第166話 光世、参内す

 閻帝国えんていこく靂州れきしゅう秦安しんあん


 清華せいかの手解きにより簡単に司徒しと董陽とうようの邸宅に住み込むことに成功した厳島光世いつくしまみつよは、秦安に入ってから7日経ったこの日、閻帝国皇帝の蔡胤さいいんに宮廷へ呼び出された。

 影の者である護衛の陸秀りくしゅうの存在は、董陽達には話していないので、今回共に連れて行く事は出来ない。故に陸秀には離れた所から付いて来てもらうよう指示した。


 董陽邸には煌びやかな装飾の施された馬車が迎えに来て、光世は董陽と清華を伴って緊張した面持ちで宮廷へと向かった。


 馬車に揺られる事およそ四半刻 (約30分)。

 馬車は荘厳な佇まいの宮廷の前に到着した。


 光世は馬車から降りると、すぐに朝廷の役人がそばに来て拝礼した。


「お待ちしておりました、光世様。董陽様。ここからは徒歩にてお進みいただきます」


「あ、はい」


 あまりにも美しい宮廷。自分のような女子大生が来るようなところではないと、光世はたじろぎながらも役人の説明に頷く。

 すると、光世の後から降りて来た董陽が隣に立った。


「大丈夫よ、光世ちゃん。多少の無礼があっても、わたくしが庇ってあげるから。さ、行きましょうか」


 ニコニコとした緊張感のない董炎とうえんの長女・董陽は、背の高い華奢な身体を豪奢な閻服えんふくに身を包んでいる。屋敷で何度か会話したり食事も一緒に摂った事があるが、温和な顔とは裏腹にしっかりと物事を論理的に判断する頭の良い女だ。

 年齢的には40近いはずだが、童顔で幼さが残る。

 それは董陽邸に共に暮らしている三女の董星とうせいにも言える事で、董炎の娘達は揃って若く顔が良い。


「清華ちゃんは馬車で待ってなさい」


 下女である清華はこれ以上先には行けないようだ。董陽に命じられると、清華は頷きながら、光世へと目配せした。


 董陽は、案内の役人よりも先に慣れた様子で宮殿へと歩いて行く。

 やがて、宮殿の前の石段に差し掛かり、董陽はそこで足を止めたので光世も同じく足を止める。


 案内の役人は後ろの方へとはけていった。


「陛下の許可があるまで石段は上れないわ。少し待ちますよ」


「はい」


 光世は横に広い石段の両端に控える衛兵達を見ながら、破裂しそうな程に鼓動している胸に手をやった。

 実際、光世には皇帝蔡胤が何の用で光世を参内させたのか図りかねていた。

 普通に考えれば、朧軍ろうぐんとの戦に関わった宵の仲間として話を聞かれるのだろう。

 だが、清華と共に董炎失脚の為に動いている事がバレていたのなら、光世はきっとここで殺されるかもしれない。


 恐ろしくて、ここには来たくなかったが、皇帝の召集を断る事など出来ない。

 故に仕方なく来たわけだが、実際、蔡胤、そして丞相の董炎と顔を合わせる事になると思うと、緊張と恐怖で吐き気がしていた。


「大丈夫、大丈夫よ」


 光世が青い顔をして震えていると、董陽は優しく光世の背中を摩り、耳元で囁いた。


「陛下は恐ろしい人ではないわ。わたくしの父、董炎に頭が上がらないのだもの。そして、その董炎もわたくしがいれば光世ちゃんに意地悪はさせないから。安心して」


「あ、ありがとうございます」


 優しい董陽の言葉に、光世はぎこちない笑みを浮かべる。


「誰か、光世ちゃんにお水を持って来てあげなさい」


 董陽は気を利かせて背後の役人に命じると、すぐに高級そうな杯に入った水が運ばれて来た。


 光世は震える手でそれを持ち、カラカラだった喉を潤した。

 冷たい水が身体に沁み渡り、光世はようやく落ち着きを取り戻した。


「司徒・董陽、軍師・光世。参内さんだいせよ!」


 石段の一番上から役人が大声で命じた。

 同時にどこからともなく大きなラッパのような音や、太鼓の音がなり始め、役人が光世から杯を回収する。

 そして、董陽は光世の背中を一度軽く押すと、石段を上り始めた。


「いいわね? 馬車の中で教えた通り、建物の前で靴を脱ぐ。中に入ったら跪いて三度拝礼する」


「は、はい」


 石段を上りながら董陽は念を押して言った。


 長いように見えた石段もあっという間に上り切ってしまい、光世と董陽は建物の前に到着。手馴れた様子で靴を脱ぐ董陽に倣い、光世も靴を脱いで揃えて置いた。


 広々とした室内には、左右に役人が何十人も控えている。

 その中央を董陽は堂々とした様子で歩いて行くので、光世も急いでそれに付いて歩く。

 そして、部屋の真ん中で董陽は拱手したので光世も真似して拱手した。


「司徒・董陽と軍師・光世が皇帝陛下に拝謁致します」


 そう言って拱手すると、部屋の奥の男が大きな声で号令を掛ける。


ひざまずけ」


 それを聞いて両膝を突く董陽。光世も咄嗟に真似をする。


一叩頭いちこうとう!」


 男の掛け声で董陽は額を床に付けるように頭を下げたので光世も額を床に付けた。


再叩頭さいこうとう!」


 また掛け声が聞こえたので、頭を上げて再び董陽と光世は額を床に付ける。


三叩頭さんこうとう!」


 そしてまた声が聞こえたので、要領を得た光世は董陽と完璧に揃えて再び額を床に付けた。


て」


 男の掛け声で董陽と光世はゆっくり立ち上がった。

 董陽はそのまま前進したので、光世もそれに付いて進む。

 そしてまた董陽は立ち止まったので光世も止まる。


「跪け」


 また最初の掛け声。

 董陽と光世は再び両膝を突いた。

 それから、先程の拝礼をあと2回繰り返した。


 中国王朝での最敬礼である「三跪九叩頭さんききゅうこうとうの礼」。

 光世も大学の講義で聴いた事があったが、まさか自分がやる事になるとは夢にも思わなかった。元の世界では明王朝みんおうちょうに始まり、清王朝しんおうちょうになりこの回数が定められたものと聴いていたが、どうやらこの世界には既に三跪九叩頭はあるらしい。


 拝礼中に何度か見えたが、数段の階段の上の玉座に、冕冠べんかんを被ったふくよかな男が皇帝・蔡胤さいいんなのだろう。


「立って良いぞ」


「「ありがとうございます」」


 蔡胤と思しき男の声が聞こえたので、光世と董陽は頭を上げ立ち上がった。


 再度見た蔡胤は、玉座より片肘を手すりに付いてこちらを見下ろしていた。

 冕冠べんかんの前に垂れ下がるすだれの間から覗く脂肪で重そうな瞼のせいで今にも閉じてしまいそうな程細い目が、光世の容姿を舐めるように見ている。


「斯様な小娘が、兵法を駆使し、逆賊朧軍を食い止めているのか。俄には信じられぬな」


 散々光世を吟味した後、ふてぶてしい態度で言う蔡胤に対し、隣の董陽はすかさず口を挟む。


「陛下、恐れながら申し上げます。光世は若いですが、紛れもなく兵法を知る軍師だと、前線の李聞りぶん将軍から報告を受けております」


「そうか。朕はその兵法というものを良く知らぬのだが、それがあれば、朧軍を撃滅できるのであろう? なればさっさと朕の国を侵す忌々し朧軍共を皆殺しにせよ。朧軍のせいで、朕の食糧の一部を兵隊共に回さなければならなくなる。一刻も早く、戦を終わらせるのだ!」


 緊張していても分かる。あまりにも頭の悪い内容の話。この蔡胤という皇帝は噂に聞く通り董炎の傀儡かいらいで間違いない。

 この傀儡皇帝よりも、光世は右手側からの鋭い視線の方が気になっていた。まだ恐ろしくてそちらを見る事すらできていない。


「陛下、宜しいですかな?」


 すると、光世が気にしていた方から威圧感のある男の声が聞こえた。


「何だ、丞相」


 声の主は丞相。董炎だ。董炎がすぐそこにいる。董炎に光世はその姿を見られている。

 これから政略でその地位から引きずり下ろそうとしている相手。

 そう考えただけで、光世の額からは汗がポタポタと木の床へと落ちていく。


「幾つか問いたい。まず1つ、其方は朧軍から閻に降ったらしいが、朧軍を倒す気はあるか」


 光世は恐る恐る質問者の董炎へと顔を向けた。

 その大きく鋭い瞳が震える光世を睨む。何もかもを見透かされているような恐ろしい感覚。

 一目見て理解した。

 この男は只者ではないと。


「はい、あります」


 震えながらも光世は声を絞り出し応答する。


「では、何故前線ではなく、秦安しんあんに来た」


 その質問の答えは、董炎を失脚させる政略を仕掛ける為……なのだが、そんな事言えるはずもない。だが何か答えないと怪しまれる。

 思考を巡らせたが、緊張と恐怖で言葉が何も出て来ない。身体中から冷汗だけが溢れている。何か別の理由もあったはずなのに、それが思い出せない。


呂郭書りょかくしょ


 ポツリと、囁くように隣の董陽が言った。

 それで光世の混乱していた思考がまとまった。


「呂郭書将軍を調べる為に参りました」


「呂郭書を調べる?」


 咄嗟についた嘘。董炎は首を傾げているが、これが嘘だとは見抜けないはずだと光世は確信していた。


「はい。呂将軍は、葛州かっしゅうの朧軍を討伐せよとの陛下の勅命を受けながらも、未だに靂州れきしゅうの東の外れ、天譴山てんけんざんの手前にいます。これは陛下の命令に背く行動。朧軍の侵攻に乗じて、反逆を企てているのではないかと思い、私自ら調べに参った次第です」


「なるほど。確かに呂将軍は陛下に背いている。先に話を聞いてくるように送った太尉たいい孫晃そんこうが呂将軍に捕縛されている。もしや、数日前に董星とうせいが呂将軍の陣営に赴いたのは、お前の差し金か?」


 流石に清華と董星の行動は董炎には知られているようだ。

 どう返答するのが正解か。僅かに逡巡して光世は首肯した。


「は、はい。その通りです」


「儂も呂将軍には頭を抱えておった。あの男には秦安の半分以上の兵を持たせてしまっている。その兵力で秦安を攻められたならとても対抗出来ぬ。まだ秦安には兵が10万いるが、有能な指揮官となる将軍がいない」


「やはり……そうですか」


 光世を信用したのか、董炎はポロリと秦安の戦力を漏らした。


「そこで其方には呂将軍が謀反を企てぬよう、軍師としての知恵を使い何とか食い止め、あわよくば呂将軍から兵を取り上げて欲しい」


 予想外の話に光世は目を丸くする。

 呂郭書から兵を取り上げる。確かに董炎的には呂郭書の反抗は予想外でかなりの痛手だろう。さっさと呂郭書を処分して軍を回収したいはずだ。

 だが、光世としてはそれは絶対に出来ない。

 呂郭書の存在はこちらにとってはかなり好都合。そして、先日董星と共に呂郭書に会いに行った清華の話によれば、今は独立して中立な立場にいると言うのだ。

 つまりは、光世達の最終目標、董炎失脚に利用する事が出来る可能性が非常に高い。

 故に、呂郭書から軍を取り上げるように仕向ける事は光世としては絶対に出来ない。


 しかし、今この場での答えは1つしかない。


「仰せの通りに。呂将軍の軍を剥奪出来るよう、微力ながら私の知略にて、お力添えをさせていただきます」


「うむ。頼んだぞ。葛州方面は、其方の仲間の宵という軍師が善戦しているらしいではないか。一度は裏切ったと思われた閻仙えんせん楊良ようりょうもこちら側に就いているようだしな。お陰で呂郭書の反抗の影響を最小限に留められている」


「はい……あ、あの、丞相、1つ御提案がございます」


「何だ、申してみよ」


 光世はこの絶好の機会に意を決して本題を切り出した。


「目下、洪州こうしゅうは、朧軍の侵攻を受け早々に降伏してしまいました。そのせいで、我々は未だに朧軍を追い払えておりません」


「分かっている。洪州の弱兵共が。必ずや全員殺してやる」


「お、お待ちください。本来ならば、裏切った将兵は皆罰を与えるべきですが、いっその事、全て許してしまうのは如何でしょうか?」


「何? 許せだと?」


 董炎の目付きが変わった。


「はい、一見、朧軍は洪州を制圧しているように見えますが、洪州にいる元々の朧軍は10万余り。後は元閻の洪州軍およそ30万です。その30万が再びこちら側に付けば、朧軍大都督・周殷しゅういんを含む主要な朧軍戦力は袋の鼠。一気にこちらが優勢となりましょう」


 まさかこうして直接、董炎に洪州軍への免罪を請う事が出来るとは思わなかった。

 丞相である董炎の許可が降りるなら、これ程心強い事はない。必ず洪州の元閻軍はこちら側に寝返るだろう。


 だが──


「ならぬ。信賞必罰。裏切り者が帰る場所などこの国にはない。現に、宵のお陰で今も尚、葛州は持ち堪えている。兵法を知らぬ朧軍など、時間の問題であろう」


 愚かだ。董炎は賢いと思っていたが、実に愚かだった。今洪州軍がまた閻に付けば一気に形勢逆転出来るというのに。軍令や法を厳守するのは素晴らしい事だが、時には柔軟な思考も必要である。


 光世はガックリと肩を落とし俯いた。


「丞相、朕も光世の提案には賛成だ。戦の終結は早ければ早い程良い。時間を掛ければ、その分、金も兵糧使う。さすれば朕の国は貧しくなり、朕も贅沢が出来なくなるではないか」


 自己中心的な考えであるが、蔡胤の口添えは有難い。だが、董炎は顔色一つ変えない。


 すると今度は光世の隣で董陽が進言する。


「丞相、わたくしも、光世の言う通り、洪州軍をお許し頂いた方が事が上手くいくと思います。陛下も戦の早期終結を望まれていますし」


「お前の言う事でも駄目なものは駄目だ。裏切り者には死を与えぬばならん。そもそも、洪州軍が裏切らなければ、ここまで戦が長引く事もなかったのだ。許す事など到底出来ぬ」


 董陽がさらに何か言おうとするのを、董炎は手で制した。


「陛下、軍法を破れば軍は乱れます。そうなれば、もはや軍を縛るものはなくなるのです。朧軍を退けた後に、洪州の連中が味をしめて好き放題しだしたら、一体どうするおつもりですか? 洪州軍は朧国との国境の軍ですぞ。統制の取れない脆弱な軍では、例え今回退けたとして、再び朧軍に付け入る隙を与えてしまいます」


「ぬ、ぬぅ……じょ、丞相が言うなら、好きにすればいい」


 司徒であり娘である董陽、そして皇帝である蔡胤の意見でさえ、董炎は頑なに拒んだ。


「良いか光世。其方は呂将軍の軍を取り上げる事だけに注力せよ。分かったら下がって良い。董陽は残れ、話がある」


「はい」


 しょんぼりとした董陽が力無く返事をした。


「ごめんね、光世ちゃん。先に戻っていて」


 言われるがまま、光世は一礼すると大勢の視線のある広間からそそくさと退出した。

 知らず知らずのうちに、光世の瞳からは止めどない涙が溢れ続けていた。

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