第156話 暗殺の夜①

 突然、辺りが騒がしくなった。

 悲鳴やら怒号やらが飛び交い、静寂に包まれていた屋敷を一瞬で戦場のように変貌させた。

 宵も鍾桂しょうけいも、その騒ぎの正体が何なのか、すぐに悟った。

 斬血の暗殺者が屋敷に侵入して来たに違いない。

 悲鳴は兵士か下男が殺された声だろうか。ドタバタと廊下を複数人が走る音も聞こえて来る。


「敵襲! 敵襲! 軍師殿をお守りしろ!」


 兵達が叫んでいる。


「宵! きっと斬血だ! 部屋から出るなよ! 絶対俺が守ってやるからな!」


 そう勇んだ鍾桂は、腰の剣を抜き放った。


「鍾桂君、気を付けてね……」


「宵、今は俺の事より、自分の心配しろよ。キミの命が狙われてるんだから」


 少しだけ宵の方を顧みた鍾桂は、完全に武人の顔になっていた。


「逃げるな匹夫ひっぷ!! この徐檣じょしょうと勝負しろ!!」


 廊下の方から徐檣の勇ましい叫び声が聞こえて来た。どうやら先に徐檣が斬血を見付けて追い回しているようだ。


「徐檣が動いてるって事は、桜史殿は今1人なのかな? もし、斬血が2人以上屋敷に侵入してたらまずいよね? 鍾桂君」


「た、確かに。徐檣は目の前の敵を追い回しているだけで他が見えてない可能性があるな。もしや、徐檣を引き離す作戦?」


 鍾桂の推測と宵の推測は一致した。

 斬血のようなプロの暗殺者が、こんなに騒ぎを起こす筈はない。

 松明の火だろうか。中庭の辺りに煌々と輝くのが障子越しに見える。それはあちらこちらへと行ったり来たり、忙しなく動き回る。


「鍾桂君、どうしよう……」


 宵の恐怖心はすでに大きくなっていた。部屋の奥に佇み、寝衣のまま綸巾かんきんを被り、腰帯には『異国創始演義いこくそうしえんぎ』の竹簡を入れた巾着袋を括り付け、手には白い羽扇を持った。


「大丈夫。そこに居て。斬血が入って来た瞬間に斬り殺す」


 腰を落とし、剣を両手で握り締めたまま、鍾桂は障子の戸の前で、そこに映る人影や松明の灯りを睨む。


 だが、その時。

 さらに大きな叫び声が上がった。


「火事だ!! 屋敷に火が着いたぞ!! 外へ逃げろ!!」


 近くで兵達が叫んでいる。

 かなり近くだ。

 恐らく、斬血が屋敷に火を放ったのだろう。宵達軍師を誘き出すために。


「クソっ! 火事か! 宵、ここは駄目だ! 外に逃げよう!」


「え……でも外に出たら斬血が……」


「大丈夫! 外には徐檣も史登も居る!」


「ヤダ……怖いよ」


 恐怖に打ちひしがれた宵のもとに、鍾桂はやって来て震える手を握った。

 宵は鍾桂の顔を見る。


「俺が必ず守るから」


 真っ直ぐな鍾桂の瞳。それは臣下が主君を守るという決意の瞳とは少し違う、愛する女を守る男の瞳に見えた。


「分かった」


 不思議と宵の中にあった恐怖は和らいだ。

 部屋の外に出ても大丈夫だと思える程にはその心は持ち直した。


「徐檣達と合流しよう! 味方は多い方がいい」


 宵は静かに頷く。

 宵の首肯を確認するやいなや、鍾桂は部屋の障子の戸を開けた。

 すぐに宵達の左側から熱気がぶつかって来た。物凄い勢いの炎が、屋根から柱を伝い、廊下の一角を封鎖している。

 外には剣や槍を持った兵達が大勢集まっていたが、斬血に翻弄されて全く統率が取れていないようだった。屋敷から下男や下女を避難させる者、斬血を追う者、そんな兵達が入り乱れ、中庭はまさに大混乱といった様相だ。


「鍾桂君、光世と桜史殿を見付けないと」


「分かってる、その前にアイツを呼ぼう」


 そう言った鍾桂は、宵の手を握りしめたまま、大きく息を吸い込むと、喉が裂けんばかりの大声を出す。


「徐檣おぉぉぉぉお!!!」


 すると、廊下の上の屋根から黒い閻服を着た徐檣が、目の前に飛び降りて来た。


「鍾桂! ごめん! 斬血逃がした! アイツ私と戦わない!」


「分かった。で、桜史殿は?」


「あそこ」


 徐檣が指さした方を見ると、兵達20人程群がっている所があり、その兵達がこちらを見て手を振っていた。


「軍師殿ー!! こちらです!!」


「瀬崎さん!!」


 その中には、桜史の姿もあった。


「良かった! 貴船君は無事だ!」


 桜史の姿を見付けた宵は安堵し、鍾桂と徐檣と共に桜史と合流した。


「貴船君! 良かった無事で! 光世は?」


厳島いつくしまさんは先に史登君と護衛2人を連れて逃げた」


「え!? そんな少人数で!?」


 史登の判断の速さに驚嘆すると共に、その判断が些か不安でもあった宵は顔を曇らせる。


「史登君が居るとはいえ、たった3人で守り切れるの? こんな暗い夜道……」


「桜史殿、史登は光世を連れてどこへ逃げたか分かる?」


 徐檣が訊く。


「何も言わずに南へ駆け出したからなぁ……恐らく、人が大勢いる本営の兵舎じゃないかな」


「よし、じゃあ私達も南へ向かおう! 光世達と合流します!」


 宵が即決しめいを下すと20人の兵達を引き連れて動き出そうとしたが、すぐに足を止め燃え盛る屋敷の方を顧みる。


「そうだ、李聞将軍は!?」


 すぐさま鍾桂が心配そうに佇む宵に言う。


「李聞将軍なら大丈夫だよ。あの人は将軍だぞ? 自分の身は自分で守れる。行くよ!」


 無理矢理納得し、宵は鍾桂、桜史、徐檣と20人の兵達と共に、燃え盛る李聞の屋敷から脱出した。


「三十六計逃げるにかず……」


 宵は涙を袖で拭い、悔しそうにそう呟いた。


 どれだけ遠く離れても、その炎は闇夜を赤く燃やし続けた。



 ♢


 一目散に光世の手を引き逃げる史登。

 左手で光世の手を掴み、右手で剣を握り締め、暗闇の街をひた走った。

 護衛の兵士は監獄へも共に行き来した見知った2人。

 馬を見付ける余裕はなく、自らの足で走り続けるしかなかった。

 この時間の街は人っ子一人いない。月光や星明かりで辛うじて道が見えるくらいだ。


 史登や兵士の2人は普段鍛えているからいい。だが、いつも机に向かっているだけの光世にとって、長時間走り続ける事など到底できない。10分も持たず、光世は音を上げる。


「ご、ごめん、もう無理……少し休憩させて」


 息を切らしながら必死に休息を求める光世。額や胸元には玉のような汗がポロポロと零れていた。


「分かりました。少し休憩しま──」


 4人が走るのをやめて立ち止まったその時。

 後から追って来ていた2人の兵士が、呻き声を上げて次々と倒れたのだ。

 史登はすぐに剣を構え光世の前に立つ。

 その瞬間、史登は何かを感じ取り、突然持っていた剣を大きく振った。


 すると、足下には、真っ二つに切断された矢が転がっていた。


「任務のついでに、牛朗ぎゅうろうの仇も討たせてもらおうか」


 闇夜からの男の声。

 その声の主は、闇の中からゆっくりと現れた。


 史登は剣を構える。

 男はゆっくりと闇夜から痛々しい傷のある凶悪な顔を露わにする。


魏昂ぎこう……殿」


 名前を呼ばれた男はニヤリと笑った。

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