第174話 太尉・孫晃解放
兵達が陣払いを始めると、孫晃も牢から解放され、
「どういう風の吹き回しだ、呂郭書」
手早く陣払いをする兵達を見て、孫晃は隣の呂郭書に問う。
「
「解せぬな。其方はこれまで丞相の進軍命令を無視し続け、この
孫晃は眼前に聳える
すると呂郭書は首を横に振る。
「俺は当初から言っていただろう。
落ち着いた口調で、呂郭書は孫晃を
「またそれか。雨はとうに止み、すでに地盤も固まっていただろう。俺を殺そうとしてまで頑なに動かなかった其方が、何故今更!」
「そうだな。まさにこれからという時に口惜しいが、丞相からのご命令なのだ。季達殿の解放も丞相のご命令」
「其方、秦安へ帰還すればどうなるか分かっているのだろうな? 俺は解放されても、俺の従者を斬った事は罪であろう!」
「先に手を出してきたのはそちらだった。身を守る為には仕方なかった。それに、ここは戦場で軍権は俺にあった」
ぐうの音も出ない孫晃は歯を食いしばり、話題をすり替える。
「いいか呂郭書! 俺はもともと其方の軍権を引き継ぐ為に来たのだ! 秦安に帰還するのは其方だ。俺がこの軍を引き継ぎ、
「落ち着け
「ならば今ここで俺に軍権を渡せ!」
「軍権を返還する相手は朝廷だ。其方ではない。故に私は一度秦安に帰還し、陛下へ軍権をお返しする」
「おのれ……そのような屁理屈を!」
「それに、兵達を見よ。長期間の駐屯で完全に士気は下がり覇気のない者ばかり。そして生憎、すでに撤退命令を出したのだ。今から
辺りを見回す孫晃。呂郭書の言う通り陣営には覇気のない兵達しかいない。士気の下がりきった兵達に孫晃は怒りを露わにする。
「ともかく、俺は丞相のご命令に従う。孫太尉は先にご帰還されよ。馬車に御者と衛兵を付けて送らせる」
呂郭書は2人の兵士を呼ぶと、怪訝そうな顔をしている孫晃を馬車へと案内させた。
「呂郭書! 俺を丞相のもとに戻らさせた事を後悔する事になるぞ」
孫晃の言葉に、呂郭書は少し微笑み、そして拱手した。
「お気を付けて」
そして馬車に乗り込む孫晃を見送ると、呂郭書は兵達に秦安への撤退の準備を急ぐよう、孫晃に聞こえる程の大きな声で指示を出した。
***
都・秦安
宮殿の謁見の間に
「皇帝陛下に司徒・董陽が拝謁いたします」
玉座に座るふてぶてしい態度の腹の出た皇帝・
「頭を上げよ」
「ありがとうございます」
許しが出ると、董陽は礼を述べてゆっくりと頭を上げ、その柔らかな笑顔を皇帝・蔡胤へと向ける。
董陽の左右には、
「董陽、朕に言いたい事があるそうだな」
「申し上げます。朝廷の軍師として迎え入れた光世からの提案です」
「ああ、あの茶色い髪の娘か。そういえばあれからどうしておる? もしや、何か成果を上げたのか?」
「流石は陛下。ご明察でございます。丞相から承っていました呂郭書の軍を取り上げるという任務をもう間もなく果たせるとの報告がありました」
その董陽の報告には、蔡胤はもちろん、周りの百官達も驚きどよめいた。
だが、董炎だけは反応が異なった。
「待て董陽。それは
もし偽りならば、其方も光世もタダでは済まぬぞ?」
「丞相、もちろん
董陽の堂々たる発言に、董炎は一度口を閉じた。
董陽の目は真っ直ぐに董炎を見つめる。
「まあ良い。続けろ。お前は『光世からの提案』と言ったな?」
「はい呂郭書は丞相のご命令に従い、ついに謝罪の意思を見せた事に他なりません。孫太尉の釈放も秦安への帰還の意思の現れ。孫太尉が戻られた暁には、宴を開き士気を高めてはいかがでしょうか。光世が陛下に母国の手料理を振る舞いたいと申し出ております」
すると、やはり董炎が反論する。
「宴だと? それは呂郭書がこの秦安に戻ってから──」
「いや、丞相! 朕は賛成だ! 光世の母国の手料理とやらを是非食してみたい!」
「ですが、陛下」
「丞相! 朕は普段其方の意見を全面的に採用してきた。今回に限っては光世の功績を称え、その提案を受けようではないか! 朕は決めた。宴を開こう! 百官達も招待するぞ! 士気を存分に高めようぞ!」
嬉しそうな蔡胤の言葉に、百官達は大盛り上がり。董炎が口を挟めない程に場は盛り上がっている。そんな中、董一族に笑顔はない。
一族の中で唯一、進言を聞き入れられた董陽だけがニコニコと微笑み手を叩いて喜んでいる。
「ただし!」
盛り上がりの中、突然蔡胤が言った。
「もし明後日までに孫太尉が戻らなければ、朕への虚偽の上奏として光世を罰する事にする。良いな? 董陽」
「心得ました」
「朕に出す料理が口に合わない時も同様じゃ」
「そのように申し伝えます」
董陽は眉をピクりと動かしたが、また微笑みを見せると拱手した。
董炎の鋭い眼光は、しばらくの間董陽を捉えたままだった。
♢
秦安・董陽邸
「光世ちゃん。言われた通り、陛下にお伝えしておいたわ。陛下は宴を楽しみにしていると」
日も暮れ始めた頃、光世の部屋に、ニコニコした董陽が訪ねて来て嬉しそうに報告した。
光世も嬉しい報告にいても立ってもいられず、椅子から立ち上がると仰々しく拱手した。
「ありがとうございます! 董陽様」
「いいのよ、光世ちゃん。貴女は
「董陽様は何故私にそこまでしてくださるのですか?」
「光世ちゃんは
納得のいく答えに、光世は黙ってペコりと頭を下げる。
すると、董陽は光世の横まで来て立ち止まり、少し膝を折ると耳元で囁いた。
「貴女が何故この国の為に命を賭してまで動いているのか。その目的が解らない。だから興味があるの。身内以外に心を開かない
「……え」
「大丈夫よ。わたくしは貴女の味方だから。今のところは」
「それって……」
光世が言いかけると、董陽はクスりと笑い姿勢を正した。
長い黒髪が光世の視界でふわりと揺れるのが見えた。
「わたくしと貴女の利害が一致する限りは何もしないわ。だけどその前に、孫太尉をちゃんと明後日までに陛下の御前に連れて行き、宴で陛下のお口に合うお食事を用意しないとね。さもなければ、皇帝を欺いた罪で厳罰を与えられるわよ」
「厳罰……こ、殺されますかね」
「そうね〜、斬首なら良い方だけど、陛下のお好みは“
「は、ははは、あの温厚そうな陛下が?? そんな、怖がらせないでくださいよ……じょ、冗談ですよね?」
光世の恐怖に引き攣った顔を見て、董陽はいつもの笑顔を見せた。
「大丈夫よ。失敗しなければいいのだから。その算段がついたから、司徒であるこのわたくしに陛下への上奏を頼んだんでしょ?」
董陽はそう言いながら淑やかに長い黒髪と華やかな閻服の袖を揺らし部屋を出て行ってしまった。
残された光世は一気に全身の力が抜けて椅子に腰を下ろした。
「光世様!」
董陽が出て行ってすぐに、呂郭書の陣営から戻って来ていた
同時に部屋の外で待機していた大刀を持った仮面の男も駆け込んで来る。
「清華ちゃん、
「今の董陽様でしたよね? あの方、味方ではなかったのですか?」
青ざめた顔の光世を見た清華が心配そうに訊ねる。
「敵か味方か……ちょっと分からなくなった」
冷や汗をかく光世を見て、清華と
***
「
宮殿の前で役人が呼び込むと、宮殿への長い階段の両脇に控えていた楽器隊が低い笛を吹き、太鼓を打ち鳴らし始めた。
そして、凛々しい顔つきの太尉・孫晃が1人、階段を上って来た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます