第146話 董炎一家の悲劇

 朧国・都・棗昌そうしょう


 荘厳な佇まいの宮殿の一室で、朧王・朧秦ろうしんは玉座に座し、朧国宰相・呉植ごしょくが持って来た竹簡を読んでいた。

 目を瞑り、階下で朧秦が竹簡を読み終わるのを呉植は静かに待つ。

 すると、朧秦は視線を竹簡から呉植へと向けた。


周殷しゅういんが手こずるとは想定外だな。呉植よ。其方の話では、半月で閻は降伏するとの事だったが、今日でどれくらい経った?」


「もうじき二月ふたつきになります」


 頭を下げ拱手して呉植が答えると、朧秦は竹簡をギュッと握り締め、思い切り床に叩き付けた。

 呉植は頭を下げたまま足元に転がって来た竹簡を見た。


「閻は平和ボケしている弱小国家ではないのか!? こちらは陸秀りくしゅう徐畢じょひつを失ったぞ!? あの歴戦の勇将を2人も! これで閻を攻め落とさなければ、私は後世の笑いものだ! 」


「落ち着いてください、朧王。こちらには閻の民を救うという大義名分があります。よしんば負けても、我々は笑いものになどなりません」


 呉植の宥めようとする言葉には朧秦の怒りに油を注いだ。


「我々は勝つのだ! 負けても笑いものにならないからなんだ!? 我々は莫大な戦費と兵糧、兵達の命を費やしているのだぞ! 負けたらそれは全て無駄ではないか! 煉州の広大な田畑、塩田もまだ制圧していないと書いてあるぞ! 何をやっているのだ! 間抜けめ!!」


 朧秦は眉を吊り上げ、怒りの形相で机を叩き、呉植を怒鳴りつける。


「お怒りをお納めくださいませ、朧王。制圧はまだ完了しておりませんが、着実に我が軍は侵攻しております。現に洪州は完全に我々の手中。それに、腰抜けの閻軍はこちらの攻撃を阻むのに精一杯のようで、洪州を奪還しようとする気配すらありません。時は掛かりますが、必ずや吉報が届くかと」


「こちらはめいほうの国境の守備軍の一部まで動員して攻撃しているのだぞ! これ以上閻への侵攻には兵は送れん」


「仰る通りにございます」


周殷しゅういんの報告によれば、葛州かっしゅうの軍が手強く苦戦しているとあるな。何でも、兵法を熟知した軍師が複数名いるとか」


「はい、左様でございます」


 朧秦は僅かに思案すると、呉植に指をさす。


「周殷のもとには金登目きんとうもくがいるな?」


「如何にも」


「金登目の刺客を使って閻の軍師を暗殺しろ。恐らく、金登目自身もそれを提案しているだろうが、あの高潔な周殷の事だ。暗殺など許さぬと金登目の意見を退けるだろう。故に、朧王の命として周殷に命ずる。『金登目の刺客を使い、閻軍の軍師を暗殺しろ』とな」


「なるほど、そこまでお考えとは、誠に賢明なご判断でございます」


「分かったらさっさと伝令を送れ!」


「御意」


 朧秦の命令を聞き、速やかに呉植は退室して行った。

 朧秦は呉植が見えなくなっても眉を吊り上げたまま、下女に茶を命じた。



 ***


 閻帝国・麒麟砦きりんさい


 瀬崎宵は、久しぶりに麒麟砦の自室で琴を奏でていた。

 3人の再会をいつまでも喜んでいたいが、そうも言っていられない。明日の朝には椻夏えんかへ向けて出立しなければならないのだ。

 宵の荷物は麒麟砦に置いていたので、自分で荷物を纏めていたが、久しぶりに目にした琴を弾かずにはいられなかった。

 義姉・劉飛麗りゅうひれいに教わった琴。久しぶりに会って話がしたい。元の世界に戻る方法が分かった事を伝えたい。そんな事を考えながら、宵は琴の弦を細く綺麗な指先で丁寧に弾いていた。


 宵にはもう1つ考えるべき事があった。

 光世が清華せいかと共に密かに調べてくれた朝廷と董炎とうえんの情報と、そこから光世が立案してくれた董炎失脚の為の計略である。

 椻夏に到着してからじっくり考えようと思っていたが、思いのほか光世の考えは纏まっていた。それが実現可能なのか、可能だとしたらどうしたら誰がそれを実行するのか。細かいところまで検討できる段階になっていたので、宵はすでにその事を考え始めていた。


 光世が清華から受け取った話によると、清華が手に入れた情報の源は、大司農だいしのう董星とうせいという女だった。

 董星は董炎の三女だが、清華が閻側の間諜だと知ると、董炎と朝廷の事を包み隠さず教えてくれたと言う。

 何故実の娘が、父親を裏切るような事をしたのかと疑問に思ったが、それは話を聞いて納得した。



 ~~~


 董炎は、靂州れきしゅうの北、鄒許すうきょ県のとても貧しい農民の家に生まれた。

 毎日朝から晩まで先祖から受け継いだ田畑を耕し、米や野菜を作り、自給自足して暮らしていた。

 董炎の両親は早くに亡くなったが、董炎の妻・英蝶えいちょうと共に農作業に明け暮れ、貧しいながらも幸せな生活を送っていた。

 幸いな事に、息子を1人、娘を3人も授かった董炎は、生活費を稼ぐ為、子供達に農作業を手伝わせ、より多くの作物を収穫し、余った作物は市場で売って銭を得た。それでも、子供達が増えた事で生活は常にギリギリだった。


 そんなギリギリの生活を送る董炎一家に悲劇が襲う。

 蝗害こうがい旱害かんがいである。

 中国史でも度々起こる、イナゴの大量発生により農作物を食い荒らされる蝗害。日照りが続き、田畑が干からびてしまう旱害。その2つの自然災害が、何年も続くようになったのだ。

 そのせいで董炎の田畑は干からびて作物は作れない。作物が作れた年は大量のイナゴに食い荒らされ、やはり収穫はできない。故に、自給自足に頼っていた董炎一家は、毎日食べる物に苦労し、農家は廃業。その日の食事を何とか得る為、街の市場で金になりそうな仕事を探して何でもやった。

 もちろん、県には土地が干からびて作物が採れない現状を伝え救済を求めたが、どこも同じだと一蹴された。挙句、年貢だけは取り立てに来るので、董炎一家は家と土地を捨て、地方を放浪するほかなくなってしまった。


 そんな過酷な生活の中、人里離れた靂州れきしゅうの外れの天譴山てんけんざんに逃げ延びた董炎一家の前に、腹を空かせた山賊が現れた。

 子供4人を連れた董炎と英蝶を10人程の山賊が囲った。


「食い物を置いていけ」


 山賊の要求は金品ではなく、食い物だった。

 その時、金品は持っていなかったが、僅かな銭で買っておいた干し芋が家族の人数分あり、それらは全て妻の英蝶が持っていた。

 食べ物など持っていないと答えたが、食べ物がないなら何でもいいから置いていけと無茶な要求をしてくる。何度断っても山賊共は引かず、ついには、全員の身ぐるみを剥がしてまで持ち物を調べようとしてきた。そして、英蝶の持っていた6枚の干し芋が見付かってしまった。

 せめて子供達の分だけは盗らないで欲しいと懇願するが、山賊共に慈悲などない。抵抗する英蝶を何の躊躇いもなく刀で斬って捨てた。

 噴き出る真っ赤な血を見て、子供達は絶叫する。

 山賊共は血を噴き出す英蝶の身体から干し芋を全て奪うと、そのまま山の奥へと消えていった。

 英蝶は即死だった。

 目を見開いたまま、身体と口から血を流し絶命した母親の姿を見た幼い董星は、あまりの衝撃に気を失ってしまった。

 董星はしばらくして目を覚ましたが、母親を失ったショックで、綺麗な黒髪は真っ白に、そして、声を失った。


 董炎は大いに悲しんだ。妻の死も、董星の心の傷も。怒りの矛先は、民を苦しめるだけの国へと向けられた。

 それから董炎は、農業を復活させようとしていた、顧州こしゅう太守・辛譚しんたんに、取り入って、1年で必ず農地を復活させると約束し、顧州の役人として働かせてもらう事に成功。1年で農地が戻らなければ追放される重圧の中、董炎は見事に農地を復活させた。

 そして、そこから董炎は政治家としての頭角を表すようになり、次々と農地改革を推進していき、ついに中央に招聘され、朝廷の百官の仲間入りを果たした。


 だが、そこからが、董炎の復讐劇の始まりだった。

 董炎は、朝廷の百官達の腐敗を目の当たりにし、怒りの炎をさらに大きくした。

 未だ荒れ果てた地方の多くの農地を気にする事もなく、自身の出世の為の権力争いに心血を注いでいた。民が苦しんでいる現状を見る様子はない。各地では、飢餓に苦しむ民達が武器を取り賊徒と化して衙門がもんや村々を襲い始めている。それを鎮圧しようとする動きすらない。

 こんな腐れ儒者の役人しか中央にいないから政が腐るのだ。時の皇帝・儒帝の作った朝廷は完全に腐り切っていた。こんな屑共ならばいない方がマシ。

 そう考えた董炎は、頭の悪そうな役立たずの役人を次々に毒殺した。農業を得意とする董炎にとって、トリカブトを密かに栽培する事は容易い事だった。

 流石に全員をトリカブトで殺していては1人の犯行だと疑われ、直に董炎にも疑いの目が向けられてしまう。

 そこで董炎は、役人同士が権力争いの為に殺し合っているように見せ掛け、役人の1人の遺書を偽造。『出世の為に毒で役人達を殺したが、良心が咎めたので自分も同じ毒で死ぬ』。

 これで殆どの無能な役人達は、1人の役人に殺され、本人は自決した事になった。

 無論、出世に興味のない董炎が疑われる事はなかった。

 役人が大勢死んで抜けた穴には、自分の息子と娘、そして、地方軍の有力者、孫晃そんこうを推挙し、朝廷に参入させた。孫晃には、別の州で暮らしていた妹の董河とうかを嫁がせて確固たる繋がりを作り軍の実権を間接的に握る事に成功。そしてすぐに、天譴山てんけんざんへ軍を派遣して山賊の根城を焼き払い、そこにいた山賊を皆殺しにした。それと同時期に、各地の賊徒を討伐し、民の反乱は収束した。

 やがて、董炎の権力は朝廷で絶大になっていき、儒帝が没し、現皇帝の幼い蔡胤さいいんが即位すると、自身は宰相へと出世した。

 それから本格的に農地改革に乗り出した董炎は、今まで愛すべき家族を苦しめた飢饉に対処すべく、食糧の安定供給の制度を確立し、誰もが食に困らない国を作り上げたのだ。


 ~~~


 光世から董炎の過去を聞いた宵は同情の念を抱いた。

 絶対悪だと思っていた董炎が、まさか被害者であったとは、夢にも思わなかった。

 しかしながら、董炎の悪行は、朝廷に入った時から始まっていた。役に立たない役人の毒殺、その犯行を他の役人の仕業に仕立てあげる偽装行為。

 恐らくこの事は、身内しか知らないのだろう。でなければ、とっくに董炎は逮捕され首を刎ねられている筈だ。

 それを、娘の董星が閻の間諜である清華に話したのは「壊れてしまった父を救って欲しい」という理由らしい。しかし、清華やこちら側を罠に嵌めようとしている可能性もまだ捨てきれない。

 万が一、董星がこちら側ではなく、董炎側ならば、清華は殺されるし、実際やり取りしている光世はもちろん、繋がりのある宵達も皆反逆者として罰せられるだろう。

 裏を取るには、秦安に入れた別の間諜からの報告も必要になるだろう。

 実際に行動に移るのはそれからでも遅くはない筈だ。


「軍師殿」


 と、そこへ兵士が部屋の外から声を掛けてきたので、宵は琴の演奏を止めた。


「どうぞ、何でしょうか?」


 宵が訊くと、兵士は部屋に入り片膝を突き拱手した。


「椻夏より、姜美きょうめい将軍がお見えになりました。広間にお通ししております」


「え!? 姜将軍が!? 行く行く! すぐ行きます!」


 まさかの姜美の来訪に、宵は羽扇を持ち兵士を案内役にしてその後ろに続く。

 きっと、威峰山いほうざんに行く途中に様子を見に寄ったのだろう。

 上司であり、先輩であり、友達である姜美との再会に、宵は笑みを隠し切れなかった。

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