第149話 光世と徐檣

 李聞りぶんの屋敷の下男の案内のもと、椻夏えんか城内を護衛兵を引き連れた男女の集団が徐檣じょしょうのいる監獄へと向かう。


 城内の街は大勢の人々が行き交っている。朧軍を退ける事ができた為、人々はほんのひと時、緊張の糸を切る時間を得た。街には笑い声も聞こえるくらいに活気が戻っている。

 だが、また朧軍が軍を椻夏に向ければその笑い声も聞く事はできなくなるだろう。椻夏は葛州かっしゅう防衛の要衝。朧軍がまた葛州を狙うのなら必ず椻夏はまた攻撃の対象になるのだから。


 街の人々同様、緊張の糸を切ってる者はここにもいた。

 鼻歌混じりに護衛兵の前を堂々と歩く黒髪ボブの上に綸巾かんきんを乗せ、手には白い羽扇を持った筆頭軍師の女。瀬崎宵せざきよいだ。

 さぞ機嫌が良さそうに薄い胸を弾ませて集団の先頭の下男のすぐ後を歩いている。

 ただ、鼻歌と言っても、日本の女子大生が口ずさむようなJ-POPやアニソンのようなものとはだいぶ違う。


「酒にたいしてまさに歌ふべし、人生幾何いくばくぞ」


 それを聞いた光世は引きつった顔で隣を歩く桜史に耳打ちする。


「女子大生がさぁ、鼻歌感覚で曹操の『短歌行たんかこう』とか歌う?? 鍾桂しょうけい君に会えるからテンション上がってるのは分かるけどさぁ、渋過ぎるでしょ」


「まぁ、厳島いつくしまさんだって、その詩を聴いて短歌行だと分かるのも中々渋いと思うけどね」


「いや、三国志知ってれば短歌行くらい知ってるでしょ! 私は八門金鎖はちもんきんさの陣を実際に敷いた女よ?」


「だから、それが渋いって言ってんの。どこの女子大生が八門金鎖の陣を敷くんだよ。瀬崎さんの事、とやかく言えないよ、厳島さんには」


「桜史殿って、ほんと宵の肩ばっかり持つよね〜」


 不満そうに腕を組んで光世は言う。


「別に、肩を持ったわけじゃないから」


 そう言って桜史はそっぽを向いた。


たとへば朝露あさつゆの如し。去る日ははなただ多し。がいしてまさもっこうすべし。幽思ゆうし忘れ難し。何をもってか憂ひを解かむ。杜康とこう有るのみ 」


 つらつらと宵は短歌行を暗唱していく。宵の漢文の暗唱能力というものには目を見張るものがある。孫子を初めとした『武経七書』はもちろん、その他古代中国の兵法書はほとんど頭に入っていると言っても過言ではない。まさに、生粋の兵法オタク女子なのだ。


 光世も桜史も、周りの下男や兵士達さえ、一言一句詰まらずに吟じる美しい宵の声に、いつしか夢中で聴き入っていた。


 ♢


 宵一行は街の監獄に辿り着いた。

 さすがに大都市の椻夏。巨大な監獄には、大勢の看守が配備されている。

 看守に事情を話すと、簡単に中に入る事ができた。閻軍の軍師という肩書きは相当強いようだ。


 中に入ると、看守に案内され、地下牢へと下りた。

 通路の木製の格子戸の鍵を開け、さらにその先に進む。すると、通路の途中に座り込み、壁に寄り掛かっている人影があった。

 宵はその姿を見て胸を高鳴らせる。


鍾桂しょうけい君!」


 その呼び掛けに、鍾桂は驚いたように立ち上がった。


「え!? 宵!? 何でここに!?」


「配属先が変わったんだ。光世もいるよ」


「え、光世……」


「光世!?」


 戸惑う鍾桂の背後の牢から、光世の名に異常なまでに食いつく女の声が聞こえた。

 不思議に思い、宵が鍾桂の横にある牢の前まで行くと、そこには長い黒髪に粗末な赤い襦裙じゅくんを着せられた女が、木枠の格子の隙間から目を見開いてこちらを見つめていた。

 その女の姿を見た宵は一瞬自分の目を疑う。

 髪色や髪の長さこそ違うが、その女の顔は、今まさに宵と共にここまで来た親友の厳島光世にそっくりだったのだ。

 宵はすぐに光世の方を顧みる。

 ──が、何故か光世も桜史も、少し離れた位置で立ち止まり牢の前に来ようとしない。


「貴女は光世じゃないわね。鍾桂がいつも話してた宵って軍師かしら?」


 格子の隙間から、怪訝な顔で徐檣は言った。


「あ、はい。宵です。貴女が徐檣じょしょう殿ですね? 鍾桂君がいつも私の事を?」


 隣であたふたしている鍾桂をチラリと見ながら、宵は頬笑みを浮かべ応じた。


「そう。貴女が軍で頑張ってるとか、頭がいいとかそんな話。どんな人かと思ったら、普通の女の子なのね。頭が良さそうには見えないわ。むしろ馬鹿っぽいしあざとそう。まあ、多少は可愛いかもしれないけど、胸がぺったんこなのは可哀想ね」


 突然の徐檣の毒舌に宵は心を砕かれ、何も言い返せずに鍾桂に寄り掛かり、その胸に顔を埋める。


「あ、よ、宵、今はマズイ……」


「コラ! 貧乳女! 鍾桂にくっ付くな!!」


 鍾桂の助言は間に合わず、徐檣は突然激昂して格子をガンガンと叩き、宵を怒鳴りつけた。

 その凶暴性に驚いた宵は、鍾桂にしがみ付き、その背後に隠れた。


「お前! 覚えてろよ! もし私がここらか出たら髪の毛掴んで引きずり回してその顔面、城壁に叩き付けてやるからな!」


 涙目の宵。何故これ程まで怒り狂うのか、その理由さえ分からない宵には、やはり反論などできない。


「やめろ、徐檣! 宵にそんな酷い事言うな! 宵が怖がってんだろ!」


「え……鍾桂……怒ってる?」


 急に大人しくなった徐檣は、恐る恐る鍾桂の顔色を窺う。


「怒ってる。宵は俺の友達だ。友達を悪く言ったり、危害を加える事は許さないよ」


「……でも、そいつ気に入らない」


「俺の友達を徐檣が気に入らないのは勝手だけど、気に入らないからって悪く言われると、宵も傷付くし、俺も傷付く」


「鍾桂も?」


「当たり前だろ。考えてみろよ。宵が徐檣の悪口を言ってたら、俺はどんな気持ちになると思う?」


「……嫌な気持ちに……なる?」


「そうだよ。それが友達ってやつだ」


「ごめんなさい。鍾桂が嫌な気持ちになるのなら謝る。宵ごめんね」


 凶暴だった徐檣は、鍾桂の説教で素直に謝罪した。

 徐檣という女がどんな人生を歩んで来たか、宵は姜美からある程度事情を聞いて知っていたので、徐檣を嫌いになる事はなかった。


「う、うん。大丈夫。鍾桂君の友達なら私も貴女の友達になりたいな。徐檣って呼んでいい?」


「え? まあ……いいよ。同い年らしいし。好きに呼べば。どうせ私はここから出られないけどね」


 悲しそうに徐檣は俯いた。

 姜美の暗殺未遂の罪は本来死罪だが、姜美の温情で命だけは助けられている状態。その身が自由になる事はないだろう。


「それよりさ、光世がそこにいるんでしょ? 私光世と話したいの。呼んでよ」


「あ、うん。分かった。光世ー」


 徐檣の願いを聞き入れた宵が手招きして光世を呼ぶと、覚悟を決めたような表情で光世が桜史と共に歩いて来た。


 そして、瓜二つの光世と徐檣は出会った。


 互いの顔を見た2人は、言葉を失った。

 宵と鍾桂、そして桜史も、木の格子を隔て向かい合った光世と徐檣を見比べて、改めてその酷似した姿に驚愕する。

 真ん中分けの髪。輪郭、肌の色、目の大きさや形、鼻や唇の形、背丈や体型、胸や尻の大きさまでほとんど同じ。

 髪色と長さ、そして、その性格の違いから現れる表情。それが唯一2人を見分けるポイントになるだろう。徐檣の父親の徐畢が光世に特別な感情を抱くのも無理はない。


「自分で見ても……そっくり。いい女だね、光世」


「あ……ありがとう、徐檣」


 社交的な光世でさえ、自分と瓜二つの徐檣との会話はぎこちない。互いに苦笑いを浮かべている。


「あ、あのさ、徐檣──」


「光世、父上がお世話になりました」


「……え」


 言いかけた光世の言葉を徐檣が遮ってでも伝えたのは、驚く事に感謝の言葉だった。

 意外過ぎるその言葉に、一同は絶句する。


「姜美から聞いたよ。父上の死に様。敵である姜美を助けて、やがて閻に捕まるであろう貴女の事を任せた。ここまで私にそっくりじゃ、見殺しになんかできないよね。きっと、貴女と過ごした時間は楽しかったんじゃないか……。自分で言うのもアレだけど……父上、一人娘である私の事、大好きだったから……」


 声を震わせながら、徐檣は言った。

 大きな瞳に溜まった涙が、ポロポロと頬を伝い床に落ちていく。

 それを見て光世も口を開く。


「私、正直貴女に会うのが怖かった。私が付いていながら、死なせてしまったから……恨まれてるんじゃないかと思って……なのに……感謝されるなんて……」


 光世も堪えきれず、涙を流し嗚咽を漏らす。木の格子に両手と額を付けて、気持ちを抑えようとするが、溢れ出した感情はもう止められなかった。


「何で貴女が泣くのよ、光世。貴女を恨むわけないじゃない。私が恨んでたのは姜美だけ。その恨みも今はもうなくなったけど……」


「私もね、徐畢じょひつ将軍の事大好きだった。凄く優しくて、どこから来たのかも分からない私の事、本当に良くしてくれたの……」


「当たり前だよ……だって、私の父上なんだから」


 光世と徐檣は互いに格子の隙間から伸ばした手を握り合った。

 名将・徐畢が繋いだ時空を超えた2人の娘。初対面とは思えない程の絆が今ここで結ばれた。


 宵も鍾桂も桜史も目に涙を光らせ、しばらく2人を見守っていた。

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