第167話 董炎、光世を試す

 涙を拭いた光世は1人でとぼとぼと馬車のところへ戻って来た。


「光世様? どうなさいました?」


 馬車の籠に腰掛けて退屈そうにしていた清華が心配そうに声を掛ける。


「……董炎は、私が想像していたより何倍もキレ者かもしれない」


「ああ……まあ、皇帝を操り民を惑わす人ですからね……」


「私、怖くなっちゃった……」


 俯いて自分の両肩を掴む。

 すると、清華から溜息が聞こえた。


「もう、宵様みたいにウジウジしないでくださいよぉ〜」


「だって……」


「あたし達は戦場には立ってませんが、戦をしてる事に変わりありません。戦に出れば死ぬのが怖いなんて言ってられませんよ。死なずにやるべき事をやらなきゃならないんですから」


「清華ちゃんは強い子だよね。私とは違う」


「別に違いません。ただ、あたしは歩瞱ほよう殿の死を無駄にしたくない」


「歩瞱殿?」


景庸関けいようかんで戦死したあたしの仲間です。あたしを逃がす為に代わりに朧軍に殺されました」


 そう言った清華の瞳は真っ直ぐで力強かった。とても仲間の死に怒りを燃やしたり悲しんだりしている瞳には見えない。


「景庸関……あの時か」


「光世様も、何となくここに来たわけじゃないですよね? ここが危険だって事は頭の良い光世様には分かっていたはずです。じゃあ、何故ここに来たのでしょうか」


 年下の清華に言われて、光世はハッとして懐から赤と黒の綺麗な扇子を取り出した。

 その扇子を開くと愛しい彼の顔が目の前に浮かんだ。


史登しとう君……」


 光世を守り、朧軍の暗殺者、斬血ざんけつに殺された仲間。いや、もっと親しい者。もしかしたら、恋人だったかもしれない男。

 光世にも、清華と同じように継ぐべき志があった。


 優しく指先で扇子を撫でると、パタンと閉じて額に扇子の先を当てて目を瞑った。


 そして、光世はすぐに目を開いた。


「よし! 清華ちゃん! 仕事をお願いしたい!」


 突然瞳の輝きを取り戻した光世を見てニッコリと笑った。


「はい〜! 何なりと!」



 ***


 皇帝の御前に残された司徒しと董陽とうようは堂々たる佇まいで、丞相じょうしょうである父・董炎の詰問を待っていた。

 部屋には百官達が神妙な面持ちで待機している。


「司徒。お前は何故光世に肩を貸している?」


「はて、何のことやら」


「惚けるな。光世が儂の問に言葉を詰まらせていた時、小声で助け舟を出していただろう。呂郭書りょかくしょの事を言わせるよう仕向けた。儂が気付かぬとでも思ったか?」


「ああ、あれは緊張のあまり喋れなくなっていた光世を助けただけでございます。決して肩を持ったわけではありませんよ。陛下の御前というだけでも緊張するというのに、丞相のその威圧的なお顔、お言葉。光世は初めて参内した女の子なのに可哀想ですわ」


「小賢しい事を」


「お気に障られたのなら謝罪いたします」


 董陽は恭しく拱手して頭を下げた。


「思うに、お前は光世を気に入っているようだな。あの女を信用しているのか?」


「信用……? 丞相は信用なさっていないご様子ですね」


「無論だ。閻に降ってたかだか数ヶ月の小娘だ。儂の前で冷や汗をかく程度の玉よ。大事などなせぬ」


「それにしては呂郭書を止めておけだの、軍を取り上げろだのと難題を押し付けられました」


「ああ、そうだ。信用はしていないが、1つ試してやろうと思ってな」


「……と、言いますと?」


「光世は『洪州軍を許すべし』と言ったな。あれは確かに良い策だ。が、儂の本心では奴ら裏切り者を許したくはない」


「わたくしも、光世の策には賛成しましたが、丞相がお許しになるはずはないと思っておりました」


「流石は我が娘。儂の事を良く理解している」


 董陽は董炎に褒められると軽く頭を下げる。


「良いか、儂が光世の策を退けたのは、光世が本当に策士なのかどうか見抜く為だ。洪州軍を許し再び帰順させよう、などという考えは、宵か楊良ようりょうの入れ知恵であろう。光世自身の功績は今の所この耳に入って来てはいないのだ。頭のキレる者ならば、儂が意見を聞き入れなかった時に上手く説得してきたはず。それが出来ないのなら大した事はない。凡庸な小娘だ。だが、それだけで切り捨てるのは早計だ。故に、呂郭書の対応でどう動くか見ようと思ったのだ。呂郭書から軍を取り上げる事が出来ればそれは紛れもなく有能だからな」


「なるほど。流石は丞相。敬服いたしました」


 董陽は微笑みを浮かべ、また恭しく拱手して頭を下げた。


「丞相! 見事な策だ! はは! 朕は恐れ入ったぞ!」


 ずっと黙っていた皇帝・蔡胤さいいんは、 嬉しそうにケラケラと笑いながら董炎を称賛した。

 百官達も見事見事と董炎を褒める。


 しかし、董炎の顔に笑顔はなく、右手をスっと挙げ百官達を黙らせた。


「しかし、丞相。洪州軍の力が借りられないとすると、我々にとってはあまり好ましい状況ではななくなるかと。いくら楊良や宵がいるとは言え、兵法とやらも万能ではないかと」


「司徒よ。無論、分かっている」


 董炎は軽く頷きながら、顎髭を丁寧に撫でた。

 その瞳は深い闇の中のように暗く、娘である董陽でさえ、寒気を感じる程だった。



 ***


 光世が蔡胤と董炎に謁見してからあっという間に5日が経った。


 光世は呂郭書から軍を取り上げる策などはもちろん考えず、朝な夕な洪州軍の免罪符を手に入れる策を考えていた。


 董陽には呂郭書の軍を取り上げる策を巡らせる為に清華を呂郭書への遣いとして貸して欲しいと頼むと、案外簡単にそれを許してくれたので、呂郭書と連絡を取るのには苦労しなかった。


「光世様。戻りました」


 遣いにやっていた清華が呂郭書のもとから戻って来ると、竹簡を1巻光世に差し出した。

 光世はそれを受け取るとすぐに開き中身を検めた。

 そこに書いてあった内容を見て光世は溜息をつく。


『洪州軍の免罪の策については賛同する。しかし、大都督の名だけでは弱い。洪州軍が恐れているのは董炎だ。董炎、或いは皇帝の許しのない書面では洪州軍は帰順しないだろう。朝廷から正式に発行された書面でなくては効果はない』


 呂郭書に洪州軍の免罪符を書いてもらうよう密書を送ったがそれは愚策だと指摘を受けたのだ。

 確かに呂郭書の言う事は正論だ。大都督は一時的な軍の最高責任者だが、戦が終わればその庇護もなくなり丞相である董炎が法に変わる。


「清華ちゃん、朝廷の正式な書類……何とか作れないかな」


「いやぁ〜それは流石に無理ですよ」


 あからさまに渋い顔をする清華。基本的に何でもやってのける清華がこのような反応をするという事は、極めて難しい注文だったのだろう。


「正式な書類を作るお役所は尚書台しょうしょだい。そこの長官がどなたかご存知ですか? 光世様」


「えっと……尚書台の長官は……尚書令しょうしょれいだよね。確か閻の尚書令って……」


董月とうげつ。董炎の次女です」


「その人は確か……こっちの味方では……」


「全然ありません! 完全に董炎側の人間です!

 もし私達の思惑が露見すれば間違いなく董炎に告げ口されて罰されますよ」


「それは……参ったな……」


「あ、そうだ、光世様。先程屋敷に戻る前に威峰山いほうざんから来たと言う兵から密書を預かっておりました」


 急に声を潜めた清華が懐から絹の布の切れ端を差し出した。


「威峰山から? 私に?」


 威峰山から来たという事は、姜美きょうめいか楊良という軍師からのものだろう。威峰山から直通となればきっと宵は知らない内容の可能性が高い。姜美が宵の指示を仰がずに密書など送るとは思えない。恐らく楊良からの密書だろう。


 光世は清華から受け取った絹の布に書かれた密書を受け取りまた中を検めた。


「……これは……」


 驚愕の内容に、光世は目を見開いた。


「何と書いてあるのです?」


「塩……塩だ!」


 目を爛々と輝かせ、今までの鬱々とした雰囲気が消し飛んだ光世を、清華は怪訝そうに見つめた。

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