第175話 祝宴

 皇帝の御前に現れた太尉たいい孫晃そんこうは、跪くと神妙な面持ちで拱手した。


「太尉・孫晃が皇帝陛下に拝謁いたします」


「孫晃、無事に戻り朕は嬉しく思うぞ。して、呂郭書りょかくしょはどうしておる」


 ヘラヘラとしながら玉座に座る皇帝・蔡胤さいいんは孫晃に問う。

 その傍らには、宰相さいしょう董炎とうえんが緊張感のない蔡胤と対照的に厳しい表情で座っている。

 董炎の子供達の三公も集結しており、その並びに黒い冠を被った軍師・光世みつよ大司農だいしのう董星とうせいと共に座っていた。


「呂郭書は、撤退する準備をしておりました。数日中にはここ秦安しんあんへ帰還すると思われます」


 その報告を聞いて蔡胤は手を叩いて喜ぶ。


「おお! それは良い! では、光世の交渉は成功したという事だな! やはり、光世は有能な人物であった!」


 急に名前が出た光世は、愛想笑いを浮かべて拱手した。


 蔡胤の話の意味が分かっていない孫晃は、目を瞬かせて恐る恐る董炎の方を見る。

 呆れ返った表情の董炎が、ゆっくりと立ち上がった。


「陛下、お待ちください。喜ぶのはまだお早いかと」


「何? 丞相、どういう意味じゃ? 孫晃はこの通り解放され、呂郭書の軍権はもう間もなく返還される。何が不満なのじゃ? 丞相」


「我々は朧軍ろうぐんと戦をしているのです。確かに呂郭書に軍権を返上させるよう、光世に命じましたが、軍の撤退は命じていません。孫晃に軍権を移譲させ、そのまま軍を洪州こうしゅうへ向かわせるのが当然。子供でも分かる事。のお、光世よ。呂郭書とはどのようなやり取りをしていたのだ?」


 責め立てるような口振りの董炎に問われ、光世はとりあえず立ち上がる。

 百官の注目は一斉に光世へと集まる。


「申し上げます。呂大都督とは、軍権を孫太尉へ移譲する手筈で話をしていました。しかし、長期の駐屯で兵達の士気は著しく低下し、このまま孫太尉へ軍権を渡して進軍しても洪州で使い物にならないのは明白でした。故に、孫太尉を解放した後に、軍権を朝廷へ返上するという結論に至った次第です」


 言いながら、光世は膝がガクガクと震えるのを感じた。幸い、長いくんのお陰で周りには気付かれてはいない。


 だが、董炎の視線はそれすら見透かすかのように、光世を睨み付けている。


「丞相、光世の話はまことです。呂大都督も同じ事を言っておりました。現に呂大都督の軍の士気は著しく低く、洪州で朧軍ろうぐんと戦えるような状態ではありませんでした」


 孫晃の光世を庇うようなその発言に、百官達はどよめいた。まさか孫晃が光世を弁護するとは思わなかったのだろう。

 ただ、光世にとってはその言葉は想定内であった。


「確かに、士気の低い軍勢を朧軍にぶつけたとて勝てはしないな」


 董炎が淡々とした口調で言った。


「士気の低い軍をいたずらに駐屯させていても、兵糧を無駄に消費する事になります。なればこそ、一度全軍を秦安に帰還させて士気を回復させるべきなのです」


 光世は拱手したまま軍の撤退の正当性を解く。

 百官達から「確かにそうだ」などと声が聞こえる。


 董炎は何も言わず、腕を組んで椅子に腰を下ろした。


「とにかく、光世! ご苦労であった! 孫太尉が無事戻って来たのはひとまずめでたい事。呂郭書の処罰は後で考えるとして、今宵は予定通り、宴を開くぞ! 光世の手料理を堪能しようではないか!」


 蔡胤が手を叩くと百官達も沸き立った。

 それを横目に董炎は不服そうに頬杖をついて光世を睨んでいる。

 董宙とうちゅう董月とうげつも笑顔はなく光世をただただ不審な目付きで睨み付けているだけで何か言う素振りはない。


「皆の者! 今日はもう良い、解散じゃ! 宴の準備をせよ! 光世、今宵楽しみにしておるぞ!」


 光世は拱手すると頭を深々と下げた。


「行きましょう」


 上機嫌な蔡胤が早くも解散を言い渡したので、董陽とうようは他の兄妹達とは違い、優しく光世に声を掛けると、董星と共にそそくさと沸き立つその場を後にした。


 その場を離れても、董炎の眼光だけはいつまでも光世の背中を突き刺しているような気がした。



 ♢


「光世ちゃん」


 宮殿の前の石段を降りながら、不意に董陽が光世に声を掛けた。


「はい」


 光世が返事をすると、隣の白髪の董星も振り向いた。


「陛下は貴女の事を気に入ったみたいだけれど、丞相はそうではないみたいよ」


「そうですね……董宙様も董月様も、私の仕事に疑念を抱いているように感じます」


 3人は足を止めず、小さな声で会話を続ける。


「それはそうよ。兄上もげっちゃんも根っからの父上派だもの。あまり不信感を抱く事はしない方が賢明よ。今の丞相なら、思い通りに動かない貴女を消す事なんて造作もない事なのだから」


「私は、丞相のめいに従い、呂大都督から軍権を返還させるよう説得しました。背いてはおりません」


「でも、実際に軍権は今現在返還されていない」


「……そうですね」


「孫太尉を先に帰還させたのは、その口から呂大都督が秦安への撤退を準備しているという事実を伝えさせる為の計略。撤退が事実なら文句はないけれど、十中八九それはない」


 董陽には計略を見透かされている。

 光世は唾を飲んだ。


「……何故ですか?」


「呂大都督も馬鹿じゃない。のこのこ秦安に戻れば自分の身が危険だと言う事は承知している筈。陛下は騙せても、丞相と私達は欺けないわよ」


「そ、そっか……私とした事が、詰めが甘かった……。呂大都督がちゃんと秦安に帰還するまで見届けないとですね。今夜宴なんてやってる場合じゃ」


「宴は中止には出来ないわ」


「え」


 光世は董陽の横顔を見る。その顔にいつもの笑顔はない。


「かつて陛下が楽しみにしていた祝宴が、1人の役人の手違いで開けなくなった事があったの。その役人は陛下の怒りを買い、市中で凌遅刑に処された。削ぎ落とした肉は鍋で煮込まれて陛下の口の中に消えてしまったわ」


 光世は口を半開きにしたまま、その嘘か本当か分からない話に呆然としていたが、隣の董星は驚く事もなくただ俯いたまま黙々と歩き続けている。


「そろそろ、光世ちゃんともお別れかな」


 董陽の声は冷たかった。

 陽の光のように温かな存在だった司徒・董陽。光世に失望しているのは間違いない。

 このタイミングで董陽が敵に回ったら、何もかもが悪い方向に動き出してしまう。


 咄嗟に光世は董星へ助けを求める視線を送るが、董星はずっと俯いたままだ。


 3人は石段を降り切ったところで足を止めた。


「でもまだ、策はあるのよね? 光世ちゃん」


「私は……」


 光世は懐から史登しとうに貰った赤と黒の扇子を取り出す。

 少しの間それを眺めると、顔を上げて董陽に向き直る。


えんの為に全身全霊をかけて策を巡らせています。早期に戦が終結し、この国の民が皆幸せになれるように」


 光世の真剣な眼差しを見た董陽は、くすりと笑った。


「そうよね。期待してるわ」


 董陽の顔にいつもの笑顔が戻った。

 俯いていた董星も顔を上げ、笑顔の戻った董陽あねを見た。


 そして、3人はそのまま待機させていた馬車へと乗り込んだ。



 ♢


 その日の夜。

 太尉・孫晃の帰還を祝う祝宴が催された。

 広い部屋に皇帝と百官が集まり、100名を超える下女達が料理を運び、20名程の踊り子が舞を披露している。


 宴席には董炎は勿論、三公や九卿きゅうけい達も参加して酒を呑んでいる。


「よし、そろそろ光世の料理を持って参れ!」


 既に酒の入ったふくよかな皇帝・蔡胤はご機嫌な様子で手を叩く。


 その合図を聞いた光世は、清華せいかを筆頭に他2名の下女達と共に、光世の作った手料理を蔡胤のもとへと運び込んだ。


「おお! これは見た事がない料理じゃ! 美味そうな香りがするのぉ!」


 蔡胤の前に次々と並べられる料理、なんてことはない、光世の住む世界では何処にでもある中華料理だ。

 三国時代には存在しなかった、『酢豚』に『エビチリ』、『麻婆豆腐まーぼーどうふ』に『青椒肉絲チンジャオロース』、『回鍋肉ホイコーロー』、そして『炒飯チャーハン』である。


 元の世界で自炊していた光世にとって、食材さえあれば料理する事は朝飯前だ。

 グルメな蔡胤にとって、口に合わないと言う事はないだろうが、万が一満足しないなどと言われたら別の料理のレパートリーはまだまだある。

 配膳しながら、清華がゴクリと喉を鳴らすのが聞こえた。


 董炎はすぐに下女達に光世の出した料理の毒見をさせたが、下女達は皆あまりの美味しさに口を押さえて笑顔を見せたので、蔡胤はその下女達を手を振って追い払った。


「待ちきれん! 早速いただこう!」


 蔡胤はすぐに箸を持ち、エビチリの海老を掴むと口の中に放り込んだ。


 光世は清華と共に蔡胤の隣に正座して、咀嚼する蔡胤を固唾を飲んで見守る。


 だが、光世の心配は杞憂だった。


「美味い! これは美味い! いくらでも食えるぞ!」


 蔡胤は光世の料理を大層気に入り、勢い良く料理をかき込み始めた。


「陛下があんなに美味しそうに料理を召し上がるのは久しぶりに見た」


 百官達は蔡胤の食べっぷりに驚嘆し、踊り子達すら踊るのをやめてその食べっぷりを凝視していた。


「良かった……お口に合って」


 光世はホッとして胸を撫で下ろすと、宴席の端っこの方で白い髪の董星が手招きしているのが見えた。

 光世は清華と共に董星の隣へと移動する。

 董炎や董宙、董月は相変わらず面白くなさそうな顔で酒を呑んでいる。


「董星様」


 董星の隣に座ると、董星は光世に文字が書かれた竹簡を見せてきた。


『私も食べたい。あとで作って』


「もちろん、いいですよ」


 歳の割に可愛らしいお願いをする董星に、光世はニコりと笑った。


「光世ちゃ〜ん、お酒一緒に呑もうよぉ〜」


 どこからともなく現れた、すでにベロベロに酔っている董陽が、油断している光世に覆い被さってきた。とても酒臭い。

 その光景を見て、董星が逃げるように離れていったので、光世は董陽が酒癖の悪い女なのだろうと悟ったが、すでに手遅れだった。




 ♢


 祝宴も終盤に差し掛かった頃、董陽のアルハラを耐え抜いた光世は、用を足す為に席を立った。


 綺麗な虫の鳴き声。

 涼しい風が吹く廊下を歩いていると、背後に気配を感じ立ち止まる。


「光世殿」


 その声に安心した光世は肩の力を抜いた。そして背中越しに問う。


蒯豹かいひょう殿。首尾は?」


「完了」


 光世はそれだけ聞くと右手を小さく挙げた。


 振り向くと、そこにはもう誰の姿もない。


 ただ虫の声が聞こえるだけだ。

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