第165話 流言飛語

 朧軍ろうぐん洪州こうしゅう北部、烏黒うこく


 朧軍大都督ろうぐんだいととく周殷しゅういんの居室に斥候が飛んで来たのは夜半だった。

 斥候は書簡を渡すとその場に跪いたまま頭を伏せて待機している。


 周殷は寝巻きのまま寝台に座り、燭台の明かりに書簡を照らして文字を追った。


金登目きんとうもくめ、俺の言い付けを破って斬血ざんけつを使うなどとは……。椻夏えんかには桜史おうし光世みつよもいたはずだろ」


「お、仰る通りです」


 辺りは静寂に包まれ、虫たちの鳴き声が聞こえるだけ。

 斥候は頭を下げたまま周殷の命令を待っている。

 周殷は短い己の顎髭に触れた。そして、何か閃いたかのように斥候に目を向けた。


「ここに書いてある内容は真か? よもや閻の軍師の策略ではあるまいな? 我々を仲違いさせ自滅させようという算段なのではなかろうか」


 すると斥候は顔を上げた。


「いえ、嘘偽りはありません。この書簡は確かに全燿ぜんよう将軍からお預かりしたものです」


「本人から受け取ったものであるならば、間違いはないか。だが、いくら俺の命令を無視して斬血を使ったと言えど、今金登目を前線から外すのは不味い。椻夏には宵という女軍師がいる。全燿だけでは落とせまい。あの徐畢じょひつ将軍を破った女だ。こちらも最高戦力を使わざるを得ない」


「では、今回はお咎めなしという事でしょうか?」


「ああ。もう良い。下がれ」


 周殷は短く答えると、斥候を下がらせた。

 1人になった部屋で周殷は舌打ちをする。


「戦が終わった時、必ずや罰を与えてやるぞ、金登目」


 怒気の籠った声で周殷はそう呟いた。



 ***


 椻夏えんか城外・朧軍・金登目きんとうもく陣営


謀反むほんだと!?」


 蝋燭の火が揺らめく幕舎の中で、金登目は報告に来た斥候に怒鳴った。


「は、はい。全燿ぜんよう将軍は、金将軍が斬血を使い徐檣じょしょうをも殺そうとした事を酷く恨んでおられるようで、全燿将軍の陣営内でも不満が募っている様子。このまま放っておけば、閻軍と手を組み、我らを裏切る可能性もあります」


 片膝を突き、頭を下げたまま拱手する斥候の兵士は、恐る恐る金登目に報告をした。


 険しい顔のまま、金登目は腕を組むと静かに口を開く。


「謀反など、あの男がするとは思えんな。奴は忠臣だ。戦友だった徐畢じょひつの仇を打つ為に朧からここまで出て来たのだ。そんな忠義の男が、たかが女1人の為に祖国を裏切る真似をすると思うか?」


 すると、金登目のそばで話を聞いていた部将の趙鉄ちょうてつが一歩前に出て拱手した。


「お言葉ですが金将軍。その女というのは徐畢の1人娘。徐畢と親交の深かった全燿将軍が、徐畢の娘を我が娘のように大切に思う事は有り得ない事ではありますまい。自らの娘だと思っていたならば、斬血にまとめて殺されそうになれば怒り心頭に発するのも無理はないかと」


 だが、趙鉄の話を聞いて、金登目は大きな声で笑い出した。

 趙鉄は目を丸くしてゲラゲラと笑う金登目を凝視する。


「馬鹿な! 趙鉄よ、お前は大局が見えておらんのか? ああ!? 閻帝国を董炎とうえんの悪政から解放し民を救うのが我々の大義。徐畢じょひつ将軍はまさにその大義の為に戦い戦死した。その意志を継いだのが全燿のはずだ。そんな奴が、いくら徐畢の娘だからと言って、我々の目的を忘れ、閻に降った裏切り者の小娘が殺されそうになったからと言う理由で謀反などと馬鹿げた事をするわけがない!」


「しかし……」


「誰か!」


 趙鉄の言葉を遮り、金登目は幕舎の外の兵士を呼び寄せた。返事と共に2人の兵士が部屋に入って来た。


「この斥候はいたずらに我が軍の士気を下げる報告をしに来た閻の間諜だ。捕らえて首を刎ねよ」


 金登目の命令に斥候の兵士はギョッと目を見開いて顔を上げる。


「お待ちください! 金将軍! 私は閻の間諜などではありません! ただ不穏な状況だと報告に上がっただけでございます!! どうか、どうか命だけは!!」


「例え貴様が間諜ではなくとも、全燿ぜんよう将軍を疑う報告をした貴様を斬れば、俺の全燿将軍への信頼も伝わり、同時に不審な真似をすれば即刻処断されるという軍律の整った正常な軍だと認識され、それこそ謀反を起こすものなどいなくなろう。その為の見せしめに貴様は死ぬしかないのだ」


 金登目は冷静にそう告げると、喚き散らす斥候を無慈悲にも2人の兵士に連れて行くように命じた。

 喚き声はしばらく外から聞こえていたが、程なくして聞こえなくなった。


 趙鉄はもう口を開こうとはしなかった。


「良いか趙鉄よ。閻の宵とかいう女軍師は手強い。桜史おうしもだ。故に全ての情報を鵜呑みにするな。必ずまずは疑うのだ。奴らは我々を陥れようと偽の情報を流してくるはずだ。いいな?」


「御意!」


 趙鉄が拱手して部屋を後にすると、金登目は満足そうにニヤリと笑った。



 ***


 威峰山いほうざん閻軍えんぐん姜美きょうめい陣営


 威峰山の南側は夥しい程の尉遅毅うっちきの軍勢に固められていた。その数およそ3万。対するこちらの兵力は朧軍から投降した元逢隆ほうりゅうの兵を合わせても1万1千余り。

 尉遅毅の軍の動かし方は今まで姜美が見てきたどの朧軍の指揮官とは比べ物にならない。先遣隊の尉遅太歳うっちたいさいも優れた将軍だったが、尉遅毅には遠く及ばない。そして、あの徐畢じょひつすらも霞む程の隙のない布陣。


 姜美は思った。自分とはまるで格が違う。

 こちらには軍師として閻仙えんせん楊良ようりょうが付いているとはいえ、目の前の真っ黒い統制された布陣を見ると勝てるかどうか疑問に思ってしまう。

 こちらには、校尉の田燦でんさん鄧平とうへいしかいない。


 姜美は見晴らしのいい崖の上から、圧倒的実力差の尉遅毅の軍勢を見下ろして1人恐れおののいていた。


「楊先生は?」


 姜美は背後に控えていた兵士の1人に問う。


「それが、朝から部屋に籠ったまま食事も摂らずに出てこられません」


「もう日が傾き掛けていますよ? いつまで寝ているつもりですか? 敵は目の前に迫って来ていると言うのに」


「さ、さあ……」


「もう良いです! 私が直々に起こしに行きます」


 プンプンと怒りながら、馬に飛び乗ると、姜美は掛け声と共に馬腹を蹴って山道を駆けて行った。

 兵士達も慌てて馬に飛び乗って姜美の後を追った。



 ♢


「楊先生! 起きてください!」


 楊良の幕舎に着くと、すぐに外から声を掛けた。

 腕を組み、右足の爪先で何度も地面を叩く程、姜美の苛立ちは募っていた。


 すると、幕舎から出て来たのは楊良ではなく、竹簡を大切そうに持った兵士だった。

 その兵士は姜美に一礼するとすぐに駆け去ってしまった。


「いやぁ疲れた疲れた」


 今度はかなり草臥くたびれた様子の楊良が首をコキコキと鳴らしながら幕舎から出て来た。


「楊先生! お休みになっていたのではなかったのですか?」


 姜美が問うと、楊良はニコニコしながら頭を下げて拱手する。


「はは、まさか。こんな時間まで眠っていられる状況ではなかろう。実はつい先程まで手紙を書いていたのです」


「手紙? ああ、今飛び出して行った兵士が持っていた竹簡ですか」


「如何にも」


「どなた宛に? 軍師殿ですか?」


「いや、違う。まあ、そのうち分かる」


「教えてください」


「今は知る必要はない。それよりも、今姜将軍が考えねばならぬ事は尉遅毅うっちきを破る術。何か策は思い付きましたかな?」


 余裕のない姜美に対して、飄々とした様子で楊良は逆に問う。


「それは……やはり、我々は高所にいますから、尉遅太歳の時と同じように石や丸太を利用して──」


 姜美の言葉を皆まで聞かずに楊良は大声を出して笑った。


「尉遅毅の布陣をご覧になられたでしょうに。奴は並の指揮官ではない。高所への進軍が不利な事は心得ている。ましてや、出来の良い従弟の尉遅太歳が高所へ進軍し敗走したのだから、同じ轍は踏まんよ」


「わ、笑わなくても……」


 恥ずかしさに頬を染め、姜美は楊良から目を逸らす。


「こちらの利は敵より高所にいるという事だけ。兵の数でも、指揮官の能力でも敵わない。援護してくれる軍もおらぬ」


「では、我々は勝てないと?」


「勝つ事だけが全てではない。負けない事も戦略のうちじゃ。この状況なら、宵殿も同じ事を言うと思うぞ」


 確かに、宵ならばこの場面で何か兵法の一文を引用してそらんじるだろう。その光景が容易に想像できる。


「然らば、私はどうすれば良いのでしょう?」


「時が来るまで守備に徹しなさい」


「……時? 時とは? いつです?」


 楊良はゆっくりと姜美に近付くと、肩に手を置いた。


「指揮官ならば、視野を広く持つ事ですぞ。戦っているのは、我々だけではない」


 そう言うと楊良は西の方を向いた。


 威峰山いほうざんから見て西には椻夏えんか秦安しんあんがある。


 ハッとした姜美は、楊良に拱手して頭を下げた。


「理解いたしました。楊先生!」


 楊良はまた声を出し呵々と笑った。

 この男が閻仙と呼ばれる所以、それが姜美には今ハッキリと分かった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る