第180話 夜襲の衝撃

 閻帝国えんていこく秦安しんあん


 秦安の監獄。

 とある牢獄の木製の格子の前で、尚書令しょうしょれい董月とうげつは勝ち誇ったような顔で中の囚人を見ていた。


「無様ねぇ、光世みつよ。貴女、何故こんな仕打ちを受けているか分かっている?」


「分かりません。私は捕まるような事は何一つしておりませんから」


 牢獄の中には、両腕を後ろ手に縛られた光世が、敷き詰められた藁の上に座らされていた。


「気に入らないわ、貴女の態度。拷問して吐かせてもいいのだけれど、あたしは優しいから極力残酷な事はしないの。有難く思いなさい?」


「教えてください。董月様。私は閻の為に働いてきたのに、何故このような仕打ちを」


「白々しいわね。やっぱりしようかな、拷問。でも、痛いのじゃなく、こっちの方が効くのかしら?」


 そう言いながら董月が手に持ったのは卑猥な形をした黒い棒状の物。

 それを見た光世は眉を顰める。


「……それは……」


「貴女の服の袖の中から出てきたものよね? 肌身離さず持ち歩いていたという事は、いつも使っていたのでしょ? いやらしい」


 董月の言葉に、光世は羞恥に耐えかね、目を瞑ると顔を背けた。


「選ばせてあげるわよ? 苦痛と、快楽、どっちがいい?」


 光世は答えない。


「そう? どっちも嫌ならいいわ。何もしないから。でもいいのかなー? 毎日の日課が出来なくなるのは辛いんじゃない? ま、いやらしい貴女にはそっちの方が効きそうだけど」


 董月は不敵な笑みを浮かべ、張形を格子の外の机に起くと、悠々とその場を後にした。


「ちょっと! 待ってください! 私は無実です! ここから出してください! 董月様!!」


 監獄に光世の叫び声が響いたが、董月が戻る事はなかった。


 ♢


「あーあ、やっぱ吐かないか」


「董月様、ご命令とあらば、私が吐かせます!」


 監獄を出た董月のもとに、陳緒ちんしょ橋越きょうえつと共にやって来て言った。


「アンタ達は光世の身体で楽しみたいだけでしょ?」


「い、いえ、そんな事は」


「あの子には何もしなくていいわ。死なれたら父上にあたしが怒られるのよ? アンタ達は監視するだけ。典獄てんごくにもそう伝えなさい」


「されど、せっかく捕らえたと言うのに」


「捕らえる事に意味があるのよ? アンタ達は馬鹿? もし光世が何か謀略を仕掛けていたとしたら、あの女を捕らえた事で別のどこかで綻びが生じる筈」


「なるほど」


「光世の部屋には何も怪しい物はなかった。所持品にも。勿論、あたしが直々に身体の隅から隅まで調べたけど、光世の謀略を証明する物は出て来なかったわ」


 董月は自らのすらっとした装飾品の無数に輝く美しい指先を見ながら言った。

 陳緒と橋越はとりあえず頷いて見せる。


「それに、父上が光世に与えた呂郭書りょかくしょの軍権の剥奪は完了したそうだし。こちらとしては光世はいなくても問題はないのだから。あたしの目の届く場所に封じ込めておけばいいのよ」


「心得ましたが、董月様。光世は捕まる間際に側近の仮面の男に『宵に伝えろ』と申しておりました。恐らく、何か仕掛けて来るのではないでしょうか」


「分かっているわ。けれど、それはあたしが考える事よ。アンタ達はただあたしの命令に従えばいいの。もし、光世に手を出したら、アンタ達、命はないと思いなさい」


「肝に銘じます」


 拱手した2人の将軍を一瞥すると、董月は足早に外に待たせていた馬車へと乗り込んだ。



 ***


 洪州こうしゅう烏黒うこく


 城内の一室で、大都督・周殷しゅういんは険しい顔付きで茶を飲んでいた。

 椻夏えんか威峰山いほうざん朧国ろうこくの中でも歴戦の猛将である尉遅毅うっちき金登目きんとうもくを送り込んだが、半年経っても何の進展もない。

 尉遅毅うっちき金登目きんとうもくが攻め落とせない理由は分かっている。椻夏には宵、そして威峰山には楊良ようりょうがいるからだ。

 これまで武力と兵力のみで敵を打ち破って来た朧軍にとって、兵法というもので戦を左右されると手の打ちようがない。

 朧軍には兵法が分かる者は誰一人いない。


「大都督」


「何だ」


 部屋に入って来たのは配下の鄒温すうおんだった。髭を蓄えていないまだ若い青年校尉で、身の丈8尺(約約185cm)の長身だが、線は細い華奢な男だ。


「申し上げます。昨夜、椻夏包囲中の金登目将軍の配下、郭吉かくきつの陣営に閻軍の夜襲があったそうです」


「夜襲だと? 被害は?」


「郭吉の部隊千の内、およそ200騎足らずを失ったとの事。郭吉は陣営を放棄し、金将軍のもとへ合流しました」


「夜襲があったのは郭吉の陣営だけか?」


「はい」


「椻夏の包囲図を持て」


 周殷は報告に何か違和感を感じた。

 鄒温の指示で兵士が地図を持って来て周殷の机に広げた。


「郭吉の陣営は東側か。ここだけを攻撃した理由は何だ?」


「理由……でありますか? さあ、見当も付きません」


「東側だけに攻撃したのは、恐らく陽動だろう。さもなければわざわざ夜襲をかける意味はあるまい」


「陽動……? 一体何の為に?」


 周殷は地図を指でなぞり、椻夏の東側の地形を見る。


威峰山いほうざんとの連携か……。椻夏の東側は特に厚い包囲網が敷かれている。伝令を送るにも、この包囲網を突破しないといけない」


「なるほど。伝令の為ですか。その為にわざわざ夜襲を掛けて陽動するとは、余程重要な伝令でしょうか」


「既に伝令は届いているだろうな……。鄒温、威峰山の尉遅毅うっちきに伝えろ。閻軍が何か仕掛けてくる可能性がある故、用心しろとな」


「御意!」


 鄒温は拱手してすぐに踵を返した。


「待て」


「は……」


「洪州の守備も強化しろ。威峰山ではなく、奴らはこちらに仕掛けて来るやもしれん」


「威峰山と洪州全域に周知いたします!」


 鄒温は部屋を出て行った。


 周殷は机に広げられた地図を凝視し大きな溜息をつく。

 これまで共に戦況を見てきた将軍の黄旺こうおうはもういない。戦略の相談をする相手がいないのだ。

 不意に立ち上がると庭へ目を向けた。

 かつて朧国の大都督府にて、桜史おうし光世みつよと話していた時の光景が目に浮かんだ。

 今は2人とも閻に降り、朧軍と戦っている。


「桜史と光世を手放してしまったのが、俺の失態だな」


 そう呟いた周殷しゅういんだったが、すぐに首を横に振る。


 2人がいれば……と思ったが、もうそれは考えないようにした。



 ***


 椻夏城えんかじょう包囲軍~金登目きんとうもく陣営~


 郭吉かくきつの陣営の夜襲については、勿論、金登目の知るところであったが、金登目は郭吉を咎めず、改めて包囲網を張り直し、同じ場所に郭吉を配置し直した。

 至って冷静な対応である。

 しかし、金登目の腹の中は煮えくり返っていた。

 金登目のもとに全耀ぜんようの使者として来ていた校尉の糜喬びきょうは一目見ただけでそう感じた。


「閻軍は我々が城を包囲するだけで攻めて来ないと思っているのだろう」


「持久戦に持ち込み、城内の食糧を枯渇させる方法、いわゆる『兵糧攻め』の戦法を取っていると思っているでしょう」


「ああ。奴らの兵糧の搬入を断ち、およそ一月ひとつき。あとどれ程の蓄えがあるか知らんが、まだこちらは攻めて来ないと思っている筈だ」


「しかし、昨夜の夜襲は、兵糧切れ故の焦りからのものとは考えられませんか?」


 金登目は首を横に振る。


「ないな。流石に一月で兵糧切れを起こす程、閻は貧弱ではない。閻という国の食い物に対する意識の高さは常軌を逸している」


「では、昨夜の夜襲は?」


「伝令だろうな。威峰山いほうざんかどこかへの連絡。我々が包囲を開始してから東側への伝令は一切出していないというに、ここに来て兵を使い、包囲を突破してまで報せたい事があったのだ」


「然らば、近々何か仕掛けて来るという事でしょうか?」


「そうだ。我々が悠長に城を包囲している隙に、何らかの策を巡らせてこよう。故に、我らはその裏をかき、椻夏を攻撃する。さすれば奴らの策も水泡に帰すだろうよ」


「流石は金将軍! 敬服いたしました!」


 金登目は満足そうに、拱手する糜喬びきょうを見ながら髭のない顎を撫でる。


「良いか、糜喬びきょう。全耀将軍に伝えよ。『明日の正午、攻城兵器にて城を攻撃せよ。夜襲の備えも忘れるな』」


「御意! ……しかし、金将軍。敵の楽衛がくえい徐墻じょしょうが城外に潜んでいるとの情報が……」


「全耀将軍は城攻めに集中すれば良いのだ。楽衛などというのは貴様と同じ校尉であろう? 大した脅威ではない。俺の軍で片付ける」


「されど、徐墻じょしょうは……」


 糜喬びきょうの弱腰な言葉に金登目の細い目がキラリと輝いた。


「貴様、よもや女1人に怖気付いておるのではあるまいな?」


「いえ、決してそんな事は。しかし……徐墻じょしょう徐畢じょひつ将軍の御息女。下手な扱いは出来ぬかと……」


徐畢じょひつ将軍は死んだ。何を恐れる必要がある?

 下らぬ心配などしていないでさっさと伝えにいかぬか! 腰抜け!」


「全耀将軍は徐墻じょしょうの安否を今も気にされておりました」


 金登目はあからさまに舌打ちをした。


「全耀将軍には徐墻じょしょうはこちらで保護する故安心して攻撃に専念するように伝えよ」


「全耀将軍にお伝えいたします」


 糜喬びきょうは金登目の怒りをこれ以上買わない為に拱手すると、急いで部屋を飛び出した。



 ***


 ~全耀ぜんよう陣営~


「そうか。攻撃か」


 糜喬びきょうからの報告を受けた全耀は顔色一つ変えずに卓上の湯呑みを手に取ると、冷たい水を口に含んだ。


「金将軍は、徐墻じょしょうについて何か言っていたか?」


「……『徐墻じょしょうはこちらで保護する故、攻撃に専念せよ』との事です」


 すると全耀は湯呑みを机に置き呵々と笑った。


「白々しい。斬血ざんけつを使い、徐墻じょしょうをも殺そうとした男の言う事を信用出来るとでも思ったのか」


「では、如何致すおつもりでしょう? 全将軍」


 神妙な面持ちの糜喬びきょうは、全耀の次の言葉を息を呑んで待っている。


 全耀は机に置いた手の人差し指でカツカツと音を鳴らす。


徐墻じょしょうは城外におるのだろう? こちらが先に見付け話を付ける。金将軍に先に合わせるわけにはいかない」


「それは……軍令を破るという事でしょうか?」


「城は攻撃するさ。故に俺は徐墻じょしょうのもとへは行けぬ。俺が本陣におらねば金将軍は不審に思うだろうからな。そこで、徐墻じょしょうの保護は其方に頼みたい」


「私ですか?」


 予想外の抜擢に糜喬びきょうは目を瞬かせる。


「そうだ。俺の代わりに徐墻じょしょうを戦場で見付けたら、何とか説得しこちらに連れ戻して欲しい」


「御意! 徐墻じょしょう徐畢じょひつ将軍の御息女であり、朧国の貴重な戦力でもあります。尊敬する全耀ぜんよう将軍のご命令とあらば、必ずや徐墻じょしょうを連れ戻して見せます!」


「頼もしい。其方は最も信用出来る部下だ。期待している」


 糜喬びきょうはすぐに部屋を後にした。


 1人になると全耀はすぐに兵士を呼び付ける。


「お呼びでしょうか」


沮奐そかん丁脩ていしゅう趙墨超ちょうぼくちょうを呼べ。軍議だ」


 兵士は返事をしてすぐに3人を呼びに走った。

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