第173話 犬馬之労
「光世はおるか!」
騒々しい声が聞こえて来たと思うと同時に部屋の戸が乱暴に開かれ、物々しい雰囲気の
下女兼間諜の
「申し訳ございません、光世様。止めたのですが」
2人の無礼な将軍の後から、仮面を着けた
陳諸、橋越と陸秀の武人としての力の差は、素人である光世から見ても明らかだ。その為、2人の男に詰められても光世は一向に動じない。
「何か御用でしょうか?」
光世が涼しい顔で答えると、陳諸は舌打ちをした。
「俺は大切な事を聞き忘れていた。孫太尉は解放されているのか?」
「ええ、勿論。今更そのような確認をするという事は、丞相に怒られて慌てて聞きに来られたのでしょう。秦安の将軍という立場の方はさぞ大変ですね」
「貴様、俺は将軍だぞ!? 軍師か何だか知らんが、あまり舐めた口を利くと酷い目に遭わせるぞ!!」
ナマズ髭の陳諸の怒号に光世は身体をビクッと震わせたが、すぐに冷静に切り返す。
「貴方にそのような権限がおありなのですか?
陳将軍。私情で私に手を出せば、貴方の首も飛ぶのでは?」
「糞ガキめ……」
「孫太尉は秦安へ戻られます。ご心配には及びません」
「分かった。俺は丞相にその通り報告する。もし今の話が偽りならば、俺も貴様も死ぬ事になるぞ。良いな?」
「構いません。私は偽りなど申しておりませんから」
光世の冷静な返しに対し、陳諸は歯軋りをすると踵を返し、部屋を出て行った。ムスッとしたまま一言も喋らなかった橋越もそれに続いて行った。
すると、傍にいた陸秀がクスリと笑った。
「お前と初めて出会った時とはまるで別人だな。だいぶ肝が据わってきたな、光世」
「いやいや、無理してそう振舞ってるだけですよ。舐められたらここでの仕事が難しくなりますからね。本当はめちゃくちゃ怖かったですよ。心臓に悪い」
自らの胸を右手で押さえながら光世は苦笑いを浮かべる。
「もしもの時は俺が奴らを斬り捨てるから心配するな」
陸秀は持っていた大刀の石突きを床に叩き付けて音を出した。
「ありがとうございます。でも、そんな事態になった時には、万事休すですから。そうならないように頑張ります」
「そうだな」
「それより、塩の運び出しは順調のようです。現時点で100
「早いな。よく董炎に気付かれずに事が運んでいる」
「
「なるほどな」
陸秀は納得して頷く。
「さて、陸秀殿。塩が目標の200
「心得ている。
光世は懐から書状を取り出し、開いて陸秀に見せた。
「既に清華ちゃんから貰ってます」
陸秀は開かれた書状を手に取ると、まじまじと見つめる。
「おお、これが閻軍大都督・呂郭書の書状か。確かに、大都督の印が押してある」
「この書状に、さらに董炎の印も押せば本物の免罪符として洪州軍は信じてこちらに帰順するでしょう」
「だが、そんな事が出来るのか? 董炎に印を押してもらう事など不可能だろ」
陸秀の心配はもっともである。
頭が切れ、警戒心の強い董炎を欺き、免罪符に印を押してもらうように仕向ける事など到底出来るとは思えない。そもそも、董炎は洪州軍を許す気はさらさらないのだ。
だが、光世はその点についても抜かりはない。
「董炎の印は董炎自身が所持しているわけではないようです。今は
「ほう。それも清華からの情報か?」
「はい。清華ちゃんは董星様に聞いたようですが」
「とは言え、董月も董炎一派だろう。奴に印を押させるのは難しい。策はあるのか?」
光世は軽く頷く。
「日中はどこのお役所も稼働していますが、夜は見張りの兵士だけになります」
察しのいい陸秀は人差し指を立てて光世を見た。
「忍び込んで印を押すのか。ならば俺の部下に──」
「陸秀殿にお願いしたいです」
「俺がその任に就けば、お前の守りが薄くなるぞ、光世」
光世は小さく息を吐くと、陸秀の仮面の奥の瞳を見つめた。
「私の命よりも、策を確実に成功させる事の方が重要です。閻の民に幸せをもたらし、そして朧軍との戦を終わらせる為には、これが最善なんです。私はその覚悟で秦安へ来ました。宵も
「俺の使命は、お前を守る事だ」
「私が自分で実行出来ればいいのですが、そんな能力はない……。清華ちゃんには呂大都督との連絡役になってもらわないといけないし、信頼出来る人が、貴方しかいないんです。陸秀殿」
真剣な光世の依頼に、陸秀はしばらく考えてから頷いた。
「分かった。尚書台に潜入し、董炎の印を書状に押す任は俺が引き受けよう。お前の護衛には俺の部下の
「ありがとうございます!」
「そうと決まれば、俺は今夜から尚書台の衛兵の配置と侵入経路、董炎の印の場所の調査を始める」
「分かりました。押印作戦は5日後の夜の決行でどうでしょう?」
「問題ない」
「では5日後。私は董炎の一族の注意を引き付けておきます」
「何? どうやって?」
「それはですね」
光世はパサっと黒と赤の扇子を開くと、不敵な笑みを浮かべ、陸秀の耳元で囁いた。
***
「首尾はどうだ?」
椅子に座った呂郭書の左右には兵士が2人、剣を
清華は1人でやって来て、携えて来た竹簡を近くにいた兵士に差し出した。
すぐに兵士は呂郭書へと竹簡を渡す。
「大都督。ここからは2人でお話を」
「いいだろう」
清華の願いを聞き入れた呂郭書は、部屋にいた兵士を全員部屋の外へと追い払った。
呂郭書と2人切りになったのを確認すると、清華は懐から絹の切れ端を取り出した。
「先にお渡ししましたのは光世様よりお預かりしました書簡です。が、読んでいただくのは書簡ではなく、この布切れの方です」
呂郭書は自ら清華のもとへ行き、差し出された絹の切れ端を受け取ると再び椅子に座った。
「どういう事だ? 光世殿からの書簡であれば、1つにまとめれば良いものを、わざわざ2つに分かつなどとは」
「竹簡の方は燃やしてください。そちらは、ここへ来る為に光世様が認めた囮の書簡」
「ほう。つまり、光世殿は
「流石は大都督、ご明察にございます」
皆まで言わずとも理解する呂郭書に、清華は感服して頭を下げた。
「然らば光世殿は
「如何にも。董炎の命を受けた、
「陳諸と橋越か」
「顔見知りで?」
「いや、知っているのは名前だけだ。出世の為に董炎のご機嫌取りだけに注力している朝廷の俗物共の一派だ。実力はないはずだ。……しかし、後半に書かれている光世殿の策はちと危うい」
「と、言いますと?」
呂郭書ら絹に書かれた光世の文を読み上げる。
「ここに『秦安への撤退準備を始めるべし。撤退に先駆けて太尉
「ああ……、それは大丈夫ですよ。むしろ光世様の評価が上がるかと」
ニコニコしながら、清華は呂郭書に拱手した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます