第179話 免罪符を洪州へ

 葛州かっしゅう椻夏えんか城~王礼おうれいの執務室


「王将軍、軍師殿がお見えです」


「入れ」


 役人の男に案内され、正装をした宵は1人、王礼の執務室へとやって来た。

 部屋には王礼おうれいの他には李聞りぶんがいるだけだ。


 王礼はすぐに案内の役人を下がらせたので、それを横目に見た宵は拱手して頭を下げた。


「先程、桜史おうし殿がやって来て光世殿の話を聞いた。大変な事になったな」


 王礼はやつれた顔で、鬱屈した様子で弱々しい声で言った。


「勝手に桜史殿を秦安に向かわせて申し訳ございません」


「いや、それは良いのだ、儂は軍師殿の判断に任せると決めている。それよりも、光世殿は其方の親友であろう。大丈夫か?」


「大丈夫……と言えば嘘になります。しかし、私には今ここでやるべき事がありますので、動揺している暇はありません」


「そうか。そう言ってくれて安心した。情けない話だが、儂は其方がいないと何も出来ん。戦の経験もなく、老いにより体力まで著しく落ちている。出来れば干戈を交える事なくこの戦を終わらせたい」


「お任せください、王将軍。私の兵法でこの椻夏を守り抜いて見せます」


 宵のしっかりとした顔付きを見て、王礼と李聞は静かに頷いた。


「1つ、聞かせてくれ、軍師よ」


「はい……何でしょう、王将軍」


「光世殿が捕まった理由を聞かせてくれぬか」


 宵は咄嗟に白い羽扇で口元を隠した。

 王礼にも李聞にも、董炎とうえん失脚計画については話していないので、光世が秦安しんあんで董炎に捕まった理由を知らない。

 閻帝国で生まれ育った彼らが、閻帝国の宰相である董炎を失脚させる計画に賛同するとは思えなかった。閻民族である2人が宵の計画を知れば、宵を逆賊として捕らえるかもしれない。勿論、光世と桜史も同じだ。最悪処刑される。

 いくら信用出来る李聞と言えど、それを打ち明ける勇気は宵にはなかった。


「それは……私にも分かりません。なので桜史殿に状況を確認して来てもらうよう頼んだのです」


 宵は王礼の目を見れず、目を伏せたまま応えた。

 しかし、その様子を怪訝に思った王礼はさらに問い詰める。


「本当に知らぬのか。聡明な其方が」


 宵は口元を羽扇で隠したまま、王礼の目を見る。疑っている目ではない。どこか不安に苛まれているような、そんな目だ。


「本当に……存じ上げません」


「王将軍、光世の件は桜史殿の報告を待ちましょう。桜史殿は宵殿に負けず劣らずの優秀な軍師です。故に今、我々は目の前の朧軍を打ち破る事に注力すべきです」


 宵の様子に何かを察したのか、李聞が気を利かせて口を挟んだ。


「ああ、そうだな。李将軍の言う通りだ。軍師よ、我々はもう長い事この椻夏を包囲されている。兵糧も外部から絶たれ、民衆からも不満の声が上がってきておる。一体、いつまで籠城を続ければ良い」


 疲弊した様子で頭を抱えながら王礼は言った。70近い高齢の王礼にとっては、この終わりの見えない籠城戦は耐え難い苦痛だろう。20代前半の宵でさえ神経をすり減らしているのだ。王礼の気持ちは痛い程分かる。

 宵は満を持して部屋の外に待たせていた者を呼ぶ。


清華せいかちゃん」


「ここに!」


 普段水色の鮮やかな閻服の清華だが、部屋に入って来た清華は紺色の丈の短い地味な閻服に身を包み、長い黒髪を後ろで1つに結んだ身軽な格好になっていた。

 そしてその豊満な胸元から1枚の書状を取り出した。

 宵はそれを受け取ると王礼へと差し出す。


「これは?」


「呂大都督からの書状です。内容は、お読みいただければお分かりになられるかと」


 宵の説明を聞いた王礼はすぐに書状を開き中を検め、内容を一読した後に李聞にも聞こえるように声に出して読み始めた。


「『樊忠世はんちゅうせいを初め洪州の将兵は、洪州守備の任を放棄し、朧軍へと投降した。その罪は到底許されるものではない。しかしながら、もしまだ、閻帝国の為に命を賭す覚悟があるのならば、朧軍を欺く為に今回一度に限り閻に戻る事を許す。戻らぬ道を選ぶ場合、我が軍は全軍を持って洪州軍を撃滅する。丞相・董炎、大都督だいととく呂郭書りょかくしょ』」


「何と……丞相と大都督の連名の免罪の書状……本物ですか? 王将軍」


「儂もにわかには信じられぬが、丞相の印が確かに押してある。本物だ」


 王礼も李聞も目を瞬かせ興奮気味に言う。


「光世が秦安で大都督と丞相に話をつけてくれたのです」


「おお、でかしたぞ! これを洪州刺史の樊忠世殿にお持ちし、再び閻に帰順してくれれば、洪州の朧軍を内部から崩壊させられるな! まさに軍師殿の言う通りになる!」


 王礼の顔には生気が戻った。宵は初めて彼の笑顔を見た気がした。


「喜ぶのはまだ早いですよ、王将軍。この免罪符が届いたところで、樊忠世殿がこちらになびかねば、この策は失敗に終わり、別の策を講じなければならなくなるのです」


「樊忠世殿も洪州の将兵達も皆やむなく朧軍に投降したに違いない。我々葛州は軍師殿がいたから今こうして戦えている。洪州にも宵殿のような軍師がいればきっと朧軍に降伏などしなかった筈だ。朝廷からの許しが出たのなら、喜んで帰順し、外敵を除く為に動くだろう」


 宵の力を賞賛する有難い王礼の言葉に恐縮した宵は紅潮する顔を羽扇で隠しながら静かに拱手した。


「しかし」


 不意に難しい顔をした李聞が口を開く。


「その免罪符を洪州までどのように届けるつもりだ。この椻夏は朧軍に包囲され、特に威峰山いほうざんとの連絡を絶つ為か、東側の守りは特に厚く見える。それに、洪州は目下朧軍の本陣。そこへの侵入は並大抵の伝令兵では不可能だろう。誰が包囲を突破し、洪州に入るのだ」


「私が行きます」


 李聞の疑問に応えるように、跪いていた清華が立ち上がった。

 宵はそれを静かに見守る。


「清華、お前がか」


「李将軍、私は先の景庸関けいようかんの戦いで仲間の歩曄ほよう殿を失いました。彼は閻の為に戦い、私如きを庇い死んだのです。彼の意志を継ぎ、私は命を懸けて閻の為に戦うつもりです。その為に死ぬのなら、本望です」


「其方は軍人ではなかろう。命を粗末にするな。うら若き将来のある娘が」


「宵様は戦っておられるではありませんか! 光世様も、桜史様だって……! 歳もそう変わりません! 私だけ若い小娘だからというのが、戦っていけない理由になるのですか?」


 将軍に物怖じしないその発言に、李聞はハッとした顔をした。それは王礼も同じだった。


「清華ちゃんとは良く話しました。話した上で、私がこの書簡を樊忠世殿へ届ける任を命じました。今お聞きになった通り、彼女の覚悟は本物です。それに、彼女にはこの任をやり遂げる適性が誰よりもあります。必ずや、免罪符を樊忠世殿へと届けてくれるでしょう」


 宵の口添えで王礼も李聞ももう反論してくる事はなかった。


「ここから東側の洪州方面へと無事突破出来る策は既に練ってあります。今夜、清華ちゃんには夜陰に乗じて発ってもらいます」


「分かった。軍師が言うなら儂は何も言わん」


「ありがとうございます」


「洪州軍が再び帰順すれば、この椻夏を包囲している朧軍も散っていくだろうな」


「はい。それまでの辛抱でございます、王将軍」


 宵は拱手し頭を下げると、隣の清華も同じく深々と頭を下げた。



 ♢


「李聞殿、先程はありがとうございました」


 部屋を出ると宵は一緒に退出して来た李聞に頭を下げた。


「光世の事か? 礼など要らん。俺達に話す事さえ不味い事があるのだろう。長い付き合いだ。詮索はしない」


「李聞殿がここにいてくれて本当に良かったです。私、必ず期待に応えてみせますから!」


「ああ、期待している」


 そう言うと、李聞は宵の隣の清華を見た。

 清華は大きな眼をパチクリとして李聞を見る。


「清華、必ず生きて帰って来い。お前が帰らねば悲しむ者がいる事を忘れるな」


 それだけ言って李聞は外へと歩いて行ってしまった。



「俺も、たぶん悲しむからさ。死ぬんじゃねーぞ、清華」


 近くでやり取りを聞いていた鍾桂しょうけいが照れ臭そうな顔をして近付いて来た。

 すると清華は宵の胸から離れ、鍾桂へと向き合う。


「あら、鍾桂殿。それは有難いのだけれど、貴方はあたしの事なんかより、宵様を確実にお守りして頂戴ね」


「む……、やっぱこいつ生意気だな。お前に言われなくてもちゃんと守るさ!」


 鍾桂をムッとさせた清華はまた宵へと向き直る。


「そうだ宵様」


「何?」


「頭が冴えない時とか辛い時は、ちゃんと1人で致してくださいね」


「……そんな事、言われなくても……って! 何言い出すかと思えばまたそんな話! ホント、好きだよね、そういう話」


「好きなんです、あたし、そういう話!」


 屈託のない笑顔を見せる清華。

 危うく鍾桂の前で余計な事を口走るところだったが、その笑顔を見たら今度はそういう話もしてあげようかな、と不覚にも宵は思った。


「清華ちゃん、東側の包囲は金登目きんとうもくの配下、郭吉かくきつという武将の陣営。でも安心して、そこは無事に通れるようにしてあげるから。清華ちゃんは時が来たら真っ直ぐに進むだけ」


「時?」


 清華は首を傾げ鍾桂を見たが、鍾桂も清華と同じく首を傾げていた。




 ***


 金登目きんとうもく軍~郭吉かくきつ陣営~

 丑1刻 うしいっとき(午前1時)。


 松明たいまつの火に照らされた哨戒しょうかいの兵が数人行き交う静かな夜。

 その静寂を破ったのは陣営の外に無数に見える光だった。


「敵襲! 敵襲!」


 寝室に飛び込んで来た兵士に驚いた郭吉は寝台から飛び起きた。


「何事だ!」


「敵襲でございます! 無数の松明の火が2里程先に現れました!」


「馬鹿な!? 椻夏から出撃して来たと言うのか!?」


「いえ、その様子はなく、何処からともなく現れたようなのです……!」


「何を寝ぼけた事を……! おい! 俺の鎧と剣を持て! 馬も準備しろ! 迎え撃つ!」


 郭吉は状況も分からぬままにすぐに迎撃の準備をした。



「おのれ……夜襲とは卑怯者め、どこのどいつだ!?」


 騎兵を集めた郭吉は、陣営の外に出て敵の松明の灯りを目視した。

 すでに陣営の目前にまで迫っている。


「放てーー!!」


 敵の指揮官の声が闇夜に響いた。

 同時に火の点いた矢が夜空に弧を描き降り注いで来た。


「小癪な……! 敵を殺せ! 騎兵隊突撃!!」


 郭吉は怒りのままに得体の知れない敵へと騎兵を突っ込ませる。


「卑怯者の閻軍の指揮官はどこのどいつだ!!」


 大刀を構え馬を駆けさせる郭吉。

 降り注ぐ火矢などものともせず、右手の大刀で容易く払い落とす。


「我こそは閻軍の楽衛がくえいなり!」


 ようやく名乗りを上げる馬上の敵将を視界に捉えた郭吉はニヤリと笑った。


「知らんな! 閻軍の弱卒などぉぉ!!」


 郭吉は勇敢にも騎兵隊と共に先頭を駆け、何故か動かない楽衛の部隊に突っ込んで行く。


「恐怖で動けなくなったか、腰抜けめ! やはり平和ボケした国の兵が、大刀旋風だいとうせんぷう・金登目将軍の配下、この郭吉に勝てる筈があるまいよぉぉ!!」


 郭吉の勢いは留まらず、騎兵隊も喊声を上げて楽衛の部隊へと迫る。


 ───と、そこへ、郭吉部隊の側面から闇夜から突如として現れた無数の影が突っ込んで来た。


「何だ!?」


「郭吉? 知らないなぁーー! だけど、金登目の部下なら容赦はしない!!」


 闇から現れた影も騎兵隊だった。その先頭の兵は女の声だった。


 突然の側面からの奇襲に、郭吉は自らに伸びる槍の切っ先は間一髪躱したが、女の馬に突き飛ばされた衝撃で乗っていた馬ごと地面を転がった。


「ぐあぁっ!!?」


 郭吉の騎兵隊も半数は同じく馬諸共地面を転がり、或いは既に槍で突き殺されていた。


「おのれ……」


 左肩を痛めた郭吉は何とか立ち上がり、閻軍の騎馬の後続の突撃を何とか回避する。


「あれー、生きてたか」


 戻って来た女は郭吉を見付けると馬上で冷酷に槍を構える。


「貴様……まさか、徐墻じょしょうか?」


「御明答。よくも斬血ざんけつを使ってあたしまで殺そうとしてくれたわね!」


「はっ! 裏切り者は粛清されて当然だろう」


 左肩を庇いながら、郭吉は大刀を前に突き出し徐墻じょしょうと戦う姿勢を見せる。


「万全でも勝てないのに、負傷してもまだ諦めないのは立派ね。でも、情けはかけないわよ」


 徐墻は槍を構えた。


 しかし───郭吉を突き殺そうとしたその時、生き残りの騎兵が数騎徐墻に向かって大刀を振りかざし突っ込んで行った。

 流石に徐墻は郭吉から騎兵へと標的を変え槍を振り回す。

 その隙に、騎兵の1騎が郭吉に自らの馬を譲った。


「お逃げください! ここは私が!」


「済まない! 皆の者! 撤退せよ!」


 郭吉は潔く撤退の号令を出すと、残っていた騎兵隊はすぐに反転し、元の陣営を放棄し南へと撤退した。



「逃がすか!」


「通さん!」


 自ら残った郭吉に馬を差し出した兵士がたった1人で徐墻に大刀1本で挑む。

 しかし、徐墻は馬に乗ったまま、槍の柄で兵士の振る大刀を受けると、軽々と弾いて、がら空きになった胸へと槍を一突きした。


「立派。だけど、あたしに挑むは無謀。……さて」


「徐墻! 深追いは無用! 目的は達した! 我々も戻るぞ」


 兵士の胸から槍を引き抜き、馬の腹を蹴り追撃しようとした徐墻を楽衛はすぐに呼び止めた。


「えーーーー!!! もう??? あたしまだ1人しか……」


「命令だ! 其方は副官。守れぬなら椻夏に戻るか?」


「御意……」


 不服そうに返事をする徐墻に頷くと、楽衛は東を見た。



 ♢


 郭吉の陣営は突然の夜襲で混乱していた。

 見張りもほとんど機能していなかった。

 その隙を突き、清華は馬を疾駆させてあっという間に抜けて行った。


「凄い! 本当に簡単に抜けられちゃった、流石宵様!」


 月明かりに微かに照らされた道。

 清華は閻帝国の命運を背負い、洪州へ向けてただひたすらに駆けて行った。

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