士なのにさ」
震える宵に、鍾桂はニコリと笑って見せた。
その笑顔は明らかに自然なものではなく、宵の不安を和らげる為の作り笑顔だ。
だが不思議と、宵の震えていた手は、鍾桂の温かい手に包まれて、いつの間にか震えは止まっていた。
「大丈夫だよ。ちゃんと今まで準備してたんだから。宵の兵法はこれまでも最強だったじゃないか。今は全力でここを乗り切る事を考えよう。俺は君を全力で守るから」
「うん、ありがとう」
「宵の事だし、今回も既に策は準備してあるんだろ?」
「ある……けど……結構ギリギリなんだよね。上手くいくか」
「策があるなら大丈夫だ! さあ、自信もって、軍師殿! 貴女が自信なさそうにしてたら将兵に示しがつかない! 大きな声で号令を!」
宵にしか聞こえない声で励ましてくれていた鍾桂だったが、今度は周りの兵士達にも聞こえる声量で宵を鼓舞する。
周りの兵士達は宵に注目した。
鍾桂は宵を見て頷く。
宵は頷き返し、異国創始演義を腰の巾着に戻すと、そっと羽扇を頭上に掲げた。
「全軍に命ずる! 朧軍の攻撃より城を守れ! 城門は固く閉ざし、城外には決して出るな! 火矢を射て攻城兵器を優先的に破壊せよ!」
宵の号令が近くの南門を守る
「そこの貴方」
宵は近くに立っていた兵士を呼ぶ。
「はっ!」
「北門、西門、東門の守備隊にも防衛開始命令を。既に
「御意!!」
兵士は宵の命令を聞くとすぐに門楼から駆け下りて馬に飛び乗り駆けて行った。
現在の朧軍の布陣は、北門と西門に全耀。南門と東門に金登目。
対する閻軍は北門に
徐々にこちらに迫る発石車。投石が始まれば宵のいる門楼へも岩は飛んで来るだろう。
だが、計算上では、相手の発石車の射程内にこちらが入る時、こちらの弓兵隊の射程内に入った事になる。
つまり、朧軍が発石車を停止させ、投石の準備に入った時が弓を射掛ける好機なのだ。
矢を射るタイミングは李聞に一任してある。宵なんかよりも、根っからの軍人の李聞の方がそういう事に関しては上手い。
やがて、朧軍の発石車は停止した。
城壁からの距離およそ半里(約200m)。
「火を点けろ!!」
李聞の号令と共に、弓兵隊が番えていた矢の先端の布に松明で火が灯された。
「放てーー!!」
一斉に城壁から上空へと火矢が放たれた。
上空の火矢は、弧を描き朧軍の発石車へと何本も何本も突き刺さっていく。
近くにいた兵士達にも被弾し、断末魔が上がる。
だが、それでも発石車の攻撃態勢は解けていない。生き残った兵士が岩を載せ投石の準備を進めていく。
「おい、宵! 止まらないぞ! 岩が飛んで来る! 奥へ逃げよう!」
宵の手を掴む鍾桂。だが、宵は動かなかった。
「大丈夫。
「あの2人?」
鍾桂は眉間に皺を寄せて宵を見る。
と、その時。南門へ進軍して来ていた金登目軍本隊に動きがあった。
宵はゆっくりと羽扇でその動きのあった場所を指す。
「時が来た時に動きなさいと命じました。流石は
「……楽衛殿って事は、
「あの2人が奇襲して攻城兵器の操作を妨害します。今目の前の南門攻撃軍に攻撃してるのが楽衛殿。東が
「なるほど。でもあの2人の騎兵隊は確か8千だろ? その数の騎兵をどこに隠してたんだ?」
「
「へぇー、頭良いな、宵」
「軍師ですから」
ニコりと微笑む宵。
と、その時、周りから騒ぎ声が上がった。
「投石だーー!!」
宵と鍾桂がその声に気付き、正面を見た時には、大きな岩が1つ、2人の視界に映った。
岩はたちまち轟音を上げて、眼前の城壁に直撃してその一部を破壊した。
宵はあまりに突然の事だったので動けなかったが、視界は城壁から空へと変わり、いつの間にか地面に倒れ、身体の上には鍾桂が宵を守るように覆い被さっていた。
「大丈夫!? 宵!?」
「大丈夫……」
目をパチクリ瞬かせて茫然とする宵。
無事を確認した鍾桂はすぐに宵の手を取り引き起こした。
一瞬、時が止まった気がしたが、宵が立ち上がると目の前にはまた壮絶な戦場があった。
放たれた投石は城壁に当たりこそしたが、その上部を抉り取っただけで完全に破壊するには至っていなかった。兵士達は投石を回避したようで、投石による死傷者はなさそうだ。
すぐに弓を取り、発石車へと火矢を放っている。
城壁の上の李聞も機敏に兵士達へ指示を出している。
さらに、城外で投石部隊を撹乱している楽衛の部隊も、李聞隊の火矢攻撃のタイミングを上手く見て、攻撃と待避を適切に繰り返している。
この特異な騎馬隊の動きは、
桜史の見識は兵法には留まらず、中国史における北方の民族の戦法にも明るい。
そんな桜史も流石だが、楽衛も伝授されて半月もしない内に実戦で使えるようにしたのは並大抵の事ではない。桜史の知識に楽衛の実戦経験が合わさるだけで、金登目の軍を撹乱出来る程の動きが出来るとは宵も正直思わなかった。
宵が楽衛の騎馬隊の動きを観察している間にも、城門を守備している李聞の弓兵部隊は楽衛の援護射撃を続けている。
金登目軍からの投石は先程の一発のみで、視界に映る範囲の発石車は火に包まれて完全に沈黙してしまっていた。
朧軍の兵士達も火を消す余裕などある筈もなく、楽衛の騎馬隊の対処に追われているようだ。
「敵は城攻めには慣れていないみたいだね。全然発石車を上手く使えてない」
宵が言うと、鍾桂は確かにと頷く。
「金登目って奴は暗殺専門て言ってたもんな。暗殺部隊を使ってこっちを弱体化させられなかったからきっと苦戦してるんだな」
鍾桂の分析は恐らく正しい。暗殺部隊である
「宵! もしかしてこの戦闘で勝てるんじゃないか?」
希望を見いだして嬉しそうにする鍾桂を横目に、宵はうんとは頷かなかった。
***
「金将軍! 我が軍の発石車が全滅、部隊が苦戦しております……!」
馬上から自軍の情けない惨状を眺めていた金登目のもとに、兵士が報告にやって来た。
「苦労して周大都督が朧から運んで来てくださった発石車を易々と失いおって……。撹乱しているのはどこの部隊だ!」
「
「という事は、
「東門の
「そうか。青二才共が。好き勝手出来るのも今のうちだ」
金登目は1里(約400m)程先で暴れ回っている楽衛の部隊を睨み付けながら、怒りに震える声で言った。
そして右手に持っていた大刀の石突をガツンと地面に打ち付けると、報告に来た兵士を見た。
「攻城兵器部隊は下がらせろ! 閻の兵は
金登目が馬腹を蹴り、馬が駆け出すと、それに続いて大勢の騎兵隊が喊声を上げて駆け出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます