第176話 必ずや

 祝宴が終わると、光世は急いで馬車に乗り込み董陽とうよう邸へと向かった。

 馬車には光世の他には下女の清華せいか大司農だいしのう董星とうせい、そして、酔い潰れて爆睡している司徒の董陽とうようがいる。


「光世様、陛下にとても気に入られましたね。これから毎食食事を作れと」


 苦笑しながら、清華は言った。光世も董星も酒が入って顔が赤いが、下女という身分の清華だけは酒を呑めなかったのでいつも通りの顔色をしている。


「うん……あれは困ったね。まさかあんなに気に入ってもらえるとは……どうするかなぁ……」


 光世も苦笑しながら言ったその横で、何やら董星が竹簡に文字を書いている。董星は言葉を話せないので、常に墨を入れた竹筒と筆、そして竹簡を持ち歩いている。文字を書き終わるとそれを光世に見せた。


『陛下は董陽あねうえに何とかしてもらうから心配しないで。光世以外でもあの料理が作れればいいのだから』


「ありがとうございます。董星様。本当に貴女にはいつも助けられています」


 光世が笑顔で拱手すると、董星は嬉しそうに笑った。その笑顔はまるで無垢な少女のように可愛らしい。この人の声を、一度でいいから聞いてみたいと光世は思った。


「ふー……」


 光世は深く息を吐いた。

 いつにも増してソワソワしている。

 ちらりと董星の膝枕で寝息を立てて眠っている董陽を見ると、光世は清華の耳元で囁いた。


「帰ったらすぐ、お願いしたい事があるの」


 清華は光世の顔を見ると黙って頷いた。

 そして今度は董星の耳元で光世が囁く。


「董星様も私の部屋へ来てください」


 すると董星も黙って頷いた。


 光世はまた董陽をちらりと見る。

 まだ司徒様は気持ち良さそうに眠っている。当分起きる事はないだろう。


 馬車は闇夜を大急ぎで董陽邸へと駆けていった。



 ♢



 帰宅後すぐに、光世は清華と董星を部屋に招くと部屋の外に人がいないのを念入りに確認した。

 光世の手には1枚の書状がある。

 そして部屋にはもう1人、顔に酷い火傷を負った男がいた。

 陸秀りくしゅうだ。

 始めてその痛ましい顔を見た董星は口を押さえ目を背けた。


「董星様には以前ご相談させていただいていましたが、実はこの陸秀殿に、祝宴の間に尚書台に潜入してもらいました」


 光世が声を潜めながらそう切り出すと、董星は驚いた顔をして、サラサラと竹簡に文字を認めた。相変わらずの速筆である。


『料理を振る舞うと言い出したのは陛下の興味を引き、絶対に中止や延期に出来ない状況にしたのね』


「そうです。一度陛下をその気にさせたら絶対に開かないといけないって、貴女の姉上に脅されてヒヤヒヤしましたが、逆にそのお陰で計略は成功しました」


 そう言うと光世は手に持っていた書状を清華と董星に見せた。


 それは、呂郭書りょかくしょが書いた、洪州軍全軍に対する声明。再び閻に寝返れば先の朧軍への投降は無罪放免とするというもの。文末には大都督の印と丞相の印がしっかりと押されている。


「わ! 凄い! ホントに押してきたんですね、陸秀殿!」


 書状を見た清華は手を合わせて目を爛々と輝かせたが、董星の反応は違った。

 急に俯き、真っ白な長い髪を執拗に弄り始めたのだ。


 その反応を見て、この完成させた書状に押された印が丞相の印である事を確信した。

 董星はまた竹簡に筆を走らせる。


『本当に手に入れてくるとは思わなかった。董月とうげつ姉様に露見したら間違いなく死罪』


 竹簡の文字を読むと、光世は唇を噛み締めた。そしてゆっくりと口を開く。


「それは……覚悟の上です。私の為に命を落とした人の為にも、絶対にえんを救いたい。自分だけ安全な場所から戦いたくないんです。それに、董星様もすでに命を賭けてくださっています。もうとっくの昔に私も貴女も死と隣り合わせなんですから。今更……怖くありません」


「ちょっとちょっと、私も命賭けてますよ〜」


 辛気臭い雰囲気を感じとったのか、清華はニコニコしながら光世に抱き着いた。


「そうだね。清華ちゃんにはいつも危険な仕事を任せちゃって」


「死ぬ時は皆一緒です!」


 へへへ、と、清華は董星へと屈託のない笑顔を見せる。いつしか清華も偽名ではなく、本名を打ち明けるまでに董星とは信頼関係を築く間柄になっていた。

 そんな清華の笑顔を見た董星は、色素の抜けた白い長い髪を撫でながら清華の真似をして笑顔を作ってみせた。


「董星様、私はこの書状を洪州へ送ります。そして朧軍との戦を終わらせます。これを送った後の実際の軍の動かし方に関しては宵がやりますが、私の役目の1つ目が終わります」


 董星はうんうんと頷く。


「あとは董星様にお任せしている『塩の運搬』ですが、首尾はいかがでしょう?」


 董星は光世の問に応じ、また竹簡に筆を走らせた。

 光世は書き終わった竹簡を受け取ると黙読する。


『あと1回の搬出で呼巣こそうに200万石が集まる。秦安には不自然にならない程の塩が残っているので問題ない』


「上出来です。もう間もなく、こちらの策も成ります」


 光世は竹簡を董星に返しながら不敵に笑った。


「問題は、向こう・・・に誰が行くか。そして、董炎達に気取られないか」


 清華も董星も陸秀も、皆黙って頷いた。


「董星様、もしも私の身に何かあったとしても、塩の運搬は完遂してください」


 光世の言葉に董星は静かに拱手した。


「清華ちゃん」


「はい」


「貴女には宵にこの呂大都督の免罪符を届けて欲しい。今この時までの状況を口伝して。他の間諜じゃなく、貴女にお願いしたい」


「御意! どうせ今からすぐにてって言うんですよね?」


「うん……偽の免罪符を秦安ここに置いておきたくないし、ことは一刻を争うから……こんな時間じゃ、城門も閉まってるから街から出る事も難しいのに……ごめんね」


「問題ありません! 私は歩曄ほよう殿の意志を継いだ最強の間諜ですから! 不可能はありません!」


 自信満々に言う清華に、光世は迷う事なく呂郭書りょかくしょの免罪符を渡した。


「清華、光世の安全は俺が守る。後ろは心配するな」


 しばらく黙って見守っていた陸秀が静かに言った。

 蒯豹かいひょうも出来る武人のオーラがあったが、やはり陸秀の安心感はまた別格だ。


「陸秀殿がいるなら安心出来ますね。それでは、早速私は椻夏えんかに行って参りますね!」


「気を付けて、清華ちゃん。宵と桜史おうし殿によろしく」


 光世が小さく手を振ると、清華は拱手し、深々と頭を下げた。

 そして踵を返すと、もう振り返らずに部屋を出て行った。


 清華を見送っていた光世の肩を人差し指でつついてきた董星が、竹簡をスっと見せた。


『あの子ならきっとやり遂げる。董陽あねうえの部屋を物色する度胸があるのだから』


「はい。私は清華ちゃんを信じてます。あの子とは、もう長い付き合いになりますし」


 清華を信頼する光世の真っ直ぐな言葉を聞いた董星は竹簡に筆を走らせた。


『塩の搬出は明日の夕刻までには完了。3日後の正午までに呼巣こそうに搬入予定。それまではお互いの為にもう会わないでおきましょう』


 そう書かれた竹簡を光世に渡すと、董星もまた、振り返らずに部屋を後にした。


 部屋には光世と陸秀の2人きりになった。


「陸秀殿。本当にありがとうございました。貴方がいなければ、きっと免罪符を作れませんでした」


 光世は椅子に腰を下ろすと、陸秀に思いの丈を伝えた。

 陸秀の素顔を見るのは大分久しい。


「お前が命じなければ、俺は尚書台になど忍び込まないし、丞相のいんなど押して来なかった」


 光世はクスりと笑った。


「そうですね」


 陸秀は懐に入れていた仮面を顔に着けた。火傷の痕はすっかり隠れた。


蒯豹かいひょう殿は?」


「元の任務に戻らせた。清華が無事城外に出られるよう動くだろう」


「流石です」


「お前はもう寝ろ」


 陸秀はそれだけ言うと静かに部屋を出て行った。

 もう彼の気配はない。

 光世は外から微かに聞こえる虫の音を聞きながら、ウトウトと眠りに落ちた。




 ***


 一方その頃、董炎の屋敷では、真夜中にも関わらず董宙とうちゅう董月とうげつが召集されていた。


ちゅうげつ何故なにゆえにお前達だけが呼ばれたか分かるか?」


 藪から棒な質問だが、2人は頷くと拱手した。


「光世の事でしょうな」


「そうだ。宙よ、お前はあの小娘をどう思う」


「単に陛下のご機嫌取りをしているだけには思えません。巧妙に丞相のめいを躱し、その腹の中では何かを企んでいると推察します」


「うむ。儂もそう思っている。光世単体では大した事はないのだが、恐らく裏についている宵や楊良ようりょうは厄介だ。真の目的が解らぬ」


「私も、光世は何か私達に仕掛けていると思うわ。そうね、例えば……丞相の失脚を狙ってるとか?」


「何? それがまことならば、宵や楊良も閻の為に朧軍と戦っていると見せ掛けて、実は閻を乗っ取ろうとしているという事ではないか。流石にそこまで大それた事を……」


 董月の突拍子もない推測に、董宙が鼻で笑った。だが、董炎は真剣に董月の推測を思案した。


「成程な。馬鹿げた考えだが、宵も光世も異国の者。この閻を乗っ取ろうと考えていても不思議ではない。それに、腫れ物の閻仙えんせん楊良もいれば益々その推測も信ぴょう性が増すな」


「そんな……」


 動揺する董宙を他所に、董月は美しい黒髪を手で梳きながら涼しい顔をしている。


「兄上は疑うと言う事を知らないのね。私は光世を初めて見た時から怪しいと思っていたわよ」


「だが、それが本当なら早いところ手を打たねば」


 はやる董宙を董炎が手で制する。


「待て、董宙。お前は光世には手を出さなくて良い。お前には他に監視しておいてもらいたい者がおる」


「誰でしょう?」


孫晃そんこうだ。奴は帰還こそしたがもう用済みだ。太尉という立場でありながら、呂郭書から軍を取り上げられなかった。祝宴まで開いて帰還を祝った手前、すぐに処分するのは不味い。時期を見て太尉の任を解き、橙州とうしゅうの西の果てに飛ばす。それまでは余計な事をしないように良く見張っておけ」


「御意……しかし、後任の太尉は誰に?」


「しばらくはお前があたれ、宙。光世という異物を排除するまでだ。孫晃不在の間はお前が上手く回していただろう。問題ない」


「心得ました」


げつ。光世はお前に任せる。一応、陳緒ちんしょ橋越きょうえつを監視に付けているが役立ずだった」


「監視……ですか。父上も甘いですね。私にお任せくださるというのなら、私のやり方でやらせてください」


「殺すのはなしだぞ。賊徒の可能性があれど、使い方次第ではこちらにもまだ利用価値がありそうだからな」


「御意」


「ああ、それと、ようせいも最近は光世に肩を貸している節がある。注意深く監視しろ」


「ああ……御意」


 董宙と董月はそれぞれ命を下されると、董炎の部屋から退室した。


 董炎は1人になった部屋でポツリと呟く。


「あの暗愚の君も潮時か……」



 そう言うと突然声を上げて笑い出した。

 真夜中の居室に、不気味にその笑い声が響いた。




 ***


 翌日。


 朝から董陽邸が騒がしかった。

 将軍の陳緒ちんしょ橋越きょうえつが光世の部屋に乗り込んで来たのだ。


 またか、と思った光世だったが、2人の将軍は剣を抜いた。


尚書令しょうしょれい・董月様の命により、軍師光世を逮捕する」


 突然の事に目を見開く光世。

 だが、同時に仮面の武人・陸秀が大刀を片手に将軍達と光世の間に割って入った。


「尚書令にそんな権限があるものか! 事実なら董月を呼んで来い!」


 陸秀の一喝に、2人の将軍は動じなかった。


「董月様は丞相より、逮捕権を含む光世に対する全ての権限を移譲されている」


「董月様の使いである我々に逆らうという事は、丞相への反逆と同じ」


 陳緒と橋越は得意げに交互に言い放った。


「光世!」


 陸秀が叫ぶが、陳緒は構わず光世の腕を掴み、橋越がその首に剣を突き付ける。


「貴様ら……斬って捨ててくれるわ!」


「待って! 陸秀殿! 手を出さないで!」


 陸秀は光世の願いを聞き入れ、咄嗟に振り上げようとした大刀を止めた。


「助けなくていい。私の役目はもう終わってる・・・・・・・。宵に伝えて。戦が終わったらまた会おうって」


 陸秀は大刀を下ろした。

 連れ去られる光世の瞳から零れる涙を見たのだ。


 全てを悟った。今光世を助ける為に陳緒と橋越を斬るのは簡単だ。だが、そうした場合、今まで積み上げて来た光世達の計略はどうなるだろう。


「伝えよう。必ずや……必ずや……!」


 陸秀は大刀を持ったまま、光世の後ろ姿に拱手した。




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