第174話 太尉・孫晃解放

 呂郭書りょかくしょの陣営に動きがあった。

 孫晃そんこうが呂郭書に捕らえられてから一月後の事だ。

 兵達が陣払いを始めると、孫晃も牢から解放され、秦安しんあんへの帰還を許された。


「どういう風の吹き回しだ、呂郭書」


 手早く陣払いをする兵達を見て、孫晃は隣の呂郭書に問う。


孫太尉そんたいいを解放し、軍権を返還せよとの丞相のご命令故」


「解せぬな。其方はこれまで丞相の進軍命令を無視し続け、この天譴山てんけんざんの麓に留まり、俺の説得も聞き入れずにあろう事か身柄を拘束した。それを、今更丞相の命令だからと言って軍権を返すだと?」


 孫晃は眼前に聳える天譴山てんけんざんを手で指して呂郭書を睨む。

 すると呂郭書は首を横に振る。


「俺は当初から言っていただろう。季達きたつ殿。この軍では雨の天譴山は越えられない。故にここで雨が止み、地盤が固まるのを待っていた。丞相のご命令を無視したわけではない」


 落ち着いた口調で、呂郭書は孫晃をあざなで呼ぶ。


「またそれか。雨はとうに止み、すでに地盤も固まっていただろう。俺を殺そうとしてまで頑なに動かなかった其方が、何故今更!」


「そうだな。まさにこれからという時に口惜しいが、丞相からのご命令なのだ。季達殿の解放も丞相のご命令」


「其方、秦安へ帰還すればどうなるか分かっているのだろうな? 俺は解放されても、俺の従者を斬った事は罪であろう!」


「先に手を出してきたのはそちらだった。身を守る為には仕方なかった。それに、ここは戦場で軍権は俺にあった」


 ぐうの音も出ない孫晃は歯を食いしばり、話題をすり替える。


「いいか呂郭書! 俺はもともと其方の軍権を引き継ぐ為に来たのだ! 秦安に帰還するのは其方だ。俺がこの軍を引き継ぎ、朧軍ろうぐんを討伐しに行く!」


「落ち着け季達きたつ殿。丞相のご命令は孫太尉の解放。俺の軍権の返還。俺はそれに従うまで」


「ならば今ここで俺に軍権を渡せ!」


「軍権を返還する相手は朝廷だ。其方ではない。故に私は一度秦安に帰還し、陛下へ軍権をお返しする」


「おのれ……そのような屁理屈を!」


「それに、兵達を見よ。長期間の駐屯で完全に士気は下がり覇気のない者ばかり。そして生憎、すでに撤退命令を出したのだ。今から洪州こうしゅうまで軍を進めたとして、一度帰れると思った兵達がまともに戦える筈がない。兵を捨てるようなものだ」


 辺りを見回す孫晃。呂郭書の言う通り陣営には覇気のない兵達しかいない。士気の下がりきった兵達に孫晃は怒りを露わにする。


「ともかく、俺は丞相のご命令に従う。孫太尉は先にご帰還されよ。馬車に御者と衛兵を付けて送らせる」


 呂郭書は2人の兵士を呼ぶと、怪訝そうな顔をしている孫晃を馬車へと案内させた。


「呂郭書! 俺を丞相のもとに戻らさせた事を後悔する事になるぞ」


 孫晃の言葉に、呂郭書は少し微笑み、そして拱手した。


「お気を付けて」


 そして馬車に乗り込む孫晃を見送ると、呂郭書は兵達に秦安への撤退の準備を急ぐよう、孫晃に聞こえる程の大きな声で指示を出した。




 ***


 都・秦安


 宮殿の謁見の間に司徒しと董陽とうようが参内した。


「皇帝陛下に司徒・董陽が拝謁いたします」


 玉座に座るふてぶてしい態度の腹の出た皇帝・蔡胤さいいんに、董陽は頭を床につけて言った。


「頭を上げよ」


「ありがとうございます」


 許しが出ると、董陽は礼を述べてゆっくりと頭を上げ、その柔らかな笑顔を皇帝・蔡胤へと向ける。


 董陽の左右には、董宙とうちゅう董月とうげつ董星とうせいを含む百官達が正座で待機しており、蔡胤の横にはいつも通り宰相さいしょう董炎とうえんが鋭い目付きで豪奢な椅子に座っている。


「董陽、朕に言いたい事があるそうだな」


「申し上げます。朝廷の軍師として迎え入れた光世からの提案です」


「ああ、あの茶色い髪の娘か。そういえばあれからどうしておる? もしや、何か成果を上げたのか?」


「流石は陛下。ご明察でございます。丞相から承っていました呂郭書の軍を取り上げるという任務をもう間もなく果たせるとの報告がありました」


 その董陽の報告には、蔡胤はもちろん、周りの百官達も驚きどよめいた。

 だが、董炎だけは反応が異なった。


「待て董陽。それはまことか? 証拠はあるのか?

 もし偽りならば、其方も光世もタダでは済まぬぞ?」


「丞相、もちろんまことの報告でございます。明後日、呂郭書のもとで囚われの身となっていた孫太尉が、ここ秦安に帰還するそうです。証拠というものは今ここにございませんが、帰還される孫太尉に呂郭書の軍の状況を聞かれたらそれが証拠になるでしょう」


 董陽の堂々たる発言に、董炎は一度口を閉じた。

 董陽の目は真っ直ぐに董炎を見つめる。


「まあ良い。続けろ。お前は『光世からの提案』と言ったな?」


「はい呂郭書は丞相のご命令に従い、ついに謝罪の意思を見せた事に他なりません。孫太尉の釈放も秦安への帰還の意思の現れ。孫太尉が戻られた暁には、宴を開き士気を高めてはいかがでしょうか。光世が陛下に母国の手料理を振る舞いたいと申し出ております」


 すると、やはり董炎が反論する。


「宴だと? それは呂郭書がこの秦安に戻ってから──」


「いや、丞相! 朕は賛成だ! 光世の母国の手料理とやらを是非食してみたい!」


「ですが、陛下」


「丞相! 朕は普段其方の意見を全面的に採用してきた。今回に限っては光世の功績を称え、その提案を受けようではないか! 朕は決めた。宴を開こう! 百官達も招待するぞ! 士気を存分に高めようぞ!」


 嬉しそうな蔡胤の言葉に、百官達は大盛り上がり。董炎が口を挟めない程に場は盛り上がっている。そんな中、董一族に笑顔はない。

 一族の中で唯一、進言を聞き入れられた董陽だけがニコニコと微笑み手を叩いて喜んでいる。


「ただし!」


 盛り上がりの中、突然蔡胤が言った。


「もし明後日までに孫太尉が戻らなければ、朕への虚偽の上奏として光世を罰する事にする。良いな? 董陽」


「心得ました」


「朕に出す料理が口に合わない時も同様じゃ」


「そのように申し伝えます」


 董陽は眉をピクりと動かしたが、また微笑みを見せると拱手した。

 董炎の鋭い眼光は、しばらくの間董陽を捉えたままだった。



 ♢


 秦安・董陽邸


「光世ちゃん。言われた通り、陛下にお伝えしておいたわ。陛下は宴を楽しみにしていると」


 日も暮れ始めた頃、光世の部屋に、ニコニコした董陽が訪ねて来て嬉しそうに報告した。

 光世も嬉しい報告にいても立ってもいられず、椅子から立ち上がると仰々しく拱手した。


「ありがとうございます! 董陽様」


「いいのよ、光世ちゃん。貴女はえんの為に頑張っているもの。陛下と丞相への報告があったら、いつでもわたくしに相談してね」


「董陽様は何故私にそこまでしてくださるのですか?」


「光世ちゃんはせいちゃんよりも若いのに、異国の地で、異国の為に命懸けで頑張ってるから。応援したくなっちゃうのよね」


 納得のいく答えに、光世は黙ってペコりと頭を下げる。

 すると、董陽は光世の横まで来て立ち止まり、少し膝を折ると耳元で囁いた。


「貴女が何故この国の為に命を賭してまで動いているのか。その目的が解らない。だから興味があるの。身内以外に心を開かないせいちゃんが貴女を信頼しているというのも気になるし」


「……え」


「大丈夫よ。わたくしは貴女の味方だから。


「それって……」


 光世が言いかけると、董陽はクスりと笑い姿勢を正した。

 長い黒髪が光世の視界でふわりと揺れるのが見えた。


「わたくしと貴女の利害が一致する限りは何もしないわ。だけどその前に、孫太尉をちゃんと明後日までに陛下の御前に連れて行き、宴で陛下のお口に合うお食事を用意しないとね。さもなければ、皇帝を欺いた罪で厳罰を与えられるわよ」


「厳罰……こ、殺されますかね」


「そうね〜、斬首なら良い方だけど、陛下のお好みは“凌遅りょうち”。若い娘の肉を生きたまま少しずつ刃物で削ぎ落とし、長時間の苦痛を与える」


「は、ははは、あの温厚そうな陛下が?? そんな、怖がらせないでくださいよ……じょ、冗談ですよね?」


 光世の恐怖に引き攣った顔を見て、董陽はいつもの笑顔を見せた。


「大丈夫よ。失敗しなければいいのだから。その算段がついたから、司徒であるこのわたくしに陛下への上奏を頼んだんでしょ?」


 董陽はそう言いながら淑やかに長い黒髪と華やかな閻服の袖を揺らし部屋を出て行ってしまった。

 残された光世は一気に全身の力が抜けて椅子に腰を下ろした。


「光世様!」


 董陽が出て行ってすぐに、呂郭書の陣営から戻って来ていた清華せいかが部屋に駆け込んで来た。

 同時に部屋の外で待機していた大刀を持った仮面の男も駆け込んで来る。


「清華ちゃん、蒯豹かいひょう殿……大丈夫。何でもない」


「今の董陽様でしたよね? あの方、味方ではなかったのですか?」


 青ざめた顔の光世を見た清華が心配そうに訊ねる。

 陸秀りくしゅうに代わり光世の護衛に就いた蒯豹かいひょうも心配そうに肩に手を置く。


「敵か味方か……ちょっと分からなくなった」


 冷や汗をかく光世を見て、清華と蒯豹かいひょうは不安そうに顔を見合わせた。





 ***


 明後日みょうごにち秦安しんあん


太尉たいい孫晃そんこう。参内せよ!」


 宮殿の前で役人が呼び込むと、宮殿への長い階段の両脇に控えていた楽器隊が低い笛を吹き、太鼓を打ち鳴らし始めた。


 そして、凛々しい顔つきの太尉・孫晃が1人、階段を上って来た。

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