第155話 敵軍来たりて、暗殺者屋敷に侵入す

 史登しとうは竹簡に文字を認めた。

 それを廊下を通り過ぎる下男に無言で渡すと、その下男は李聞りぶんの屋敷から出て行き、どこかへと消えてしまった。

 史登は何事もなかったかのように平然と光世の部屋の警備を続けた。


 ♢


 椻夏えんか周辺の水は完全に引いた。泥濘ぬかるみはまだあるが、兵馬が行軍出来ない程ではない。だが、朧軍が運んでいる大きな攻城兵器はまだ動かせないだろう。車輪が泥に捕まり、思うように進めない筈だ。

 宵は水が引いたのを確認すると、兵達に椻夏周辺の木を全て切り倒し、城内に運び込むように命じた。同時に周辺の井戸も潰すようにと命じた。

 切り倒した木を運び込むのは、それらを敵軍に利用されないようにする為だ。木は武器にもなるし攻城兵器にもなる。

 万が一、攻城兵器の運搬を諦めた朧軍が椻夏周辺の木を切り倒し、それを材料に一から攻城兵器を作られれば一気に防御側が不利になる。

 逆に木を先に運びんでおけば、こちらが武器の材料として使えるのだから、木を集めない手はない。

 一方、井戸を潰すのは単純に朧軍に飲水を利用されないようにする為だ。城を包囲する際、近くに井戸や川がなければ、朧軍は南の拠点である洪州こうしゅうからの補給のみに頼らねばならなくなる。現地調達ができないというわけだ。

 これらの下準備は、籠城戦では基本となる事を、宵は知っている。


 鍾桂しょうけいは宵にピタリと張り付き片時も離れない。

 護衛としての任務を全うしている。

 鍾桂の護衛は、異常な程にキッチリしていて、寝る時はもちろん、風呂やトイレに行く時でさえすぐ傍に付いている。

 だが、宵もその鍾桂の完璧な護衛に協力するように、風呂もトイレも鍵は掛けず、もし敵に襲われても、すぐに鍾桂が助けに入れるようにしておくのが日課になった。

 宵としても、そこまでしてくれる鍾桂になら、裸の一つや二つ見られても構わないと思うようになっていた。

 食事にも細心の注意を払った。

 暗殺者に毒を盛られる可能性もある為、食事が運ばれて来たらまずは鍾桂が全ての料理を1口食べる。

 問題なければようやく宵が食べる。

 だが、もし毒が入っていた場合、本来死ぬ筈の宵ではなく、死ぬ必要のない鍾桂が死ぬ事になる。それだけは、宵自身納得がいってなかった。自分の為に鍾桂が死ぬのはおかしい。鍾桂にもそう伝えたが、彼はまるで取り合わなかった。


 椻夏周辺の水が引いてから2日後。

 とうとう朧軍は椻夏より南40里 (約16km)のところに到着した。

 金登目きんとうもくの3万、全耀ぜんようの3万。計6万である。以前攻撃に参加していた黄旺こうおうはいない。朧軍に忍ばせた間諜の甘晋かんしんらの報告によると、黄旺は前回の閻軍の数日間の攻囲により、心身共に疲弊し病の床に伏せているという。

 1人の有能な指揮官を戦力外にしたのはかなり大きな事だ。


 だが、まだ安心はできない。

 報告によれば、威峰山いほうざんには尉遅毅うっちきの3万も迫っている。

 さらに、朧国との東の国境の景庸関けいようかんには、新たな朧軍が進軍中との報告も入っている。その数4万。景庸関の守備は馬寧ばねい陳軫ちんしんの2万だけなので、丁度倍の兵力が攻めて来る事になる。

 指揮官は傅遷ふせん眭蘭すいらんという無名の2人。一応は将軍のようだが、それがどれ程の脅威になるかは分からない。


「三方面作戦か。朧軍にはもう軍師はいない筈だから、大した策はないとは思うけど、傅遷と眭蘭の情報って何かないかな? 馬寧将軍と陳軫将軍で抑えられるかな?」


 自室の机の上に小さな葛州かっしゅうの地図を広げ、宵は椅子に座って眠そうにウトウトしている鍾桂に訊いた。


「ん、あぁ、そうだな。傅遷と眭蘭な。まぁ、少なくとも閻の軍人よりは戦慣れしてるだろうから、油断しないにこした事はないと思うよ。馬寧将軍と陳軫将軍の実力がどれ程のものなのか分からないから何とも言えないけど」


「鍾桂君、少し寝たら? 私、他の兵士に見ててもらうから大丈夫だよ?」


「いや、心配無用だ。俺が寝てる間に宵が襲われでもしたら……」


 宵の気遣いを手で制した鍾桂だが、その目は虚ろだった。


「気持ちは嬉しいけど、鍾桂君がそんな状態じゃ起きてたとしても斬血には勝てないでしょ? 人は眠らなくちゃ駄目な生き物なんだから」


「そうだけど……」


「じゃあ、一緒に寝る? 1人で眠れないなら私が隣で寝てあげようか?」


 宵の発言に鍾桂は目を見開き顔を真っ赤にした。虚ろだった目は一瞬で爛々と輝き始めた。


「な!? そんな、一緒に寝るとか駄目だろ! 俺の理性が保たれない」


「理性がね……」


 宵はニンマリと笑った。


「じゃあ、軍令です。私を最高の力を発揮して護衛できるように、しっかりと睡眠をとりなさい。従わなければ棒叩きにします」


「わ、分かったよ。軍師殿」


 渋々といった感じで鍾桂は腰を上げると部屋を出て行った。



 ***


 閻軍・景庸関けいようかん馬寧ばねい陳軫ちんしん軍~


 景庸関の内側の帷幕に馬寧と陳軫はいた。


「ついに俺達のもとへも朧軍が来たか」


 白髪混じりの馬寧が溜息をついて言った。


「何故溜息などつくのだ? 馬寧将軍。我々は費叡ひえい将軍の直属の胡翻こほんの軍。他の州の閻軍とは鍛え方が違う。姜美きょうめいの青二才に負けてられんぞ」


 同じく白髪混じりの髪の陳軫が言った。馬寧も陳軫も還暦を超えている。若い頃に軍に入り、真っ当な軍人として生きて来た、まさに模範の軍人である。同じ軍で育った姜美は2人を師として仰ぐ程だった。


「戦わずして終わるものならどれ程良いか」


 弱音とも取れる馬寧の言葉を聞いた陳軫は鼻で笑った。


「年老いたな、馬寧将軍。いいか? 我々軍人は、勝てば祖国を救った英雄。負けて死んでも英雄となれる。ただ老いぼれてくたばるより、軍人として生きた証を残そうではないか!」


 陳軫が力説すると、馬寧はクスリと笑った。


「貴公の心は若いな。だが、そのお陰で目が覚めたわ! 陳軫将軍とはもう長いが、今貴公がここに居てくれてこれ程までに良かったと思った事はない。危うく軍人としての矜恃を失うところだった」


「何、俺が居なくとも、馬寧将軍はご自身で立ち直っていたさ」


「買い被り過ぎだ。さて、敵は無名の将軍2名。数は4万。兵力はこちらの倍。どうしたものか」


 丁度そこへ、伝令の兵士が部屋へと飛び込んで来た。


「報告します!」


「どうした」


 陳軫が訊く。


「椻夏より、軍師殿のご命令をお持ち致しました!」


 報告を聞いた陳軫と馬寧はお互いニヤリと笑い顔を見合せた。




 ***


 それは広い李聞の屋敷の屋根の上。

 夜陰に乗じて忍び込んだ2人の男が息を潜め、片膝立ちで屋根の下の様子を窺っていた。

 牛朗ぎゅうろうが死んでから3日。軍師の3人が街に出て来なくなったので、しばらく李聞の屋敷を張っていたが、遂に2人は動いたのだ。


「結局、人員の補充はなかったな、魏昂ぎこう


「いや、椻夏には斬血はあと3人いた。序列的にはお前と同じくらいの殺し屋だ、林定りんてい


「そうなのか? では何故俺達に合流しない?」


 不思議そうに、林定は訊いた。


「始末されたな。誰にかは分からんが、全く痕跡を残さず殺したとなると、相当な手練だ。まるで俺達と同じ・・・・・仕事ぶりだ」


「まさか、史登が?」


「いや、流石に奴1人では無理だろう。光世の護衛もしながら街中に散らばった斬血を始末できるものか」


「では……史登と同じく、元斬血の裏切り者が?」


「その可能性は高い。史登のように斬血になれなかった落ちこぼれは何人かいた。名前も顔もほとんど覚えていないがな」


 林定は訝しげに魏昂の傷だらけの強面を見る。


「だが、落ちこぼれに何故、俺達のような選ばれし斬血の手の者が殺せる? 大した能力がないから斬血を追い出されたのだろ?」


「『能力がなかった』わけではない。『適性がなかった』のだ。『人を殺す適性』がな」


「適性か」


 林定は短い顎髭を指先で擦る。


「事実として、斬血の落ちこぼれから将軍にまで上り詰めた奴が1人いた。まぁ、そいつはもう死んだがな」


「そうか。とにかく、あまり状況が良くない事は分かった」


 もう期待しても応援は来ないのだと知った林定は、キッパリと割り切ったように言った。


「そう悲観するな、林定。牛朗は光世に嵌められたから死んだ。だが、俺達はそうはならん。もう替え玉などには引っ掛からんからな。まずは手筈通り、お前が先に仕事をしろ。恐らく、史登や徐檣は異変にすぐに気付き、お前を殺しに掛かるだろう。その混乱に乗じて俺が軍師のガキ共を殺す。いいな?」


「大丈夫だ。作戦は頭に入っている。できるだけ、邪魔者は始末しておく」


「いいぞ、林定。では……行け!」


 魏昂の命令に無言で頷くと、林定は音もなく屋根から飛び降りた。

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