第160話 暗殺の夜明け

 陸秀りくしゅうと共に、光世は史登しとうと別れた場所まで引き返した。

 空はまだ暗く星が瞬いている。

 どのくらい走ったか分からない。史登の生存。それだけを考え走った。

 すると、道の真ん中に倒れている人影を見付けた。


「史登君!?」


 史登かどうかは暗くて遠目からでは分からなかったが、光世にはもう史登にしか見えなかった。

 その人影に駆け寄る光世と共に、大刀を持った陸秀が続いた。


「……!!?」


 光世の目に飛び込んできたのは、血塗れで変わり果てた姿となった史登だった。衝撃的な光景に、光世は声も出なかった。

 うつ伏せの史登の後ろの道には大量の血が道標のように史登へと繋がり、ここまで這って来て力尽きたのだと分かった。可哀想に、身体中至る所に刺傷がある。

 もちろん、史登はピクリとも動かない。


「史登……」


 陸秀が呟いた。


「は……あぁぁ……史登君……」


 陸秀の呟きで堰が切れたように、光世は声を出して泣いた。ただ泣いたとは到底言えない、人には聞かせられない程にみっともない嗚咽を漏らして泣いた。

 うつ伏せで倒れていた史登を抱き起こし、光世は恋人を抱き締めるかのように、自らの頬に史登の頬を擦り寄せる。


「……!」


 その瞬間、光世は目を見開いた。

 史登の頬が、完全に冷たくなってはいない事に気が付いたからだ。


「史登君……!? 史登君!!」


 微かな望みに賭け、史登の名を呼ぶ。

 隣で立って様子を見守っていた陸秀も、異変に気が付き片膝を突く。


「史登君! 光世だよ! 起きて! まだ、まだ死んじゃ駄目!」


 光世の呼び掛けに、閉じていた史登の瞳が微かに開いた。


「史登君!!」


「……よ、良かった……光世先生、ご無事で……」


「うん! 無事だよ! キミのお陰で助かったの!すぐに手当するからね。もう喋らないで」


 だが、史登は微かに首を横に振った。


「必要……ありません。僕はもう、死にます」


「死なない! 死なせない! 絶対!」


「ぼ、僕は本当は、一度、し、死んでいました。でも、光世先生の声が聞こえたから、さ、最後にもう一度だけ光世先生のお姿が見たくて……戻って来ました……が、もう、目を開けている事も辛い……光世先生のお姿が……見えなく……なって……さむ……寒い……」


 最早うわ言のような事を話し出す史登を、光世は自らの体温で温めようとギュッと抱き締める。

 今にも瞼が閉じてしまいそうな暗い瞳の中には、もう光世は映っていないのかもしれない。

 光世の瞳からは涙がポロポロと溢れ史登の頬を濡らした。


「光世先生……な、泣かないで……」


 光世に会いたい気持ちだけで死の底から這い上がって来た史登。だが、その死力も、もう長くは持ちそうにない。

 不意に、光世の胸に何かが当たった。

 見ると、史登の血塗れの拳が、左胸に触れて震えていた。

 その拳から力が抜けると、ポロッと何か赤い塊が落ちた。それは紐で史登の手首と繋がっている様だった。


「こ、この御守りと共に、僕を葬ってください……。それなら……1人でも、さ、寂しくないですから……」


 赤い塊は、光世があげた御守りだった。真っ白い絹の布で作った筈の御守りは、史登の血で真っ赤に染まっていたのだ。

 光世は史登の震える拳を掴み、何度も頷く。


「ごめんね、役に立たない御守りなんかあげて……。分かったよ、約束する……」


「ありがとう……ございます……光世先生……、ぼ、僕は、貴女のお傍に仕える事ができて、本当に幸せでした……。もし、この戦が終わったら……貴女と……」


 その言葉の後、史登の口から言葉は紡がれなかった。

 しかし、まだ、ほんの僅かだが、息はある。

 光世は言葉さえ失ってしまった愛しの史登の唇にそっと自らの唇を重ねた。

 冷たい唇だった。

 身体に血は巡っていない。

 そう感じたが、光世は接吻をやめなかった。

 一瞬だけ、史登の閉じかけた瞼が開いた。

 だが、またすぐに瞼は閉じていき、やがて安らかな表情で、史登は息を引き取った。


 享年16歳。

 あまりにも早過ぎる死であった。


 しばらくの間、光世は史登を抱き締めたまま道端に座っていた。涙は枯れる事なく、無尽蔵に光世の瞳から溢れ続ける。

 そんな光世を傍で終始静かに見守ってくれていた陸秀が、光世の肩に手を置いた。


「行こう」


「……はい」


 光世は素直に返事をすると、陸秀に史登の亡骸を託し、フラフラと立ち上がった。


 気が付けば辺りは白み始めており、史登の残した真っ赤な血の跡が、その凄惨な殺され方を物語っていた。


 そして、光世が背後を振り返ると、そこには、十数人の陸秀と同じ仮面を着けた軽装の男達が音もなく整列していた。その中の1人が、血の滴る布で包まれた「何か」を持っていた。

 陸秀が史登を背負うと、仮面の男達は一斉に陸秀へ、いや、史登の亡骸へと拱手した。


 陸秀に背負われ光世から遠ざかっていく史登の背中を見た光世は、また張り裂けそうな程の悲しみと悔しさに唇を噛み締めた。




 ♢



 鍾桂しょうけいに守られながら、椻夏えんか城内の南に位置する兵舎へと宵は無事に到着した。兵舎の敷地内に設営された野営用のテントである、小さな軍幕に案内された宵と鍾桂は、先に中にいた人物を見て笑みを浮かべた。


貴船きふね君! 無事だったんだね! 良かった」


 友人の無事を確認し、宵は安堵と歓喜でそのまま桜史に抱き着いた。


「瀬崎さんも無事で良かった……。けど、抱き着くのはちょっと……ほら、鍾桂殿も見てるし……」


「え? あ、ごめん、つい」


 照れる桜史とは対照的に、背後の鍾桂は面白くなさそうに口を尖らせて視線を逸らした。

 宵は桜史から離れると、鍾桂に向き直る。


「しょ、鍾桂君。本当にありがとう。助かったよ」


 破れた胸元を押さえ、ペコりと頭を下げる。……が、頭を下げた視線の先には、本来見える筈のない太ももが露わになっていたので、宵はしれっともう片方の手で下半身のはだけた裾を直した。


「礼はいらないよ。俺は俺のやるべき事をしただけだから」


 鍾桂は言いながら、宵の下半身にあった視線を宵の目に戻した。

 早いところ破れた服を着替えたいとこだが、男ばかりの兵舎に女物の閻服があるとは思えない。一先ず、あまり動かないようにして、服は後で兵士に買ってきてもらえば何とかなる。

 今はそんな事より、まだ姿が見えない光世や史登、徐檣じょしょう、そして李聞りぶん達の安否の方が心配である。


「貴船君、ここに到着したのは私達だけ? 光世達は?」


 宵は胸元と股の辺りを押さえたまま訊ねた。


「うん、まだここへは来ていないみたいだ。もちろん、兵達が城内を駆け回って厳島いつくしまさん達を探しているけど、まだ……」


「……そっか……」


 宵がしゅんとして俯くと、何やら騒がしい声が外から聞こえてきた。


「鍾桂ーー!! 桜史殿ーー!!」


 その馬鹿でかい声は紛れもない、徐檣の声だ。


「徐檣だ! おーい! 徐檣ー! ここだ!」


 その声に気付いた鍾桂が軍幕から顔を出して徐檣を呼ぶと、すぐに徐檣はやって来て、鍾桂の胸へと飛び込んで来た。


「鍾桂! 無事で良かった〜! あ! 桜史殿もご無事で!!」


 宵の方は一瞥しただけで、徐檣は鍾桂を抱き締めながら、奥にいた桜史をも抱き締めて、3人で喜びを分かち合った。

 何故だか女である宵は仲間はずれだ。


「徐檣、無事だったんだね、貴女のお陰で私達助かったよ。ありがとう」


 めげずに宵が声を掛けると、徐檣はしょんぼりした表情で宵へ視線を向けた。


「ん? ああ、当たり前でしょ? だって私、強いんだから。斬血の1人や2人や3人、簡単に斬り殺してやるわよ。ま、今回は李聞将軍の部隊に助けられちゃったけどね」


 悔しそうに口を尖らせる徐檣。手柄を取られた事が余程悔しかったのか、宵への口の利き方はあまり宜しくない。だが、その徐檣のお陰で全員無事だった事は事実。今回ばかりは宵の兵法は役に立たなかった。いや、兵法を使う余裕すらなかった。軍師として、それは有るまじき失態。


「それよりさ、光世は? まだ来てないの?」


 鍾桂と桜史に抱き着いたまま、徐檣が宵に訊ねた。


「うん……まだみたい……」


「あっそ、じゃあ私探して来る!」


 それなりにボロボロになっているように見える徐檣だが、また元気に軍幕を飛び出して行ってしまった。


「めちゃくちゃ頼りになるな、徐檣」


 鍾桂は鼻の下を人差し指で擦りながら言った。

 桜史は腕を組み、天井の方を見上げふーっと一息ついていた。


「光世……無事だよね」


 宵は床に腰を下ろし、弱々しい声で呟いた。

 その問い掛けに、鍾桂も桜史も宵へと視線を向ける。


 すると、またしても外が騒がしくなった。

 先程徐檣が騒いでいたのとはわけが違う。兵士全員が動揺しているかのような騒がしさだ。


 宵は胸騒ぎがして羽扇をギュッと握り締めた。


「光世先生だ!」


 外から聞こえて来た兵士達のざわめきは、光世の帰還を喜ぶものだった。


「聞こえた? 鍾桂君、貴船君!」


「聞こえた! 行こう!」


 真っ先に飛び出そうとした鍾桂の後に続き、宵と桜史も軍幕から飛び出し、光世のもとへ走った。


「光世ーー!!」


 宵は光世を見付けると、すぐに声を掛けた。

 しかし、視界に捉えている光世は何故か反応せず俯いたまま、見知らぬ仮面を着けた男達の中を歩いて来る。

 傍には先程元気良く飛び出して行った徐檣が佇んでいた。


 その様子の異様さに、宵はもちろん、鍾桂も桜史も何かを察した。


「……光世?」


 光世の傍まで来ると、ようやく光世は宵を認識し倒れるように抱き着いてきた。


「光世? 大丈夫? 怪我はない?」


 声を掛けたが、光世は震えていた。


「宵……史登君は……駄目だった……」


「……え」


 光世の言葉を裏付けするかのように、宵の隣を通り過ぎた仮面の大男の背中には、とても安らかな顔をした血塗れの史登が眠っていた。


 宵も経験した事のない、最も身近な者の死。

 光世にとっての史登は、宵にとっての鍾桂だった筈。

 その苦痛を想像した宵は、自然と涙が溢れ、光世の悲しみを想い、しばらくの間、泣き続けた。

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