第172話 塩の動き

 靂州れきしゅう秦安しんあんの北の関所


 大きな荷車を2頭の牛が曳いて行く。

 荷台には大量の麻袋が山のように積まれ、こぼれ落ちないように麻縄でキツく縛り付けれている。

 その荷車の後ろにはまだ50台ほどが続く。


「おい、一体この大量の塩はどこに運ばれるんだ?」


 普段とは違う物の流れに、不審そうな関所の役人が荷車の行列を見守っている兵士に訊いた。


「北です。范州はんしゅう呼巣こそうに集積しています」


 すると兵士は平然と応える。


「今まで呼巣こそうには一月ひとつき牛車ぎっしゃ百台分の塩を送っていただけだが、今月はすでに3日で3百台は通している。呼巣の倉庫にそんな大量の塩が収まるものか」


「そんな事を俺に言われても、塩を司っておられる大司農だいしのう董星とうせい様のご命令なのです」


 兵士は疑う役人に絹に書かれた董星の達筆な命令文と大司農の印を見て唇を噛み締める。


「その命令書は何度も見た。確かに本物だ。だが、解せぬのだ。これ程短期間に秦安から塩を運び出せば、秦安の塩の蓄えがなくなってしまうではないか」


「ははは! お役人様ともあろうお方が、そんな事を心配なさるのですか。塩の量の管理は董星様がきっちりとされているのです。あの聡明な董星様が秦安の塩を意味なく枯渇させるような事をすると思いますか?」


「しかし……」


「お役人様。この命令書は最後までお読みになりましたか? 『塩の運搬を阻む者は、如何なる理由があれど罰する』とあります。これ以上口を挟むなら、私は貴方を捕らえねばなりません」


 兵士の堂々とした態度に、役人は諦め、犬でも追い払うかのように右手を振った。


 牛車ぎっしゃは次々に関所を抜けて行った。



 ♢


 丞相府じょうしょうふ董炎とうえんの居室に呼ばれた陳緒ちんしょ橋越きょうえつは入室するなり跪き拱手した。


奮威ふんい将軍陳緒ちんしょ振武しんぶ将軍橋越きょうえつが、丞相閣下に拝謁いたします」


「報告せよ。あの小娘、光世みつよに変わった動きはないか」


 背もたれのある椅子に深く腰掛け、董炎は低い声で言った。2人の将軍を見る目には光はなく、重たく暗い闇に支配されているようだ。


「変わった動きはありません。それどころか、真面目に呂郭書りょかくしょを説得しているようです」


「呂郭書が軍を率いて秦安しんあんに帰還するのも時間の問題かと」


「そうか」


 2人の報告を聞いても董炎は顔色一つ変えず険しい表情のまま2人を睨み付ける。


「あ、あの、丞相。呂郭書がここへ戻って来たならば、私と橋越きょうえつに軍を任せて頂けるというお話は──」


孫晃そんこうはどうなっている」


 冷や汗を浮かべながら話す陳緒ちんしょの言葉を遮り、董炎は話題を変えた。


「あ、そ、孫太尉そんたいいについては、光世から何も聞いておりません」


 すると、突然董炎は目の前の机を蹴り飛ばした。跪いていた陳緒ちんしょ橋越きょうえつに蹴り飛ばした机がぶつかり2人は腰を抜かし唖然として董炎を見上げた。


「この間抜け共め!! 孫晃そんこうの処遇がどうなるのか、そこを確認せぬ馬鹿がどこにおる! 孫晃は三公の1人、太尉たいいなのだぞ!? その太尉が反逆者呂郭書りょかくしょの元で捕まったままなのか、既に釈放されているのか、その後何の報告もない!!」


「あ、は、はい、申し訳ございません、丞相……!」


「どうか、どうかお許しを……!」


「儂に言われた事しか出来ない、気の利かぬ凡将に、あの大軍を任せられるか!」


 烈火の如く怒る董炎の怒号に、2人の将軍は何度も頭を床に叩き付けて許しを乞う。


「さっさと行け! 光世に孫晃そんこうの状況を大至急報告させろ!」


「御意!!」


 陳緒ちんしょ橋越きょうえつは膝を震わせながら立ち上がると、急いで部屋から飛び出して行った。


 すると、部屋の外からケラケラと笑う女の声が聞こえて来た。気配は複数ある。


「あらあら、父上、元からあの2人に呂郭書の軍を任せるつもりなんてないのに、性格が悪いですよ」


 董炎の次女、董月とうげつは口を手で覆いながら楽しそうに部屋に入って来た。

 それに続き、長男の董宙とうちゅう、長女の董陽とうよう、三女の董星とうせいも一礼して入室する。


「おお、優秀なる我が子らよ」


 鬼の形相だった董炎は、4人を見るといつもの無表情に戻った。笑顔はない。


「父上の叱責は凄まじい迫力。まるで霹靂へきれきのよう。俺も見習いたいものだ」


 董宙とうちゅうが言うと董陽とうようがクスリと笑う。


「どこを見習うのですか、兄上。そんなところを見習っても、部下が萎縮して使いものにならなくなりますわよ」


 董陽の嘲笑に董宙は小さく息を吐く。


「陽よ、言っても分からぬ者には、お前のように優しくしていても駄目なのだ。時には父上のように怒鳴りつけねば──」


「無駄話は終わりにしろ。定例の評定を始める。儂はここの所、市中の様子を見れておらん。朧軍ろうぐんの侵攻の対応に反乱分子の呂郭書の監視、それにあの豚のように肥えた天子のご機嫌取りで手が回らん。まつりごとの殆どを其方らに任せ切りで済まないと思っている」


「あらやだ、とんでもないですわ。父上。私たちだけでもまつりごとは十分に回ります」


 自信満々に応える董月。

 それに同意する他の面々。


「流石は我が子らだ。して、市中で変わった事はないか? どんな些細な事でも良い」


「父上、俺は孫太尉の職務である軍の管理統制を受け持つようになってから全く身動きが取れません。俺から報告すべき事は、城壁と南門の修繕工事と徴兵状況以外、特に何も」


「ああ、良い。ちゅうには無理言って太尉の職務も任せておるからな。董月はどうだ」


「わたくしも、公文書の対応で日々忙殺されており、自らの職務以外は関知しておりませんわ。と言うか、そういうのは、いつも部下に仕事を押し付けて自分は悠々としている司徒しと様が報告するべきなのではありませんか? ねえ、姉上」


 嫌味ったらしく言った董月は、横目で涼しい顔をしている董陽を見た。

 その視線に呼応するかのように、皆の視線が司徒・董陽へと集まる。

 ただ、大司農だいしのう董星とうせいの視線だけは終始俯いたままだ。


げっちゃん、ご挨拶ね。私はしっかりと部下にお仕事を振り、皆で平等にお仕事をしているの。ただそれだけよ。上に立つ者は、部下を適材適所に使ってこそじゃない? 自分が目が回る程働く事なんてないのよ。あ、これはげっちゃんに言っているのであって、父上と兄上には言っていませんからね。お2人は忙しさの次元が違いますもの」


「……本当に、腹が立つ女だこと」


 鋭い目付きで董月は倍以上の皮肉を返して来た姉の董陽を睨む。


「やめろ、2人とも。それで、陽よ。市中にて何か変わった事はないか。些細な事でも、この状況下では細かく調べた方が良いからな」


 董炎の問に、場は静まり返る。


 そして、沈黙を破り董陽は笑顔で口を開く。


「所見は何一つ、ございません」


 その答えに、俯いていた董星が小さく頷いた。

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