第172話 塩の動き
大きな荷車を2頭の牛が曳いて行く。
荷台には大量の麻袋が山のように積まれ、こぼれ落ちないように麻縄でキツく縛り付けれている。
その荷車の後ろにはまだ50台ほどが続く。
「おい、一体この大量の塩はどこに運ばれるんだ?」
普段とは違う物の流れに、不審そうな関所の役人が荷車の行列を見守っている兵士に訊いた。
「北です。
すると兵士は平然と応える。
「今まで
「そんな事を俺に言われても、塩を司っておられる
兵士は疑う役人に絹に書かれた董星の達筆な命令文と大司農の印を見て唇を噛み締める。
「その命令書は何度も見た。確かに本物だ。だが、解せぬのだ。これ程短期間に秦安から塩を運び出せば、秦安の塩の蓄えがなくなってしまうではないか」
「ははは! お役人様ともあろうお方が、そんな事を心配なさるのですか。塩の量の管理は董星様がきっちりとされているのです。あの聡明な董星様が秦安の塩を意味なく枯渇させるような事をすると思いますか?」
「しかし……」
「お役人様。この命令書は最後までお読みになりましたか? 『塩の運搬を阻む者は、如何なる理由があれど罰する』とあります。これ以上口を挟むなら、私は貴方を捕らえねばなりません」
兵士の堂々とした態度に、役人は諦め、犬でも追い払うかのように右手を振った。
♢
「
「報告せよ。あの小娘、
背もたれのある椅子に深く腰掛け、董炎は低い声で言った。2人の将軍を見る目には光はなく、重たく暗い闇に支配されているようだ。
「変わった動きはありません。それどころか、真面目に
「呂郭書が軍を率いて
「そうか」
2人の報告を聞いても董炎は顔色一つ変えず険しい表情のまま2人を睨み付ける。
「あ、あの、丞相。呂郭書がここへ戻って来たならば、私と
「
冷や汗を浮かべながら話す
「あ、そ、
すると、突然董炎は目の前の机を蹴り飛ばした。跪いていた
「この間抜け共め!!
「あ、は、はい、申し訳ございません、丞相……!」
「どうか、どうかお許しを……!」
「儂に言われた事しか出来ない、気の利かぬ凡将に、あの大軍を任せられるか!」
烈火の如く怒る董炎の怒号に、2人の将軍は何度も頭を床に叩き付けて許しを乞う。
「さっさと行け! 光世に
「御意!!」
すると、部屋の外からケラケラと笑う女の声が聞こえて来た。気配は複数ある。
「あらあら、父上、元からあの2人に呂郭書の軍を任せるつもりなんてないのに、性格が悪いですよ」
董炎の次女、
それに続き、長男の
「おお、優秀なる我が子らよ」
鬼の形相だった董炎は、4人を見るといつもの無表情に戻った。笑顔はない。
「父上の叱責は凄まじい迫力。まるで
「どこを見習うのですか、兄上。そんなところを見習っても、部下が萎縮して使いものにならなくなりますわよ」
董陽の嘲笑に董宙は小さく息を吐く。
「陽よ、言っても分からぬ者には、お前のように優しくしていても駄目なのだ。時には父上のように怒鳴りつけねば──」
「無駄話は終わりにしろ。定例の評定を始める。儂はここの所、市中の様子を見れておらん。
「あらやだ、とんでもないですわ。父上。私たちだけでも
自信満々に応える董月。
それに同意する他の面々。
「流石は我が子らだ。して、市中で変わった事はないか? どんな些細な事でも良い」
「父上、俺は孫太尉の職務である軍の管理統制を受け持つようになってから全く身動きが取れません。俺から報告すべき事は、城壁と南門の修繕工事と徴兵状況以外、特に何も」
「ああ、良い。
「わたくしも、公文書の対応で日々忙殺されており、自らの職務以外は関知しておりませんわ。と言うか、そういうのは、いつも部下に仕事を押し付けて自分は悠々としている
嫌味ったらしく言った董月は、横目で涼しい顔をしている董陽を見た。
その視線に呼応するかのように、皆の視線が司徒・董陽へと集まる。
ただ、
「
「……本当に、腹が立つ女だこと」
鋭い目付きで董月は倍以上の皮肉を返して来た姉の董陽を睨む。
「やめろ、2人とも。それで、陽よ。市中にて何か変わった事はないか。些細な事でも、この状況下では細かく調べた方が良いからな」
董炎の問に、場は静まり返る。
そして、沈黙を破り董陽は笑顔で口を開く。
「所見は何一つ、ございません」
その答えに、俯いていた董星が小さく頷いた。
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