第7.5章 夢の中、再び

第144話 異国創始演義

 目の前には以前見た真っ白い空間があった。


「また……ここ」


 宵の母、瀬崎都子せざきみやこは、その虚無の空間に立っていたが、ここに来るのが二度目という事もあり、それ程取り乱しはせず、すぐに辺りを見回した。以前の経験から、ここが夢の中である事は分かっている。目が覚めればまた現実に戻る。

 不思議な夢ではあるが、都子はこの夢の世界にある希望を見出していた。

 何故ならこの世界で、行方不明の我が娘宵に会う事ができるからだ。

 前回の夢では、こちらの声は宵には届かなかった。一方的に『軍師になる』と言った宵は光の中へと走り去ってしまった。そして、都子は目を覚ました。


 だから今回は、宵を見付けたら絶対に捕まえて連れ戻すつもりだった。それができるかどうかは分からない。だが、都子にできる事はそれしかない。


「宵ーー!! 宵ーー!! 返事してーー!! 迎えに来たよーー!!」


 真っ白いだけの空間に叫んでみるが、その声は反響せず吸い込まれるように消えていく。どうやら相当広い空間のようだ。いや、そもそも、夢の中なのだから、声の反響などという細かい設定は存在しないのかもしれない。それにしても、現実味のある不思議な感覚である。


「宵ーー!! 一緒に帰ろうーー!!」


 叫びは虚しく、虚空に消えていく。

 それでも諦めずに、都子は叫びながら真っ白な空間を歩き続ける。


 どれ程の時間が経っただろうか。夢の中での時間の感覚はまるで分からない。

 都子は疲れ果ててその場にへたり込んだ。

 自分の声以外は何も聞こえない全くの無音。

 頭がおかしくなりそうだった。

 身体が疲れているわけではないのに、その精神的な疲労は夢の中でも都子を襲う。


「お父さん……宵を連れて行かないで……」


 都子の目からは大粒の涙がポロリと零れ落ちた。

 夢の中なのに、涙がリアルに溢れて零れている。


「ごめんなさい、宵……就活、辛かったのに、放ったらかしにして……。こんな親だから、優しかったおじいちゃんの方に行ってしまったの?」


 自分では心配して気遣っているつもりだった。だが、いつまでも内定の貰えない就活生にとって、そのストレスや不安は都子の想像を遥かに超えていたのだ。ましてや、宵は興味がある歴史や兵法以外の事はまるで駄目。いくら何でも宵1人に任せ切りにし過ぎたのではないか。だから愛想を尽かして、宵の祖父、潤一郎の創った世界に行ってしまったのではないか。

 だとすれば、今更後悔したところでもう遅い。


「お母さん?」


 突然、背後から呼び声が聞こえた。聴き慣れた愛しい声。自分をお母さんと呼ぶのは1人しかいない。


「宵!!」


 顔を上げ振り向くと、そこには綺麗な漢服のような格好をして、頭に綸巾かんきんを被り、手には白い羽扇を持ったよいが、心配そうな顔で都子を見ていた。

 都子は立ち上がり、宵を抱き締めようとその身体へと飛び込んだが、何故か宵の身体に触れる事ができず、立体映像のように触ったところがすり抜けてしまう。

 都子はもちろん、宵ですらその現象に驚いて目を見開いていた。


「宵、私が分かる!?」


「分かるよ! お母さん! ここは何処なの??」


 意思疎通ができる。前回は宵が一方的に話して消えてしまった。こちらの言葉は届かなかった。だが、今はしっかりと会話が成り立っている。


「詳しくは分からないけど、ここはきっと夢の中。もしかして……お互いの夢が上手く混ざりあってこうして出逢えて、話せるようになったのかも」


 すると、宵はハッとして口を開く。


「そうだ、私も前、夢の中でお母さんに逢った! その時もここと同じ真っ白な空間だった。私、お母さんに何か伝えようとしたんだけど、言葉が届かなくて……結局何も話せないまま夢から醒めちゃったんだよ」


「実は私も何日か前に夢で宵を見たのよ。私の言葉は届かなかったけど、宵は色々話してくれたわ。それは……覚えてない?」


 宵は申し訳なさそうに、ふるふると首を横に振る。


「ごめん……覚えてない。お母さんは夢の中で私と何を話したの? て言うか、何で泣いてるの?」


 夢と現実が記憶が曖昧なのか、状況を呑み込めていない宵は小首を傾げた。

 都子は涙を拭い立ち上がる。


「宵、貴女今閻帝国えんていこくっていう国にいるって本当? しかもそこで軍師になってるって。そう言ってたのよ?」


「え? やだお母さん、何言ってるの? 私はちゃんと東京で就活を……あれ……閻……帝国? ……軍師……??」


「そうよ、宵。ほら、自分の格好を見てみなさい。それが閻帝国の衣装なんじゃないの?」


「あ……これ……そう……待って……何か……大切な事を忘れている気がする……」


 自分の姿を見て困惑する宵。記憶は疾走前のままなのか。だが、服装は紛れもない異国の衣装。

 そして、宵は何かを思い出したかのように目を見開いた。


「思い出した! お母さん! 私、おじいちゃんの部屋で見付けた竹簡を読んだら、何故か光に包まれて閻帝国って国にいたの! でね、戦に巻き込まれて……それで色々あってね、閻帝国を守る為に軍に入って今は軍師やってるよ! あ、あとね、光世と貴船君も一緒! 皆無事だし元気にやってるから安心して! ……でも、何で忘れてたんだろう……こんな大事な事」


「そう……そうなのね。無事なのね。やっぱりそっちに行ってたのね、光世ちゃんも貴船君も。宵が倒れて、それから消えちゃった時、本当に怖かった。どうしたらいいのか分からなかった。でも、ちゃんと生きていてくれたなら良かった。……まぁ、夢の中だから、どこまで真実なのか分からないけど……もしかしたら、全部私の願望なんじゃないかって……少し怖かったりもするんだけどね……」


 都子の瞳には、また涙が溢れてきた。

 宵はあたふたしながら都子の手を握ろうとするが、やはりその手は身体を通り抜けてしまう。お互いにこの空間で実体はないようだ。


「だから泣いてたのね。でも大丈夫。私の話は夢じゃないよ! お母さん」


「それなら安心したよ。宵、3人でこっちに戻って来れないの? 司馬しば教授がね、竹簡を読んだら戻って来れるって言ってた。竹簡は……持ってるんでしょ?」


「うん、持ってるよ。私もね、こっちで帰り方を調べてるうちに、竹簡を読めば帰れるって分かったの。だけど、それにはまず、竹簡の文章を完成させないといけないみたいで……」


 宵は腰の巾着袋から竹簡を取り出し都子に広げて見せた。確かに、後半の文章は所々歯抜けとなっており完成していない。


「え?? 文章は完成していないの??」


「うん。5つの目標を達成しないと文章が完成しないみたい。目標を達成すると、自然に文字が浮かび上がるみたいなの。今は4つ目まで目標達成したから、あと1つなんだけど……それが何なのか分からなくて──え!?」


 その時、突然、宵の足下が輝き出した。それは都子も同じ。足下から眩い光が溢れ出てきたようだ。その光は次第に2人の膝辺りまで上って来る。


「これは……私達消えてない?? お母さん??」


「もしかして、時間切れって事なのかも……」


 夢には終わりが来る。それを理解したところで、下半身から光に呑み込まれていく状況を止める事はできない。


「宵、必ず無事に戻って来て! 光世ちゃんも桜史君も一緒によ?」


「分かってるよ、ちゃんと目標達成したら……帰るから」


 一瞬、宵が言い淀んだのを都子は見逃さなかった。


「もし、もしだよ、宵。そっちの世界の方が楽しいんだったら……」


「帰る!! ちゃんと帰るから!!」


 力強い言葉で言った宵の瞳からも、涙がポロポロと零れていた。

 「帰って来なくてもいいんだよ」。本当はそんな事思っていないのに、そんな言葉を言いかけてしまった。わざわざ辛い世界に連れ戻すのが宵にとっていい事なのだろうか。


 光はもう胸の上まで来ている。眩しさで、宵の顔が見えなくなってきた。

 嗚呼……夢が醒める……


「『異国創始演義いこくそうしえんぎ』お母さん、おじいちゃんの竹簡の名前。それを調べてみて。司馬教授に頼めばきっと色々分かると思うから」


 顔は見えなくなってしまったが、宵の声だけがそう聞こえた。

『異国創始演義』

 都子はしっかりとその名を覚えた。

 お願いだから夢が醒めても覚えていますように。


「そっちに帰れるまでは、また、ここで逢おうね」


 最後の宵の言葉。それを聞いた瞬間、目の前は真っ白になって都子の意識が途切れた。



 ・


 ・


 ・



 ~東京・都内大学病院休憩所~


 そこで都子の意識は覚醒した。


「異国創始演義!」


 都子はそう叫ぶと椅子から立ち上がった。

 隣に座っていた孝高よしたかと司馬は驚いた顔で都子を見つめている。共有スペースなので、周りの患者やその家族もこちらを見ており、都子は申し訳なさそうに頭を下げた。


「ごめんなさい、私また寝ちゃってたみたいで……」


「気にするなよ。それより、どうした? 都子」


 様子のおかしい都子に、夫孝高が訊く。


「また夢の中で宵と会ったの。今度は喋れた。宵は無事、光世ちゃんも桜史君も元気だって……あれ? 厳島いつくしまさん達と貴船さん達は?」


「キミが眠っている間に、近くのホテルを借りに行ったよ。今は宵達患者がいなくなってしまったから、ベッドは空いている状態。他の患者さんもいるから空けて欲しいって、俺達部屋から出て行くように頼まれたろ?」


「ああ、そうだっわね。私達はいつでも家に帰れるけど、厳島さんのお宅も貴船さんのお宅も遠いからね」


「そう言う事。で、宵は閻帝国にいるって?」


 その質問から、孝高は都子の話を信じてくれたのだと分かった。


「うん。閻帝国で、国を守る為に軍師をしてるって」


「異国創始演義というのは?」


 今度は司馬が尋ねた。


「あ、そうだ、司馬教授! お父さんのこの竹簡は『異国創始演義』という名前らしいです。宵が教えてくれました。その名前で調べてくれって」


 都子は目の前のテーブルに置いてあった2巻の竹簡を手に取って言った。


「聞いた事がないなぁ。ですが、分かりました。大学に戻って調べてみましょう」


 そう言うと、司馬はすぐに病室から飛び出して行った。


「都子、なら俺はもう一度家に戻ってその『異国創始演義』って言葉がどこかにないか、お義父さんの部屋を調べてみるよ。キミも戻るかい?」


「ありがとう、あなた。私はここで待つわ。もしかしたら、宵が戻って来るかもしれないから」


「分かった。無理するなよ。何かあったら電話してくれ!」


 孝高は都子の肩をポンと叩くと、一目散に病室から出て行った。


 都子は手に持った竹簡を広げ、深い溜息を吐いた。

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