第168話 大司農・董星に頼む

 閻帝国えんていこく葛州かっしゅう椻夏えんか


 軍師・宵の部屋に、鍾桂しょうけいが入って来た。

 部屋には他に桜史おうしが席に着いて、竹簡の資料を見ながら茶を啜っているだけだ。

 それをチラッと見た鍾桂はゴホンと小さく咳払いをして席に座る宵に拱手した。


「軍師殿、金登目きんとうもく全耀ぜんようの陣営は上手く連携が取れていない様子。金登目は全耀を警戒をしているようです」


「ようやく、そこまできましたか。初めはこちらの間諜が金登目に首を斬られたと聞いて胃が痛かったけど……どうにか確執は深まってきましたね」


 宵は左手でお腹の辺りを擦りながら言う。


「待った甲斐があったね。宵殿。金登目は斬血ざんけつの主力部隊がやられて多少なりとも心に余裕がなかった。全耀に裏切られればかなりの痛手を負うからね」


 話を聞いていた桜史が飲んでいた湯呑みを置いて静かに言った。

 宵はコクリと頷く。


「鍾桂君、ありがとう。各城門の守備はどう?」


「滞りなく。敵も攻めて来る様子がないので城門の脆くなっていた箇所の補強をさせていましたが、それも完了しました」


 鍾桂は桜史がそばにいるので、宵にはしっかりと敬語で話している。

 宵はそんな鍾桂の成長を見て微笑ましく見ていた。


「上出来だね。ま、金登目も全耀もこの調子じゃ益々椻夏に攻撃はして来ないだろうけど」


 宵は、金登目と全耀はいずれ椻夏の各城門に攻撃を仕掛けてくると思っていた。洪州軍の後ろ盾がある限り攻城戦は熾烈を極めるだろうと予想していたが、離間の計が上手くいったようなので、彼らは迂闊に攻撃には転じられなくなったはずだ。そうなってくると、朧軍が取るべき手段は椻夏を包囲し続け、こちらの兵糧切れを待つしかない。


 その間に、洪州の軍を光世が再度閻に寝返らせてくれれば、こちらの勝利がほぼ確定する。

 閻軍の寝返りで孤立した周殷しゅういん率いる朧軍本隊は洪州に取り残され、四方から寝返った閻の洪州軍に袋叩きに遭う。


 ただ、朧軍を追い払えても、それで終わりではない。

 丞相の董炎とうえんを政権から引きづり下ろさなければ、この国の民の本当の幸せは手に入らないし、朧軍も再び閻を攻めて来るかもしれないのだ。


「鍾桂君、少し休んだら?」


「休む?」


「うん、ここのところずっと動きっぱなしでしょ? 休める時に休まないと、いざという時に戦えなくなっちゃうよ」


「いやいや。宵が休まないのに、俺が休めるわけ」


 そこまで言って、鍾桂は手で口を押さえた。

 桜史がクスリと笑った。


「鍾桂殿。私がいるからと言って気を遣わなくていいですよ。普段通り、宵殿と話せばいい。それと、軍の事は私が見ておくので、宵殿も鍾桂殿も少し休まれては?」


 気を遣った桜史の言葉に鍾桂は目を輝かせた。


「ありがとうございます! 桜史殿! よし! では、宵! ちょっと息抜きしに外を歩こう!」


「え!?」


 突然、鍾桂は座っていた宵の小さくて白い手を取り、半ば強引に立たせた。


「あ、いや、鍾桂殿。宵殿は1人で休むから……」


「さあさあ、桜史殿からお許しも出たことだし、行こう行こう!」


 鍾桂は桜史の言葉を最後まで聞かずに、困惑する宵をさっさと連れて部屋から出て行ってしまった。


「はぁ、やれやれ。鍾桂殿はまるで少年のように純粋だな」


 桜史は部屋の主さえいなくなり、1人になった宵の部屋でそう呟いた。そして立ち上がり、見ていた竹簡を纏めて抱え上げると部屋を後にした。



 ♢


「こうやって2人で一緒に歩くのも久しぶりだね」


 椻夏の南門の城壁の階段を上りながら、隣を歩く鍾桂に宵は微笑んで言った。

 心地よい風が宵の黒髪と薄紫色の閻服の裾を揺らしている。


「そうだね。早く戦場じゃなく、平和な閻でキミと……」


「鍾桂君……」


「ああ、違う! ごめん! 今のは忘れてくれ!」


 気まずそうな表情で鍾桂は宵よりも先に階段を上って行った。

 宵はさっさと進んでしまう鍾桂を急いで追おうとしたが、少し考えてゆっくりとその後に続いた。

 鍾桂は城壁の石の手すりに両手を付いた。

 宵も遅れてその隣に立つ。

 すぐそこには朧軍の陣営がずらりと並んでいた。凄まじい兵力。たくさんの攻城兵器。完全に椻夏を落としに来ている。


「他の城門も同じだよ。ここ南門は李聞りぶん将軍が守ってるから、きっと1番守りは堅い」


「私がここへ来た時はまだ周りは水浸しだった。けれど、もうその形跡はほとんどない。それだけ時間が経ったんだね」


 言いながら、本当にこの戦略で良かったのか。本当は敵に囲まれる前に敵を退けられる戦い方があったのではないかと、あれこれ考えてしまうが、今の戦い方より良い作戦は浮かんでこない。結局、勝てば正解だし、負ければ不正解なのだ。


「宵。外の空気を吸う為にここに来たけど、やっぱり仕事の事考えちゃうよね。中に戻って甘いものでも食べようか」


 神妙な面持ちの宵を気遣い、鍾桂が優しい言葉をかける。


「そうしようか」


 宵は柔らかな笑みを浮かべ頷いた。



 ***


 閻帝国・秦安しんあん


 光世は清華せいかと共に大司農だいしのう董星とうせいの執務室にいた。

 清華が光世の事を事前に話してくれていたお陰で、警戒される事なく、光世はいとも簡単に董星に謁見出来た。


 真っ白い髪の毛の董星は光世のとんでもない話を聞いて目を見開いてしばし固まった。

 だが、光世と清華の真剣な目を見て、やがてその話が冗談ではない事を理解すると小さく息を吐いた。


「これは閻帝国を、そして、貴女の父、董炎とうえんを救う為に必要な事。貴女の力が必要なんです、董星様。ご協力頂けませんでしょうか?」


 光世が言うと、董星は卓に置いてあった竹簡に筆でサラサラと何か書き始めた。

 するとすぐに光世の隣にいた清華が立ち上がりつかつかと歩いて行き、董星の横に立った。


 董星は書き終えると、竹簡を清華に渡した。

 清華は慣れた様子で竹簡に書かれた文字を読み上げる。


「『このままでは父は多くの民を苦しめ続け、やがては閻帝国も滅びるでしょう。これ以上、父に悪政を続けさせるわけにはいきません。しかし、私にはどうする事も出来なかった。貴女が父を止めてくれるのなら、私は命を賭してでも貴女に協力しましょう』」


 読み終わった清華はニッカリと笑い光世を見た。

 光世も強力な助っ人を得られた喜びから思わず笑みを零す。


「ありがとうございます。大司農である貴女の協力があれば、楊先生から授かった策は半分以上成功したも同然。では董星様、“塩200万石”の準備と輸送、よろしくお願いいたします」


 拱手しながら、光世が言うと、董星はコクリと頷いた。そしてまた清華から竹簡を貰うと、サラサラと書き足し、再びそれを清華に渡した。


「『塩の準備は問題ありませんが、父上は勿論、尚書令しょうしょれい董月とうげつに気取られれば全て台無しになりかねません』」


 清華が読み上げると、また光世を見る。


「董炎と董月の目を董星様の動きから逸らさせれば良いのでしょう? それなら、お任せください。ね、清風華せいふうかちゃん?」


「……え? あ、あたし?」


 突然の指名に困惑する清華。

 光世は確信していた。これまで幾度となく死線をくぐり抜けてきた清華という間諜なら董炎、董月の目を釘付けにするくらいわけはないと。


「大丈夫だよ、風華ちゃん。ちゃんと策はあるから」


「御意! なら、心配無用ですね!」


 清華が笑顔で言うと、今まで硬い表情だった董星がクスリと笑った。

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