第151話 陣中の男女

 朧軍の侵攻が発覚すると、すぐに宵は桜史おうし鍾桂しょうけいを連れて李聞りぶんのもとへ向かい軍議を行なった。

 光世は監獄から戻って来ていなかったので、光世抜きでの軍議となった。

 参加したのは宵も馴染みのある面々。

 将軍の李聞を初め、校尉の張雄ちょうゆう楽衛がくえい成虎せいこ龐勝ほうしょう、軍監の許瞻きょせん。そして、初対面である椻夏えんか太守の王礼おうれいを合わせた合計10名だ。


 軍議は滞りなく進んだ。手馴れたように李聞が仕切り、楽衛に状況を報告させる。

 報告によると、金登目きんとうもく全耀ぜんようはそれぞれ3万の兵を率いて昨日烏黒うこく城を出たという。烏黒周辺の水は完全に引き、多少地面はぬかるんではいるが行軍は可能。通常であれば烏黒から椻夏までは歩兵の進軍速度でも3日足らずで到着する。しかし、ぬかるみの影響で行軍は遅く、通常の倍は掛かる見通しだ。

 さらに、椻夏周辺はまだ水が完全に引いていないので、例え朧軍が椻夏まで到達したところで、舟がなければそれ以上進む事はできない。

 斥候の報告によれば進軍中の軍は歩兵と騎兵のみで舟はないという。代わりに衝車や雲梯、発石車等の攻城兵器を運搬しているらしい。しかしながら、攻城兵器が椻夏の城壁まで到達するのにはまだしばらく時間が掛かるだろう。行軍も遅々として進まず、椻夏周辺の水が引かない事には宝の持ち腐れである。


 また、威峰山いほうざんへは尉遅毅うっちきが3万の兵を率いて動いているという情報もあった。こちらの方が攻城兵器を運んでいない分、到着は早いだろうが、それでも威峰山の周りの水が引くまでは猶予がある。


 まだ他の情報はない為、一旦は状況の確認だけで軍議は終えた。

 椻夏全軍は念の為すぐに戦えるように馬や武具の点検が行われた。


 ♢


 空に星々が輝き始めた頃、軍議を終えた宵は鍾桂と桜史と共に李聞の屋敷に戻って来た。桜史と別れ、宵は鍾桂と李聞に借りている自室に戻った。


 光世が監獄から戻って来たのはその頃だった。


「ただいま、何だか皆慌ただしいけど、何かあった?」


 元気がなさそうな様子で光世は宵の部屋に顔を出した。


「お帰り、光世。さっきね、朧軍が動き出したって報告があってね……」


 外出していた光世の為に、宵は軍議で共有された内容を光世に伝えた。


「そっか。もう朧軍は椻夏と威峰山を狙って……」


「うん。でも、水が引ききらない内は朧軍も近づく事ができないから、もう少し猶予はある。その間に私は策を考えるよ。光世は気にしなくていいからね? 光世には董炎とうえん失脚の策を進めてもらわなきゃだから」


「うん……」


「どうしたの? 元気ないみたいだけど。もしかして、徐檣と何かあった?」


「え? いや、何にも? むしろ説得して帰って来たんだよ。もう鍾桂君、徐檣じょしょうには構わなくて大丈夫」


「本当? さすがは光世だぜ! あの徐檣を説得するなんて!」


 光世の功績に敬服した様子で鍾桂は拱手した。


「まあね。それじゃあ、今日はもう部屋で休むね」


 そう言って光世はそそくさと自分の部屋へと戻ってしまった。



「相当苦労したみたいだな、光世。でも徐檣が1人でも大丈夫になったなら良かった。これからは宵の副官として忙しくなるから徐檣の事どうしようかと思ってたんだよ」


「うん……」


「どうした? 宵」


 鍾桂に顔を覗かれ、宵はふるふると首を横に振る。


「ううん、何でもない。鍾桂君も今日は休んで」


「いや、俺は兵舎に行って武具の点検とか手伝ってくるわ。副官と言えど兵士だしな」


 鍾桂はハハハと笑い戸に手を掛けた。


「うん。分かった。無理しないでね」


 宵は微笑んで小さく手を振ると、鍾桂も手を振り返し、そして部屋を後にした。


 1人になった部屋で、宵は手に持った白い羽扇を撫でた。宵には分かっていた。光世が徐檣と何かあったのだと言う事を。だが、光世はおそらく、宵に心配をかけないようにと何も言わなかったのだろう。

 宵は目を瞑り、羽扇を薄い胸に当てた。そして深呼吸。


「よし」


 冷静に考えをまとめた。

 今はそっとしておこう。もし光世が明日になっても様子がおかしければ声を掛けよう。

 そう決断した宵は、机の前に正座すると、葛州かっしゅう洪州こうしゅうの地図を机に広げた。

 そして、同じく机の上にあった碁笥ごけから黒と白の碁石を1つずつ、地図の上に並べていく。

 今の自分の仕事は葛州の防衛。椻夏の兵力は4万6千足らず。対する朧軍は金登目の3万と全耀3万の計6万。兵力ではこちらが劣る。だが、兵力の差を兵法で埋めるのが軍師の仕事。

 その日は深夜まで宵の部屋の灯りは消える事はなかった。


 ♢


 翌朝。

 宵のもとに鍾桂から朧軍の進軍状況について報告があった。やはりその行軍は遅く、通常の倍以上の時間を掛けているという。


「宵、何で朧軍は足場の悪い状況でも進軍を決行したんだろう? 絶対地盤が固まってから進軍した方がいいのに。どの道、椻夏までは一気に攻められないじゃないか」


 鎧兜を纏った鍾桂は、宵の部屋で私見を述べた。


「多分私達に圧力をかける為だね。いつでも迅速に動けるというのを見せ付けておく事で、私達を常に緊張状態にして休ませない。心理戦じゃないかな。それ以外に利はないと思うし」


「そうか。確かに、朧軍が進軍して来ていると聞いたら、こちらも防衛に動かなければならない。お陰で昨日はあまり寝れなかった。俺達を徐々に疲れさせる。これが狙いか」


「でも、逆に考えたら、こちらは事前に充分な備えができるんだから。敵の策を利用させてもらいましょう。午後にまた軍議があるから、そこで昨日考えた策を提案するよ」


 羽扇で顔を扇ぎ、余裕を持って宵は答えた。

 その様子に鍾桂も安心したようで表情を和らげた。


「さすがは宵。もう次の策を考えてたとは」


「まあね」


「そう言えば、今朝から桜史殿が兵の調練を視察に向かったみたいだけど」


「ああ、私がお願いしたの。兵に桜史殿が知りうる限り最強な戦術、戦法を教えておいてって。基本は籠城戦のつもりだけど、白兵戦もできるように鍛えておかないと、いざという時に困るからね。『の来たらざるをたのむ無かれ、われもって待つ有るをたのむなり』だよ? 覚えといてね」


「平時の備えは重要って事か。分かった。桜史殿も、宵と同じくらい兵法に長けてるんだっけ?」


「そう。私が同じ同級生で1番信用してる男の人。もちろん、女の人だったら光世が1番」


「そっか。……桜史殿、凄くその……男前な顔だけど、宵はああいう顔が好みだったりするの?」


「何で?」


 鍾桂の質問の意図が分かっているくせに、少しからかいたくなった宵は敢えて鍾桂に質問の意図を訊ねてみる。

 すると鍾桂は宵から目を逸らし、恥ずかしそうに頬をポリポリと掻いた。


「あんな整った顔が宵の好みだったら、俺、とても適わないなぁと思って……」


「大丈夫だよ。鍾桂君には鍾桂君のいい所があるから。顔なんか気にしないで。……てかさ、私の事、諦めるって言ってなかったっけ?」


「あ、ああ、そうだよ。別に、俺は宵が桜史殿の事好きでも構わないし、どんなに仲良くても何ら問題ない。むしろ2人が幸せなら……俺はそれで満足だ。宵と桜史殿は同じ世界の人間だし、結ばれる事だって許される」


 作り笑いを浮かべながらも悲しそうに言う鍾桂に、宵は急にからかってしまった事に罪悪感を抱いた。


「あ、ごめん。違うの、鍾桂君。そんなつもりで言ったんじゃ……」


「何で謝るんだよ。宵は元の世界に戻る。そして、向こうで幸せになる。そうだろ? 幸せになるのは、ここでじゃないんだ。俺の方こそ、煮え切らない事言って悪かったよ」


 鍾桂の言う事は正しい。宵はこの世界の人間ではない。故に、いつかは帰らなくてはならない。元の世界で心配して待っていてくれる人がいる。例え元の世界が過酷な世界であったとしても、そこが宵の居るべき世界なのだ。鍾桂とここで一緒になる事はできない。

 ただ、仮に、ここに残る事が許されるのなら、宵は鍾桂と一緒になる選択をするだろうか。


「いずれにせよ、俺は宵の副官になれて良かったよ。この軍にいる間はキミの事を守れる。あとどれ位一緒にいれるか分からないし……俺がキミと結ばるれる事はないけど、俺は宵の事が好きだ。その気持ちは変わらない」


 そう言うと、鍾桂は拝礼して部屋を出て行った。

 部屋に1人になった宵は溜息をついた。

 こんなに男の人に愛された事は未だかつてない。そして、今はっきりと分かった。宵も鍾桂の事が好きだった。だが、互いにその気持ちが愛に発展しないように押さえ付けている。どちらかが欲望を解放したらその瞬間に2人は結ばれるだろう。だが、そうなると宵が元の世界に帰る時に辛くなる。帰るという選択をしないかもしれない。

 どうするべきか考えたが、答えを出すのが怖かった。

 今は考えたくない。恋に現を抜かし、国家の大事を疎かにするなどあってはいけない。閻の筆頭軍師として、閻の民の命も背負っているのだ。

 宵は席に着くと、また碁石の並べてある地図を睨んだ。

 威峰山の方は楊良ようりょうに任せていい。自分は椻夏防衛に専念する。それが今やるべき事だ。


 ♢


「これでよし。この書簡を大至急、秦安しんあん清華せいかへ届けてください。絶対に人に見られてはいけませんよ」


 光世は董炎失脚計略の内容を書いた絹の切れ端を小さな巾着袋に入れ紐で結ぶと、斥候の兵士に託した。

 兵士はすぐに部屋を出て行った。

 計略の概要は李聞と姜美に報せた上で黙認されている。費叡ひえいなどの立場が上の将軍らには計略の事を伝えてはいない。知れば必ず止められる。最悪、光世達計略立案者の命まで危険に晒される事になりかねない。

 だが、朝廷直属の1人の将軍に関しては計略を打ち明けるつもりである。その者の力がどうしても必要となるからだ。


 光世は伸びをすると寝台にうつ伏せに倒れ込んだ。

 頭を極限まで使った事と、徐檣の事で心労から来る身体の疲れが限界に達している。

 光世は椻夏防衛の軍議には参加しなくていい事になっているのでその点は助かるが、それを差し引いたとしても光世にはもう他の事に気を回す元気は残っていなかった。


史登しとう君、ちょっと背中揉んでくれる?」


「え? あ、はい」


 部屋の外には常に史登が待機している。呼べばすぐに光世の身の回りの世話を任せられる、いわば下男的な事もしてもらっている。

 光世は宵のように1人では身の回りの事ができないというわけではないので、必須な役目ではない。しかし、四六時中護衛してもらえるという事でそばに置く事にした史登という青年兵を、光世は気に入って事ある毎に呼ぶようになった。

 そして、ついには身体を触る事さえも許した。勿論、服の上からではあるし、胸や尻を触らせるわけではないが。


 史登は光世の指示に戸惑いながらも寝台のそばまで来ると、光世の顔を覗き込んだ。


「ほ、本当にいいんですか? か、身体に触る事になりますが……」


「構わん構わん。早くやりたまえ」


 光世が優しく微笑みながらそう言うと、史登は兜を脱いで机の上に置いた。

 そして覚悟を決めたように横から光世の背中に触った。そして、ぎこちない手付きでマッサージを始める。


「ど、どうでしょう? 光世先生。こんな事初めてなので……加減が分かりませんが」


「うん、悪くないよ。初めてにしては上手かな」


「それは良かったです」


 ぎこちない手付きが逆に心地よい。光世は目を閉じた。初めは史登を他の男の兵士達と同じで欲情するケダモノと見て警戒していたが、そんな事はなかった。桜史もそうだ。常に戦場と隣り合わせの極限状態でも、いつもと変わらず紳士に接してくれる。男が全員女の身体に飢えているものではないという事を、史登と桜史は教えてくれた。だから光世もこうして安心して背中をさらけ出せる。


「史登君。私、徐檣に何かしてあげられる事はないかな?」


 目を瞑ったまま、光世は訊ねた。


「僕はあの女に関わるべきではないと思います」


「え?」


 予想外の史登の返答に光世は思わず目を開けた。


「まず1つ。あの女は罪人です。姜美将軍が庇って命だけは救われましたが、本来なら首を刎ねられていたのです。関わっても厄介事が増えるだけです。光世先生には他にやるべき事があるのですから、余計な事は考えないでください」


「それは……」


「もう1つ。外を出歩くのは危険です。昨日街で会った青い手拭いの男。僕はあの男は只者ではないと思いました。奴の瞳の奥は暗く濁っていました。あれは何人もの人を殺めてきた男のです」


「え?」


 真剣に語る史登に、光世は鼻で笑いながら聞き返した。16歳の青年新兵が、そんな事分かるはずがないと思ったからだ。


「あの男は光世先生に接触しに来たんだと思います。おそらく、朧軍の暗殺者」


「分かった分かった。もういいよ」


「待ってください、話はまだ終わってません」


「史登君は私と徐檣をもう会わせたくないんでしょ?」


「本音はそうですが、光世先生がどうしても、と言うなら、僕は何でもします」


「史登君……」


 真剣な目付きで光世の目を見る史登。未熟な青年にしか見えないのだが、その内には何か別のものが宿っているような気もする。ならば、暗殺者の話は本当なのだろうか。


「分かった。それじゃあさ、私に策があるの。私が徐檣を周りから何の反感も受けずに助け出す策。ちょっとだけ危険かもしれないけど、史登君、協力してくれる?」


「光世先生の頼みならば」


「そ、良かった。あ! そうだ、丁度いいからこれ、御守り作ったからさ、持っててよ。我が国に伝わる弾除けの御守り」


 光世は懐から小さな白い絹製の御守りを取り出すと史登に手渡した。


「え? 光世先生が、僕の為に? お忙しいのに……ありがとうございます!」


「いいんだよ、別に。宵と違って私は器用だからね。それくらいなら一瞬よ」


「光世先生……」


「あ、中身は見ちゃ駄目だよ? 効力なくなっちゃうから」


「はい! 分かりました! 大切にします!」


 史登は嬉しそうに屈託のない笑顔を浮かべると、御守りを懐に仕舞い、ポンポンと胸を叩いた。


 光世が過去に手作りの御守りをあげた男はいない。そもそも、男との交際経験がない光世にとって、男に何かをあげたのは初めての事だ。

 これは恋愛感情ではない。光世はしっかりと線引きをしていた。


「よし、じゃあ、もう少し凝りを解してもらおうかな。脚の方もお願いしていい?」


「あ、脚もですか!? いいんですか!?」


「許可する」


 また目を瞑ると光世は史登に全てを委ねた。


「で、では、触ります」


 わざわざ申告して史登が真っ先に触れたのは光世の太もも。布越しとは言え、男に触られるのは初めての経験だ。


「ふふ」


「やっぱりそこが触りたかったか」と鼻で笑いながら、光世は心地良さに次第に微睡みに落ちていった。

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