第10章 洪州の戦い

第178話 裸の軍師

 ~葛州かっしゅう椻夏えんか


 早朝、椻夏城内の宵の部屋。

 本来、閻服えんふくを纏い、綸巾かんきんを被り、軍師らしい佇まいをしているべきところではあるが、宵は一糸纏わぬ姿で布を敷いた椅子に座り、足もとに置いた湯桶から温かい湯を布に染み込ませ身体を拭っていた。


 ゆっくり湯船に浸かりたいと思っても、いつ朧軍ろうぐんが攻撃を仕掛けてくるか分からない状況では、おちおち入浴も出来ない。


 宵は身体を拭いながら、机の上に広げた竹簡と書状をぼーっと眺めた。


 竹簡は祖父・瀬崎潤一郎の形見である『異国創始演義いこくそうしえんぎ』だ。いつ最後の目標が達成出来るか分からないので、宵は暇を見つけてはこうして確認している。


 もう1枚の書状は、昨夜遅くに清華せいか秦安しんあんから持って来た大都督・呂郭書りょかくしょと宰相・董炎とうえんいんがある洪州軍こうしゅうぐんの免罪符だ。

 この免罪符を洪州刺史しし樊忠世はんちゅうせいに届けて、洪州軍全軍を再び閻軍へと帰順させる。それが成功すれば、洪州にいる朧軍本隊、大都督・周殷しゅういんを破れる。


 光世は本当に良くやってくれた。

 2人の朝廷の監視の目を避けつつも、偽の免罪符を作り上げた。

 本当は朝廷の監視2人は宵が計略を仕掛けて無力化しようと思っていたのだが、監視の2人は想像以上に無能だったようでそれも必要なさそうだ。


 問題は、今現在敵地となっている洪州へ書簡をどのようにして届けるかだ。

 物見の情報によると、洪州は閻軍の北、西、南の3方面からの攻撃を警戒し、徹底的に防御を固めている。現在関所を閉ざし、洪州の外からの侵入は困難を極める。そこを伝令が突破するのは指南の業だろう。

 万が一、免罪符を持たせた伝令が朧軍の将兵に捕まればこの策は失敗に終わる。そうなれば命懸けで免罪符を作成してくれた光世達の努力が水泡に帰してしまう。

 勿論、初めから無策だったわけではない。元々、周殷のところに潜り込ませている間諜の甘晋かんしんを上手く使うつもりだった。

 しかし、その甘晋からの定期報告も最近は途絶えてしまっている。それだけ朧軍の警戒が厳しくなったという事だろう。


 問題はそれだけではない。

 今椻夏を包囲している金登目きんとうもく全耀ぜんようの軍をどうするか。

 離間の計をかけては見たが、表立って軍が乱れたりといった動きは今のところない。


 こちらの兵糧ひょうろう一月ひとつき程前から完全に絶たれてしまった。今は椻夏の蓄えで何とか凌いでいる状況だ。

 早く朧軍の包囲を解かなければならない。


「はぁ……」


 宵は気のない溜息をついた。

 考える事が多過ぎる。

 四六時中、国の大事を考え続けている。

 一介の女子大生がだ。

 そんな事を考えながら、ほとんど無意識に、身体を拭っているので同じ箇所をひたすら温かい布で撫で続けていた。

 脂肪のない平らな胸を壊れた人形のように撫で続ける。

 それはただただ虚無である。


「どうしよう……どうしたらいい?」


 誰かの返事を貰いたいわけではないが、1人の部屋で宵は問いかけた。普段は貴船桜史きふねおうしに相談するが、彼は今城内の視察に回っていていない。


「はぁ……」と大きな溜息をつくと、布を湯桶の中に入れた。おもむろに桶に手を入れ、そして湯を掬うと掌から零れ落ちそこには何も残らなかった。


「お背中流しましょうか?」


「うぃっ!?」


 自分1人の筈の部屋で、突然背後から話し掛けてきたのはニヤニヤといやらしい表情で笑う清華だった。客室で爆睡中の筈の清華が元気そうな様子でそこにいたのだから驚かない筈がない。

 宵は顔だけ振り向いたまま一瞬固まったが、すぐに我に返る。


鍾桂しょうけいくーーーん!!!」


 宵の叫び声に、部屋を警備していた親衛隊長の鍾桂が部屋の外から「こ、ここにります……!」と動揺した返事を返す。


「私が身体を洗ってる時は誰も入れないでって言っておいたでしょ!?」


「いや、止めたんだけど、『私と宵様の仲だから』とか言って勝手に入って行っちまったんだよ! 部屋に入られたら連れ戻せないし……」


 鍾桂の顔は見えないが、必死に言い訳する声が響く。


「それを止めるのが貴方の仕事でしょ??」


「ああ……ごめん、今からでも部屋に入ってとっ捕まえた方がいい?」


「いいよ、もう。今回は清華ちゃんだから特別に許します」


「寛大なお心、痛み入ります!」


 大学生のようなノリに、宵は思わずクスりと笑った。


「宵様、鍾桂殿とはもう寝たのですか?」


「はい?」


 突然の清華のど下ネタに、宵は目を見開いて聞き返す。


「だって、すっごく仲良いじゃないですか、お2人共。そういう関係なんでしょ?」


「好きだねぇ、清華ちゃんそういう話」


「好きなんです! あたし! そういう話!」


 目を輝かせて清華は宵の背中越しにはしゃぐ。


「私は鍾桂君とはそういう関係じゃないよ。主従関係だから」


「それは表の話ですよね? 裏ではもっと深い関係だと推測します。少なくとも、鍾桂殿は宵様の事好いてますよねー」


 清華の勘の良さに宵は苦笑だけして黙り込んだ。

 すると、清華は宵の手から布を取った。


「清華ちゃん?」


 困惑する宵を横目に、布を足もとの湯桶に浸し、そしてよく絞ると勝手に宵の背中を洗い始めた。


「あ、ありがとう」


「私は下女なのでお気になさらず〜」


 言いながら楽しそうに清華は宵の身体を拭き始めた。

 久しぶりの清華との戯れに、宵は身を任せる。


「ところで、宵様。洪州へはどのように書状を届けるのですか?」


「え?」


 宵の憂いを見抜いていたのか、清華は核心を突く質問をしてきた。


「だって、洪州軍は今は全て朧軍なのでしょう? 元閻軍だけに書状が届けばいいですが、朧軍に見つかってしまえば書状は燃やされてしまうでしょう」


「そうなんだよね。甘晋殿を頼ろうと思っていたんだけど、一月ひとつき以上連絡取れてないんだよね……」


「甘晋殿かぁ……元気かなぁ」


 甘晋の名を聞いて、清華は懐かしそうに微笑んだ。

 清華と甘晋は間諜として働き出したタイミングがほぼ同じ、言わば同期という間柄だ。本当はそこに歩曄ほようという男もいたのだが、彼は景庸関けいようかんの戦いで清華を庇って戦死した。


「洪州の警備も厳しいけど、ここ椻夏の包囲も厳重だからね。清華ちゃん、よく朧軍の包囲の隙間をかいくぐって入って来れたよね。ここ最近であの包囲を突破して来たのは貴女だけだよ? マジで尊敬するわ」


「まあ、余裕ですよ。私1人くらい。それより……」


「ん?」


「洪州にはあたしが行きます」


「え!? あ、いや、違う! そういうつもりで言ったんじゃ……」


「だって、あたしにしか出来ないでしょ? あたしはどんな手を使ってでも仕事はやり遂げます。甘晋殿の無事も確認したいですし」


 清華の申し出はありがたかった。

 正直、清華の実績的には今回の任務を任せても問題ない。

 清華がいなければ、暗殺戦術に特化した陸秀りくしゅうの部下の者に洪州への潜入を依頼するしかないと思っていた。

 信用出来るかと言えば難しいが、潜入任務には慣れている筈だ。使えない事はないだろう。ただ、甘晋と合流させるのは難しい。陸秀の部下達は甘晋を知らないのだ。甘晋を使って免罪符を樊忠世はんちゅうせいに渡すには、彼らと甘晋が合流する術を考えなければならない。

 だが、清華なら甘晋を知っているのですぐに合流出来るだろう。

 まさに清華は今回の任務には適任と言わざるを得ない。

 しかし……


「いやでも……清華ちゃんには光世のもとにいて欲しいんだよ」


「昨日もお話いたしましたが、光世様の秦安しんあんでのお仕事は終わっております。陸秀りくしゅう殿とその部下の方々も大勢いますので、数週間あたしがいなくても大丈夫です」


 確かに、昨日清華から聞いた話によれば、董炎とうえん失脚の秘策『塩の搬出』はほぼ完成しているらしい。洪州軍の免罪符の取得も完了しているとなれば、光世には早々に椻夏えんかに帰還してもらいたい。

 ただ、だからと言って秦安よりも危険な朧軍の本陣である洪州へ向かわせるのはかなり心が痛い。

 宵にとって清華はもはやただの下女ではない。


「宵様。どうか最善を尽くしてください」


 清華が背中を洗う手を止めたので宵は振り向いた。

 そこには跪き拱手する清華の姿が。


 宵は慌てて立ち上がる。


「あー……、分かったから清華ちゃん、立って。そんな裸の私に礼なんて」


「たとえ裸でも、宵様はあたしの主人であり、軍師殿です」


「そこまで言うなら……」


 宵が裸のまま机に置いていた免罪符を取り、清華に差し出した。


「こんな格好で申し訳ないけど、清華ちゃん。免罪符を甘晋殿に届け、樊忠世からその返事を貰い報告に戻ってください」


「お受けいたします」


 清華は宵の手から免罪符を再び受け取ると仰々しく頭を下げた。宵もまさか裸で命を下す事になるなどとは思わなかった。自分の格好に急に恥ずかしくなり、頬を赤らめた宵は胸と股を手でさり気なく隠した。


 と、その時。部屋の入口の辺りで男達の言い争う声が聞こえて来た。咄嗟に清華は受け取った免罪符を胸元へとしまう。


「今は何人も部屋には入れませんよ!」


「一大事なのだ!! すぐに軍師殿に伝えねばならぬ!!」


 鍾桂が部屋に押し入ろうとする男を止めているようだ。

 相手の男の声には聞き覚えがある。


 男は強引にも部屋に押し入ろうとしているので、宵は急いで身体を乾いた布で拭き始めた。

 清華も大急ぎで宵の太ももと尻の水滴を布で拭き取り、無遠慮に股にまで手を伸ばし水気を素早く拭き取った。秘部を他人に撫でられる感触に、思わず宵は腰を引く。


「軍師殿!」


 男が鍾桂を押し退け、宵の部屋に押し入って来たちょうどその時、宵はギリギリで現代で言うバスローブのような浴衣を纏った。


「……え……!?」


 その男の顔を見た瞬間、宵は戦慄した。

 短時間に2人も部屋に押し入られてしまった護衛の鍾桂は、バツが悪そうに宵を見ながら頭を掻いている。

 だが、宵にとってそんな事はどうでも良かった。

 彼がここに来たという事実が、宵に悪い予感をさせたのだ。

 目を背けたくなる程に痛々しい顔の火傷跡。

 見間違う筈がない。


陸秀りくしゅう殿……どうして……ここに?」


 光世の護衛として秦安しんあんに潜入していた陸秀。かなり焦った様子で息を切らしている。

 宵の足もとに跪いていた清華も、陸秀の突然の登場に驚いて声も出せずにゆっくりと立ち上がった。


「陸秀殿……光世様は?? 何でこっちに来ちゃってるんですか??」


 やはり清華も陸秀の来訪の理由わけは知らないようだ。


「軍師殿、光世が……董炎に捕まった」


 悪い予感は当たった。

 その場にいる全員が絶句した。

 陸秀が直接それを伝えに来た事が、情報に信ぴょう性を持たせている。


「陸秀殿! 何故助けなかったのですか!! 貴方が付いていながら、何故みすみす光世様を董炎に引き渡すなんて……」


 清華が珍しく声を荒げて怒った。

 俯く陸秀に掴み掛かり、光世を救わなかった理由を問う。


「救おうとした……! 捕らえに来た将軍2人を斬って救おうとしたんだ! だが、光世は『助けなくていい』と、『宵に伝えろ』と……!」


 悔しそうに震える陸秀の言葉。宵はそれで光世が何故陸秀に助けを求めなかったのか理解した。


 清華は目尻に涙を浮かべながら宵を顧みる。


「無事なんですよね、光世は」


 宵は声を震わせながらも光世の安否を訊ねる。

 しかし、陸秀は俯いたまま口を開く。


「今のところは……」


「……今の……ところは……か」


「俺の部下を光世の監視に付けている。万が一殺されるような状況になれば、どんな手を使っても救い出せと命じている」


 光世が捕らえられた理由は分からないが、光世が『助けなくていい』と言ったという事は、計略は問題なく進んでいて、騒ぎを起こす方が問題だという事だろう。


 宵は頭を抱えて机の前に腰を下ろした。


「少し……考えさせて」


 混乱。突然の親友の命の危機に、単なる女子大生の宵に何が出来るのか。とにかく、現場に行って光世を拘束する理由を確認して、その原因を取り除くべきだろう。だが、自分が前線であるこの椻夏えんかから離れる事など出来る筈がない。

 とは言え、急がなければ手遅れになるかもしれない。


「俺が行く」


 不意に部屋の外から声が聞こえ、声の主は静かに部屋へと入って来た。


「きふ……桜史おうし殿……」


 入って来たのは桜史。いつにもなく神妙な顔付きだ。


「話は聞いた。考えている時間はないよ、宵殿。ことは一刻を争う。宵殿はここから動けない。だから俺が秦安へ行って状況を確認して来る」


「え……いや、でも……」


「状況を確認した後、必要に応じた対応をする。大丈夫、俺はこれまで君とずっと一緒にいた。計略の全てを理解してる。他の誰でもない。俺が行った方がいい」


「待ってください! 桜史様! それなら、あたしも」


 桜史は清華の胸元に免罪符が入っているのを見てそれを指で指し示す。


「清華さんは、洪州へ免罪符を届ける任務を仰せつかったのでは?」


「あ、いや、その……でも、光世様が……」


「君が洪州軍に免罪符を渡せなければ、宵殿の計略は失敗する。光世殿の努力も報われないかもしれない」


 桜史の話を聞いて、清華は口を噤んだ。


「宵殿。秦安へ行く許可を」


 桜史は黙って話を聞いていた宵に拱手した。


 確かに桜史の意見は至極真っ当だ。ただし、桜史の身にも危険が及ぶ可能性は高い。


「宵殿!」


 宵は決断を迫られた。

 全員の視線が宵へと集まる。

 また友人の生命に関わる決断だ。


 宵は逡巡の末、静かに口を開く。


「許可……します。陸秀殿と共に秦安へ向かい、光世を救出してください」


「ありがとう」


 筆頭軍師・宵から許可を得た桜史は、また拱手すると陸秀を伴って部屋から出て行った。


「いいのか、宵。それだけで」


 鍾桂が言うと、宵はハッとして立ち上がり、桜史を追い掛けた。


貴船君・・・!! 絶対!! 光世を連れて帰って来て!! そしたら、3人で帰るんだからね!!」


 宵の言葉を背中で受け、桜史は立ち止まった。

 そして振り返るとニコリと微笑み拱手した。


「御意!」



 桜史は陸秀と共に去った。

 自分が混乱している中、冷静に最適な方法を選択し、行動に移した。

 そんな事は宵には到底出来ない。

 桜史がいなければ決断に数日を要しただろう。


 宵が桜史と陸秀の去った方角を無言で見続けていると、鍾桂がそばに来て肩に手を置き、清華が手を握ってくれた。


「桜史様なら大丈夫。あたしも頑張ります」


「宵が呆けていたら駄目だろ。さっさと戦を終わらせないと。な?」


 2人の言葉に、宵も我を取り戻し振り向く。


「ありがとう。鍾桂君。清華ちゃん」


 宵はなんとか笑顔を作って応えた。

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