第139話 攻撃命令

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 尉遅太歲うっちたいさいは並の将軍ではなかった。

 連絡が途絶えた威峰山いほうざんがすでに閻軍によって奪還された可能性を常に考慮していた。

 それ故に、逢隆の名を使い山頂の本営まで誘き出し、途中の山道で奇襲する策はすぐには実行に移せなかった。

 だが、尉遅太歲の出迎えをした桜史おうしの方が、歴戦の猛将より一枚上手だった。

 慎重な尉遅太歲は、初めに腹心の魯披淳ろひじゅんという将軍に100騎を付けて山頂までの道を探らせようとした。その予想外の行動に、桜史は従軍させていた主簿の朱勤しゅきんを魯披淳に付け、一度山頂まで普通に連れて行くように指示した。

 桜史は別途本営まで斥候を送り、魯披淳を先に通すので攻撃はしないようにと言ってきた。

 楊良ようりょうはすぐに状況が変わった事を察し、桜史の言う通りに魯披淳への攻撃はしなかった。

 朱勤が魯披淳を山頂まで連れて来て、尉遅太歲へ伏兵はいない旨の報告をさせた直後、楊良は魯披淳を本営の真ん中で包囲した。

 投降を呼び掛けたが、頑なに投降の意思を見せず、兵も皆凶暴な連中だった為、楊良は躊躇う事なく魯披淳以下騎兵隊を殲滅した。


 一方、腹心の魯披淳から、伏兵の心配がないという連絡を受けた尉遅太歲は完全に警戒を解いた。

 それで桜史はようやく尉遅太歲を山道へと誘い込む事ができ、その道中配置しておいた楊良の伏兵部隊の奇襲攻撃が成功。尉遅太歲は慌てて元来た道を引き返した。

 尉遅太歲は下山後、麓に残していた2万の軍勢と合流し再度攻撃に移る事は明白だったので、元々麓の森に潜ませておいた田燦、鄧平の騎兵に命じ、尉遅太歲の舟から降りたばかりで疲れ切ってきいる2万の兵達を奇襲して倒させた。完全に安心し切った朧軍は大将不在と言う事もあり、簡単に殲滅できた。

 そこへ下山して来た尉遅太歲を、士気の高まった田燦、鄧平の騎兵隊、計6千が待ち受ける。尉遅太歲が猛将と言えど、たった200騎足らずの騎兵では、前後からの挟撃に対応できるはずもなく、とうとう尉遅太歲は鄧平によって討ち取られた。


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 これは全て、軍師宵の考えた策。

『孫子・第11篇・九地』に記載のある“初めは処女の如く、後は脱兎の如”だ。

 初めは処女のようにしおらしく、敵に従順になり、敵の憂いを潰して見せ、油断するのを待つ。そして、敵が油断したところへ準備していた伏兵を一気にぶつけ、逃げた先にも伏兵を置いて完膚なきまでに叩き潰したのだ。

 兵法三十六計で言うところの、『暗渡陳倉あんとちんそう』や『笑裏蔵刀しょうりぞうとう』を合わせたような『連環の計』とも言えるだろうか。


 しかしながら、これは宵が本当に望んだ戦い方でも勝利でもない。だが、今はそうする事が最善だった。魯披淳や尉遅太歲を殺さずに捕える案もあったが、楊良も桜史もリスクの方が大きいと判断した。絶対に降伏する意思のない猛獣のような男を捕らえておく事は、一歩間違えればこちらに大損害を及ぼしかねない危険な賭けだ。万が一、生かしておいて、のちに逃げられでもしたら、宵軍師陣を暗殺しに来るかもしれないし、洪州こうしゅうまで逃げられれば、また大軍を率いてやって来るだろう。そうなればより警戒心の強くなった尉遅太歲という強敵を相手にしなければならない。

 もちろん、敵兵を全員捕虜にする事もリスクが大きい。通常よりも補給が滞っている今、威峰山いほうざんで大勢の捕虜を抱える事は兵糧の確保も困難になる事から避けるべきである。

 故に、兵糧不足の不安を拭う為にも、威峰山陣営は、指揮官も兵も、降伏しない者は殺すという結論に至ったのだ。


 以前の宵なら2人の意見を押し切ってでも、尉遅太歲の兵達丸ごと捕虜にしようとしたただろう。だが、そんな事をしている余裕はなかった。迷って判断を遅らせれば、尉遅太歲に本営を攻撃され甚大な被害が出ていたかもしれない。もしかしたら、楊良や桜史、田燦に鄧平、その他の校尉達、そして宵自身も今生きていなかった可能性もある。

 この判断は、やはり今回においては正しかったと言わざるを得ない。



 戦死した敵兵の埋葬などを鄧平と校尉達に任せ、宵は田燦と共に山頂の本営まで戻って来た。

 すっかり夜更けだった。涼しい夜風が宵の肌を撫で、黒髪を揺らした。


「おお、宵殿、田燦殿。尉遅太歲を討ち取ったそうですな。お見事です」


 宵と田燦が本営まで戻ると、すぐに楊良が桜史と共に出迎えて労いの言葉を掛けてくれた。


「尉遅太歲を討ち取ったのは鄧平です。逢隆の首も奴が取りました。私は威峰山では何もしていません」


「そんな事ないですよ! 田燦殿は敵将の首は取ってないかもしれませんが、私の策を成功に導く為に必要な、迅速な用兵で尉遅太歲の2万もの兵を殲滅してくれました。並の校尉では出来なかったと思います。それに、私の心の支えにもなってくださったし。やっぱり、田燦殿の功績は大きいです」


 宵が笑顔でそう言うと、田燦は照れ臭そうに鼻の頭をポリポリとかいてそっぽを向いてしまった。


「せざ……宵殿。怪我はないですか?」


「私は全然大丈夫。桜史殿こそ、大丈夫?」


「俺も大丈夫だよ。宵殿の完璧な策のお陰でね」


「いやいや、そんな。桜史殿が機転を効かせて朱勤殿を魯披淳ろひじゅんにくっ付けてくれてなかったら、上手くいかなかったかもだよ。それに、一歩間違えたら殺されるかもしれない役を買って出てくれて……ありがとうね」


 宵の言葉に、今度は桜史が照れ臭そうに宵から顔を背けた。


「いやぁ、何にしても皆無事で何より。上手くいって良かった」


 快活な様子で楊良が言った。


「楊先生もありがとうございました。兵達には亡くなった方もいるので、皆無事……というわけにはいきませんでしたが」


戦場いくさばゆえ、仕方のない事だ。もし、尉遅太歲を捕らえようとして戦が長引けば、もっと味方に損害が出ていたかもしれん」


「はい。そうですね」


鶏陵けいりょうも、敵の援軍が来ない内に早急に方を付ける必要があるな」


「それは、包囲している朧軍を皆……殺すって事ですよね」


「殺さねば、敵の援軍と合流した後、椻夏えんかの軍だけでは対処できなくなり、李聞りぶん姜美きょうめいは死ぬ事になるかもしれん。兵士全員を気絶させて捕虜にでもするか? それは効率が悪過ぎる」


「……そう……ですよね……なら……」


 言いかけた宵を、楊良は手で制した。


「今回の攻撃命令は不要だ。すでに儂が鶏陵の黄旺こうおう全燿ぜんようの軍を攻撃するよう命令は出しておる。じき、朗報が飛び込んでくるだろう」


「え!? いつの間に」


「其方がうじうじしている時じゃ」


「あう……」


 宵は軍師としての仕事を個人的な感情で怠ってしまった事に自責の念を抱き俯いた。

 今から鶏陵の朧軍を攻撃するよう命じるのでは遅過ぎるかもしれない。それに、鶏陵の朧軍はすでに虜になっていると言っても過言ではない。その朧軍に対し攻撃命令を出すというのは殺戮命令と同義。今まで宵は献策をするだけだった。しかし、鶏陵の朧軍を降伏させるという戦略は実質失敗に終わっている。後はもう殺してしまう以外ない。その判断を下し、命令するのは宵の仕事だった。それを、楊良が代わりに引き受けてくれたのだ。

 楊良は宵が攻撃命令を躊躇う事を読んでいた。そして、すぐさま宵に代わって迅速に命令を下した。その判断の速さのお陰で、宵は殺戮命令を下すという大きな仕事を回避できた。楊良には頭が上がらない。

 しかしながら、いつまでもそうやって嫌な仕事から逃げ続けていいのだろうか。軍師として一軍を率いるなら、やはり楊良のようにならなければいけないのではないか。


「宵殿? 大丈夫?」


 俯いたまま難しい顔で考え込む宵を我に返してくれたのは、桜史だった。

 最も同じ感覚を持っている元の世界の仲間。桜史は人を殺める事に一体どのような感情を持っているのだろうか。そんな事が気になった。


「あ、うん。久しぶりにそばで人が亡くなるのを見て……少し気分が悪いだけ」


「無理するな、宵殿。後は儂と田燦殿で此度の戦いの後始末はしておく。今日はもう休むといい。桜史殿、宵殿を頼みますぞ」


「え、あ、はい」


 突然、宵を託された桜史は戸惑った様子だったが、すぐにいつものクールな表情に切り替えると宵をエスコートした。


「それじゃあ、宵殿。部屋まで送るよ」


「ありがとう、桜史殿。では、楊良殿、田燦殿。すみませんが、後はお願いします」


「御意!」


 楊良も田燦も、宵の拱手に快く応えた。

 それを見て安心した宵は、桜史の後に続いて歩き出した。




 ***


 閻軍・鶏陵


 朧軍の包囲は5日に達していた。

 互いに動かず膠着状態が続いた。その間、李聞りぶん姜美きょうめいと相談し、船酔いで潰れた兵達を一度椻夏えんかへと撤退させた。包囲に動員していた3万の内、残ったのは2万足らず。大半が船酔いで使い物にならなかった。とは言え、朧軍の方も、膠着状態に疲れ、完全に疲弊し切っており士気もかなり低い。

 矢も打ち尽くしたのか、もう攻撃をしてくる様子はない。兵糧も尽きかけているだろう。

 投降しないのなら、このまま生き地獄を味合わせるのは酷というもの。早いところ殺してやった方が良いのではないか。

 覇気のない朧軍を見て、船上の李聞がそう思った矢先、伯長はくちょうの男が「報告します!」と、声を上げながら李聞の下に駆け込んで来た。


「何だ?」


「『軍師殿より伝令。朧軍の援軍が来る可能性が高い故、投降しない朧兵は即刻斬り捨てよ』」


「馬鹿な! 軍師がそんな事を言うはずなかろう!」


「いえ、確かにそう命じられたと、威峰山から来た伝令の兵が言っておりました」


「その兵士をここへ呼べ」


 李聞が命じると、伯長はすぐに威峰山からの伝令を呼んだ。


「情報が上手く伝わっていないようだ。お前は威峰山から来たのか? 威峰山は閻軍が奪還したという事だな?」


「はい。威峰山は朧の逢隆ほうりゅうに奪われていましたが、その後、逢隆麾下きかの桜史という軍師が反旗を翻し、そのまま逢隆の軍1万が我々閻に寝返った形になります。そしてさらに、閻仙・楊良殿も我が軍に加わり、その楊良殿から直々に攻撃命令を賜った故、こうして参上した次第です」


「待て、威峰山を奪還したところまでは分かった。しかし、何故楊良がこちらに味方したのだ?」


「楊良殿は元々、朧軍に調略を仕掛ける為に偽りの仕官をしていたのだそうです。朧軍での調略を仕掛け終えた為、宵殿のいる威峰山へ行き、改めて閻に仕官されました」


「なるほど。にわかには信じ難いが、攻撃は宵の命令ではなく、楊良の命令なのだな」


「はい」


「新参の楊良の独断の命令であれば、従うべきか判断に迷う。宵も攻撃を了承しているのなら構わないが、あの娘が攻撃の命令を了承するとは思えん」


 李聞は顎髭を指先で摘み思案した。

 もし楊良が閻軍を欺く為に、独断で攻撃命令を下したとなれば、みすみすその罠に掛かるべきではない。一度ひとたび奪った命はもう二度と戻らない。

 それに、この伝令の兵士が嘘をついている可能性もないわけではない。朧軍の間諜だった場合、それもまた罠に掛かる事になる。

 李聞は唸った。

 人は極力殺したくない。宵の気持ちを尊重する気持ちもあるが、何より自分自身が一方的な殺戮をしたくはなかった。敵が攻めて来たから自国と民を守る為に敵を討つ。それが李聞の軍人としての理想の姿。だが、今の状況は違う。逃げ場のない弱った兵達を袋叩きにする殺戮だ。


「李将軍。楊良殿と宵殿はどうやら知り合いだったようで、大まかな戦略は常に話し合い、決定しておりました。例え宵殿の命令でなくとも、問題はないかと……」


「黙れ! それを決めるのは私だ! いいか! 私の軍師は宵だ。あの娘の意思の介在しない命令は聞けん!」


 突然の怒号に伝令の兵士も伯長も恐れ戦き一歩後退る。李聞が怒鳴る事は珍しい。それ故に辺りの空気は凍り付いた。


「だが、このまま放っておくのが良くない状況だという事は理解している。確かに、敵の援軍が来た場合、目の前の5万5千を放っておけばいつの日か脅威になる。そうなれば、閻の兵士達の犠牲も増えるかもしれない。恐らく、宵が決断できなかった故に、楊良殿が代わりに命じたのだろう」


「それでは」


 伯長がまた一歩前へ出た。


「私は楊良殿の命令を聞くわけではない。あくまで現場指揮官としての判断でめいを下す! 太鼓を鳴らしたら鶏陵の朧軍へ攻撃を仕掛ける! きょう将軍に伝えろ!」


「御意!」


 楊良が本当に寝返ったのかは判断できない。だが、楊良の指示は戦略としては間違っていないし的確である。まるで一度鶏陵の状況を見ているかのようだ。

 だが、自分の目で楊良を確認するまでは完全には信じない方がいいだろう。今回の攻撃命令の責任は全て自分で取る。

 李聞はそう決心を固めた。


 伝令の兵を下がらせると、李聞は船を前進させるように命じた。

 朧軍に自らの声が届く位置まで船が進むと停止させた。


「朧軍に告ぐ! これが最後の通告だ! もし今すぐに武器を捨てて投降しなければ、太鼓の合図と共に総攻撃を仕掛ける! 5万5千の墓標がこの地に建つ事になるぞ!」


 すると、指揮官が1人、馬に乗って水際まで出て来た。大将の黄旺こうおうだ。


「望むところだ! 武人たる者、戦場で死ねるなら本望! だが、明らかに兵力の劣る貴様らに、儂らが倒し切れるとでも思ったか! 青二才が!」


 最後まで朧軍は折れなかった。

 これが武人の姿。黄旺はさすが歴戦の猛将にして忠臣である。そんな人物を殺すのは惜しい。


 李聞は目を閉じた。

 どれ程そうしていただろうか。

 また、伯長がやって来た。


「姜将軍より、『相分かった』と」


 李聞は頷いた。

 そして、スラッと腰の剣を抜く。


「太鼓を鳴らせ!」


 李聞の号令と共に太鼓が打ち鳴らされた。

 辺りの舟の兵達も槍を構え剣を抜く。


「突撃!!」


 鶏陵の四方八方を囲む閻軍の舟が、喊声と共に一気に前進を始めた。


 ──だが、李聞の判断は遅かった。


「李将軍! 南の方より、す、水軍です!!」


 兵士達が騒ぎ出す。

 李聞は一旦太鼓を止めさせると、辺りの舟も何事かとピタリと動きを止めた。


「閻の水軍……いやしかし、洪州から来たという事は、我々への援軍ではなかろう」


 李聞は良く目を凝らし、その水軍が掲げる旗を見た。そして、その旗に書かれている1文字を見て戦慄した。


「『周』の旗!! ……周殷しゅういんか!!」


 閻軍全体に戦慄が走った。

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