第153話 光世 対 斬血 ②

「よくあの茶色髪の娘の策を許可したな、李聞りぶん将軍」


 椻夏太守えんかたいしゅ王礼おうれいは、現況報告をさせる為に部屋に呼び出した李聞にそう言った。


「それは私とて同じ想いです。まさか、王将軍が光世の策を呑み、徐檣じょしょうに罪を償う機会を与えるとは」


 直立したままの李聞が言うと、王礼は目の前の机に出されていた湯呑みをその皺だらけの手で取って一口飲んだ。


「儂自身驚いた。だが、若いあの娘達の熱意には適わなかった。それに、暗殺者にいつ襲われるか分からぬ中では、軍務にも影響が出てしまう」


「同感です。ですが、王将軍に街と屋敷の警備を強化して頂いたので、きっと光世の策は上手くいくでしょう。軍師達は3人とも必ずこの試練を乗り越えてくれます」


「ああ。李聞将軍は引き続き、斬血について調査を頼むぞ」


「御意!」


 李聞は拝礼すると、王礼の部屋を後にした。



 ♢


 街中には椻夏の兵士の警備が増えた。

 昨夜宵と桜史を連れて3人で直談判した成果である。

 と言っても、光世の策には街の警備の強化は入っていない。だが、警備が増えてくれた事で光世の策に支障はないし、むしろ成功率も上がる可能性がある。

 宵と桜史が泊まる李聞の屋敷に護衛が増えた事は有難い事だ。ただ、それでも、斬血という暗殺部隊の力が未知数故に不安は尽きない。


 光世はいつも通り、史登しとうと他2人の護衛を連れ、徐檣のいる監獄へと向かった。護衛を増やさないのは、斬血の襲撃を誘う為だ。それも光世の策略の1つ。ただ、万が一に備え、光世自身も完全防備をしている。

 黒い閻服えんふくの下には、閻軍や朧軍が纏う『筒袖鎧とうしゅうがい』という袖付きの鎧に、下は腿裙たいくんというスカート状の鎧を着込んだ。筒袖鎧は、三国時代の主要な鎧で、魚鱗甲ぎょりんこうという鱗状の子札を革紐で隙間なく繋ぎ合わせ、袖と一体化させる事で、武器を振る際に出来る脇の隙間をも埋めた防御力の高い鎧である。勿論、史登などが着ている鎧も筒袖鎧である。

 そして、頭には涼帽りょうぼうという鉄製の麦わら帽子のようなツバの大きい帽子を被っている。

 これで万が一、また何処からともなく矢が飛んで来て当たったとしても、光世の身体に突き刺さる確率は大幅に減る。


「光世先生、大丈夫ですか?」


 汗だくで歩くペースの遅い光世を気にかけて史登が声を掛けた。


「この鎧重いからさ、めちゃくちゃしんどいのよ。おまけに今日は日差しが強くて暑いし……上脱いじゃおうかな……」


 苦笑しながら光世は閻服の衿元をパタパタと手で引っ張って扇ぐ。


「もう少しなので頑張ってください……あ! しばしお待ちを」


 警戒をしながらも、史登はそう言ってすぐ隣にあった露店の店主に銭を渡すと、すぐに何かを受け取り、それを光世に差し出した。


「扇子です。こちらで少しでも涼めれば良いのですが」


「あ……ありがとう、史登君。えっと……お金……」


 光世が懐に手を入れ財布を探そうとすると、史登はそれを手で制した。


「いいですよ、ここは僕に出させてください。それより、早く監獄へ向かいましょう」


「それじゃあ悪いよ……あ、じゃあ、後でご褒美あげるね」


 光世は微笑む。


「べ、別に、何も見返りは求めていませんので。さ、急ぎましょう」


 史登は何かを察したかのように顔を赤らめたかと思うと、そそくさと先頭を歩いて行った。

 光世は史登に貰った朱色の扇子を開くと、パタパタと顔を扇ぎながら史登の後に続いた。



 ***


 牛朗ぎゅうろうは、民家の屋根の上に身を潜め、大通りを監獄へと向かう光世達を監視していた。


 この日も光世は李聞の屋敷から徐檣の収監されている監獄へと向かった。護衛もいつもと同じ。いつもと違うのは、光世自身が涼帽を被り防備を固めているという事だ。一度、牛朗自身が光世の暗殺に失敗したからだろう。街の衛兵の数も明らかに増えた。

 今まで暗殺を失敗した事がなかった牛朗にとって、初めての失敗は非常に屈辱的だった。全ては光世の護衛についている1人の若い兵士のせいだ。あの男の動きだけは他の兵士とは明らかに違った。暗殺者の行動や心理を読み、こちらが放った矢を咄嗟に回収し、その矢の形状や付着物から暗殺者を特定しようとした。どう考えてもただの新兵ではない。暗殺を学んだ者の動きだ。だとすると、奴は何者なのか。閻にも斬血のような組織があるというのか。


 牛朗は左手で短弓を握り締め、少しでも隙を見せる瞬間を待つ。光世を殺すには護衛の若い兵士が邪魔だ。今度は初めから若い兵士を狙い仕留めたところで光世を狙う。それでこの仕事は終わりだ。



 ♢


 半刻 (1時間)程で光世達は監獄から出て来た。また李聞の屋敷へ戻るのだろう。

 牛朗は弓に矢を番えた。

 日は高く昇り、汗を吹き出させる。

 汗を拭いながら、牛朗が光世達を観察していると、大通りを途中まで歩いていた光世は突然道にしゃがみ込んだ。先程護衛に買ってもらっていた朱色の扇子で顔を扇いでいる。どうやらあまりの暑さに音を上げて駄々をこねているのだろう。頭がキレても所詮は青二才。護衛も若い兵士以外は大した事はない。簡単な仕事の筈。何日も時間を費やすものではない。魏昂ぎこう林定りんていよりも早く仕事を片付けたい。

 牛朗が光世の様子を窺っていると、光世は護衛達に誘導され日陰である路地裏に入って行った。

 一度路地裏で襲撃を受けた故に、二度と入る事はないと思っていたが、暑さに耐えかねて殺しやすい人通りの少ない路地裏に入るとは愚の骨頂である。黒い閻服では熱を吸収し体温も上がるだろう。それに、その閻服の下には、暗殺を恐れて鎧を着込んでいるのだろうからその蒸し暑さは容易に想像がつく。

 だが、牛朗にとっては好都合。今日で仕事は終わる。

 牛朗は弓を構え弦を引き絞った。

 路地裏にはいつもより人は少なく、奇跡的に光世達の周りには誰1人いない。

 光世は路地裏の建物の壁に寄り掛かって扇子で顔を扇いでいる。完全に無防備だ。

 だが、まず牛朗が狙うのは護衛の若い兵士の方だ。


「邪魔なガキめ。消えろ」


 呟いた牛朗の弦が弾かれると、毒の滴る矢は風を斬り裂いて真っ直ぐに若い兵士の首に空いた僅かな隙間へと向かう。


 ──やった!


 ……と、思ったその瞬間。若い兵士は咄嗟に伏せて矢を躱した。

 信じられない。完全に死角から狙った矢だというのに、それを躱すとは。

 牛朗は短弓を屋根の上に捨てると、腰に佩いた刀を引き抜いた。そして、屋根から飛び降り、伏せたままの若い兵士へと飛び掛かる。

 だが、若い兵士は地面を転がり、牛朗の刺突を避けた。


「馬鹿め! 守るべき者から離れるとは!」


 若い兵士は自分の身を守る為に光世から少しだけ距離を開けてしまった。牛朗と光世の間には誰もいない。その距離僅かに5尺 (約120cm)。他の護衛の兵士は光世の後ろにおり、牛朗の振りかざした刃を止めるには間に合わない。


「その首貰ったぞ! 光世!」


 か弱い女軍師である光世には、斬血の洗練された刃の太刀筋を止める術はない──筈だったのだが、牛朗の太刀筋は止められた。一体何に? 若い兵士も他の護衛も光世からは離れている。驚いて自分の右腕を見ると、それを掴んでいるのは光世自身の細い腕だった。しかも左手だ。


 ──有り得ない。光世はただの女軍師──


 理解の追い付かない牛朗はとにかく光世から一度離れようと上段の蹴りを放つ──が、それさえも光世は難なくしゃがんで躱してしまう。その間も掴んだ右腕を放す事はない。


 ──おかしい、この女の髪色と顔は見紛う筈のない──


 すると、光世は口元だけニヤリと笑って見せた。と同時に左手で涼帽を脱ぎ捨てる。涼帽と共に茶色い髪がヒラリと舞ったように見えた。それで牛朗はようやく確信した。

 黒い長い髪が目の前で靡く。顔は変わらない。そうだ、この女は光世ではない。徐檣じょしょうだ。

 牛朗の右腕は今も尚、徐檣の信じられない程の怪力で握り締められ全く逃れられない。


「ぬぁぁぁあああ!!!」


 腕が握力のみで折られるのではないかという程の激痛。骨が軋んでいる。牛朗はもう片方の手で徐檣の目玉へと2本の指を突き出す──が、また徐檣は身を屈め目潰しを躱すと、牛朗の腹へと渾身の右手の拳を叩き込んだ。

 その衝撃で牛朗は右手の刀を放してしまった。だが、すぐに左手で落とした刀を拾うと、徐檣の左手を狙い下から斬り上げる。


「放せ!! クソアマぁぁあ!!!」


 徐檣は危険を感じたのかようやく牛朗の右腕を放した。その腕にほとんど感覚はない。口からは血が零れている。先程の徐檣の拳で内臓をやられたようだ。


「次はないぞ!!」


 そう吐き捨てるように言うと、一度撤退を決めた牛朗は路地裏を突き進み逃走した──つもりだったが、突然、背中に重力を感じ、そのまま視界は地面を捉える。身体が傾いている。地面に顔を打ち付けてようやく気付いた。背中を踏み倒された。信じられない。自分に追い付ける筈がない。

 だが、考えると同時に、牛朗はすぐに次の手に移る。感覚のある左手で、懐から小刀を取り出し、背中を踏み付けている者の脚を斬り裂く。手応えはない。上手く足を引いて躱したか。だが、それで背中に乗っていた脚が浮いたので、牛朗は身体を横に転がしすぐに立ち上がり、自分を蹴り倒した者と対峙する。


「しつこいな、徐檣」


 やはり牛朗を蹴り倒したのは徐檣だった。

 他の護衛は皆、牛朗から充分に距離を取っている。

 徐檣に牛朗を始末させるつもりなのだろう。徐檣はいつの間にか手に持っていた剣を牛朗へと向けた。何故かその剣からは血が滴り、地面にポタポタと落ちている。誰の血だ?


「降参すれば命だけは助けてあげる。逆らえば左手も・・・なくなるよ?」


「左手も?」


 そう言われて牛朗は自分の感覚のない右腕を見た。


「……!?」


 そこにある筈の腕はなく、ボタボタと真っ赤な血が溢れ出ていた。右腕は徐檣の足もとに転がっている。

 先程倒されて立ち上がったあの瞬間に斬られたのか。いや、今はそんな事はもうどうでもいい。この状況では流石に徐檣には勝てない。逃げるか、自害か。選択肢は2択のみ。

 右手を押さえた牛朗は一瞬の逡巡でまた踵を返して走り出した。この深手で何処まで逃げ切れるか。

 先程まで感じなかった痛みが一気に身体を駆け巡る。


「絶対に逃がすな!! 史登!!!」


 徐檣の声。


 “史登”。

 その名は何処かで聞いた事がある。

 だが、思い出せない。


「ぐあっ……!!」


 両脚に激痛。同時に牛朗はまた前に倒れた。受け身も取れずに顔や身体を打ち付ける。

 もう身体が動かない。両脚の腱を斬られたか。

 逃げる事もできなくなった。

 誰かが顔の横に立った。そして、左手に握っていた小刀を蹴り飛ばし、その者はしゃがんで牛朗の顔を見た。


「貴様が……史登……」


「牛朗殿。暗殺は金登目きんとうもくの指示ですか?」


「何故俺の名を……」


 他の兵士が切断された右腕の止血を始める。どうやら生かして情報を得るつもりなのだろう。


「他に何人います?」


「これが、光世という軍師の策だったのだな。まんまと……嵌められた。はははは……!」


「答えてください!」


「……」


 牛朗は荒い呼吸を繰り返しながら、それからは一言も話さなかった。



 ♢


 街の中で警備の兵士達に囲まれながら、黄色い閻服を着た光世は、徐檣や史登達が無事に戻って来るのを待った。

 先程兵士達が何人も路地裏に駆け込んで行ったので、どうやら光世の替え玉作戦は成功したようだ。心配なのは、徐檣や史登達の安否、そして、斬血の暗殺者が生きたまま捕まったかという事。

 暗殺者から情報を聞き出せればいいのだが。


 不安そうに光世が路地裏の入口の方を眺めていると、1人の兵士が駆け足で戻って来た。


「光世先生、どうやら暗殺者含め、全員無事のようです。我が軍に奇跡的に負傷者はいません」


「そう、良かった……」


 光世は安堵して胸をなで下ろした──が、その時。

 路地裏が急に騒然とし始めた。


 何が起きたのか。

 ほっとしていた光世だったが、再び不安と恐怖に駆られ、ただ、路地裏の入口の方で慌ただしく動き回る兵士達の様子を見つめる事しかできなかった。

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