第138話 尉遅太歲
辺りを見回すが、逢隆麾下の兵達は、特に不自然な様子もなく、麓の警戒を続けていた。
「お待たせいたしました、将軍。私は逢隆将軍の軍師の
「朱勤です。以後お見知り置きを」
桜史と朱勤は礼儀正しく拱手した。
朱勤はともかく、桜史という軍師は、噂には聞いていたが特異な髪型をしている。髷も結わえない程の短髪。この近辺の国では見掛けない不思議な髪型だ。
「うむ。水に囲まれ孤立していたというのに、随分と余裕そうだな。ところで、何故小舟を所有していた? 水攻めをされる事は予見できなかったはずだろう?」
「ああ、小舟は水に囲まれた後で急遽作りました。さすがに
「ほう、では連絡を取ろうとはしていたのだな。桜史殿」
「勿論でございます」
「それで、閻軍は水攻めの後、ここに攻め入っては来なかったのか?」
「ええ。何故かは分かりませんが来ていません。お陰でこちらは特に損害もなく。さ、立ち話もなんですし、山頂の本営へ参りましょう。逢隆将軍がお待ちです。ご案内致します」
桜史は丁寧に受け答えをすると、朱勤と共に馬に乗り、尉遅太歲を山頂へと
──しかし、
「いや、悪いがまだ山頂には行かない。俺は用心深くてな。まだ其方らを信用していない」
「……と言いますと?」
「其方らが閻軍に投降している可能性も捨てきれないという事だ」
「まさか」
「俺を山頂へ誘い、その道中で伏兵に襲わせる算段かもしれんだろ。閻軍が水攻めをしておいて、威峰山を何日も放置しておくのは解せない」
「そんな……」
朱勤が困惑して言いかけたのを桜史が手で制した。
「では逢隆将軍を麓までお呼びしましょうか?」
桜史の提案に、尉遅太歲は首を横に振る。
「いや、俺のような辺境の将軍が禁軍 (近衛軍)出身の位の高い逢隆将軍を呼びつけるなど身の程を弁えていない愚行。一度部下の
尉遅太歲はそう言うと背後に控えていた兵達の先頭にいた魯披淳を呼んだ。
「魯将軍。100の軽騎兵を連れて山道と付近の森の様子を見て来い。少しでも不審な点があれば報告せよ」
「御意!」
魯披淳はすぐに軽騎兵100騎を召集し始めた。
それを見た桜史は朱勤に指示を出す。
「朱勤殿。魯将軍に同行し、道案内をお願いします」
「心得ました」
朱勤は馬に跨ると、魯披淳を本営へ続く山道へと案内し始めた。
100騎の軽騎兵も続々と山道へと向かって行く。
「味方を疑うとは、相当な警戒心をお持ちなのですね。尉遅将軍。ところで、1つお聞きしても良いでしょうか」
「何だ? 桜史殿」
「尉遅将軍は何故閻と戦うのでしょう?」
「愚問だな。朧王が閻を倒すと決めたからだ。俺はそれに従うまで。俺は軍人だからな」
「その忠誠心。感服致しました」
桜史は恭しく拱手して頭を下げたが、尉遅太歲はそれを一瞥しただけで、すぐに視線を去り行く魯披淳の部隊へと向けた。
♢
3刻 (約6時間)程経った頃、ようやく魯披淳の1騎の斥候が戻って来た。報告によると、特に怪しいところはなく、100の軽騎兵は皆山頂の本営へと到着したという。
「魯披淳が言うならば伏兵はいないのだろう。俺達を騙し討ちするつもりはないようだ。では、残りの兵達も一度上陸させてもらおう。不慣れな船上での待機は兵達の負担となる」
麓に置いた胡床に座り、鋭い眼光で様子を窺っていた尉遅太歲は、ようやくその警戒を解いた。
♢
2万の兵を舟から降ろし、威峰山の山麓へと布陣させた尉遅太歲は500騎を集めた。
「山頂の本営にはこの2万の兵は置けないのであろう? ならば麓で構わん。しばし兵を休ませたい。俺はこれより其方と共に逢隆将軍へ会いに行こう。
「勿論です。私は尉遅将軍をご案内する為に、ここへ参ったのですから。さあ、こちらへ」
桜史は馬に跨ると、やっとその気になった尉遅太歲を山頂の本営へと
日は傾いていた。
桜史が先導する尉遅太歲率いる500騎は、遅れる事なく山道を進んでいた。尉遅太歲のすぐ後ろには、2騎の大男の騎兵がおり、1人が1つずつ、巨大な丸い鉄球を持ち、それらは鎖で繋がっている。尉遅太歲の得物、
山道はなだらかな一本道。左右には深い森が広がり、伏兵を隠すには持って来いだが、その気配はない。
尉遅太歲は、逢隆や桜史が騙そうとしているという心配が杞憂だった事を確信し、ふっと鼻で笑った。
「桜史殿。何故閻軍は水攻めで孤立させた威峰山をすぐに攻めなかったのだろうか」
「私にも閻軍の真意は分かりませんが、戦慣れしていない閻軍の事です。軍師の策は良くても、脆弱な兵達が上手く動かなかったとか、まあ、そんなところでしょう」
「そうか。それは大いにあるな。軍師と言えば、我が軍に加わった
尉遅太歲が桜史に訊ねると、何故か桜史は突然駆け出して山道の先へと行ってしまった。
「桜史殿!!! どうしたというのだ!!?」
尉遅太歲が叫ぶと、道の先から突如ずらりと閻兵が現れた。
「閻軍!? しまった、やはり罠だったか!!」
「ははは! 尉遅太歲! 閻仙・楊良はここにおるぞ!」
現れたのは閻服の上から鎧を纏った老人。自らを閻仙・楊良と名乗った。楊良の姿を見た事がない尉遅太歲は目の前の男が楊良かどうかなど確認する術がないが、もはやそんな事はどうでも良かった。
「貴様が楊良ならば、朧国を欺き、閻に味方する賊という事だな! 威峰山はすでに閻軍に奪い返されていたと言うわけか!!」
「その通りだ、尉遅太歲! 逢隆はとうに死んでおる。この威峰山は閻軍のもの。大人しく武器を捨て投降するのなら、命だけは助けてやろう」
「ぬかせ! ジジイめ!! 貴様も桜史も俺の流星錘で叩き潰してくれるわ!!」
「そう言うと思ったわ! 其方の部下の魯披淳とやらも、投降を拒んだからな。仕方がない。魯披淳と同じく、威峰山の山道に其方の首も転がしてやろう」
楊良はそう言うと、そばの兵士に何かを投げさせた。それは斜面をコロコロと転がり、尉遅太歲の足下まで来て止まった。
「魯将軍……!!」
それは青ざめてはいるが、安らかな顔をした魯披淳の首だった。つい3刻前までは首は繋がっていた尉遅太歲の腹心。
「おのれ楊良!! 殺してやる!!」
尉遅太歲の怒号と共に、率いていた500騎の喊声が上がった。
「転がすのは首だけではないぞ。やれ!」
楊良の指示が出されると、斜面の上から閻兵達が次々に丸太や岩を転がして来た。範囲が広く、左右に避けるのは間に合わない。
「寄越せ!!」
尉遅太歲は咄嗟に背後の兵から流星錘を奪うように手に取ると、その巨大な鉄球の分銅をブンブンと振り回し、転がり落ちてくる丸太に叩き込んだ。
バキッと大きな音を立てて丸太は真っ二つにへし折れ、割れた面から地面にめり込んで止まった。
続けざまにもう1つの分銅を転がって来る岩に叩き込み粉々に粉砕。尉遅太歲の周りだけは丸太も岩も弾け飛んで行くが、後ろの騎兵達は馬の脚をやられバタバタと落馬してそのまま丸太や岩に押し潰されていた。
「一度退くぞ!! 麓の部隊と合流し体勢を立て直す!! 続け!!」
潔く退却の指示を出すと、まだ立っている騎兵隊はすぐさま反転し山道を駆け下りて行った。
「よし! 攻撃
攻撃停止命令を出した楊良が、桜史にそう言うと、桜史は大きく息を吐いた。
「心臓に悪い役目でした」
「そうだな。だが、後は本職の軍人達に任せるとしよう」
「はい」
桜史は頷くと、楊良と共に兵達を本営まで引き上げさせた。
♢
すっかり真っ暗になった頃、尉遅太歲と騎兵隊は麓まで降りて来た。500騎いた騎兵隊は200騎程まで減っていた。
「おのれ逆賊楊良!
「あ……! 尉遅将軍! あれを……前方に騎兵が松明を……」
兵の1人が指さした方へ視線を向けると、確かに複数の騎兵が松明を持って尉遅太歲の行く手にぼんやりと現れた。
「すでに戦闘準備を整えていたか、我が兵は優秀だ!」
「尉遅太歲!!」
だが、味方だと思っていた松明を持った騎兵隊からは、尉遅太歲を呼び捨てにする声が聞こえてきた。
「まさか……」
「貴様の2万の兵は殲滅した! 投降するか! それともここで潔く死ぬか! 好きな方を選ばせてやろう!」
「おのれ……貴様何者だ!」
「俺は閻軍軍師、
鄧平は槍をブンブンと頭上で振り回し威嚇を始めた。その様子からかなり出来る男だと思った。
「鄧平だと? ふん! 聞いた事もない! 無名な兵卒が、この俺、尉遅太歲に勝てると思っているのか!! 投降するのは貴様の方だ!!」
尉遅太歲は臆する事なく、巨大な流星錘を振り回し、鄧平の騎兵隊に突撃の号令をかけた──が、丁度その時、背後で兵達の動揺する声が上がる。
「私は
前方も後方も塞がれた。
前方の鄧平の軍も、背後の田燦の軍も、闇夜に紛れてどれ程いるのかさえ分からない。兵達は混乱し始めた。そして動揺の声は断末魔へと変わっていく。
「おのれぇぇ!!! うおおおおおお!!!」
尉遅太歲は雄叫びを上げ、目の前の鄧平へと馬で突っ込んだ。ブンブンと振り回す巨大な鉄球。突撃して来る閻の騎兵を1騎、2騎と分銅が馬ごと叩き潰す。
鄧平の顔がようやくはっきりと見える距離まで来ると、何の躊躇いもなく鉄球を鄧平へと投げた。だが、鄧平は馬の身体を瞬時に地面に倒し分銅を躱すと、すぐに体勢を立て直し、横を通り過ぎる巨大な尉遅太歲の身体へと槍を突き出した。
尉遅太歲は避け切れず、鄧平の槍が、背中から胸へと貫いた。
「うぐっ……!!」
しかし、尉遅太歲は流星錘を離さない。槍が身体に刺さったまま、馬を止め、踵を返すと、鄧平へと向き直り流星錘を振り上げる──が、目の前には鄧平が抜いた剣が迫っていた。躱す余力などなく、尉遅太歲の首はついに身体から転げ落ち、地面にゴトッと落ちた。
首のない大きな身体が遅れて馬から落ちた。
「敵将尉遅太歲! 鄧平が討ち取ったぞ!!」
血の着いた剣を高らかに夜空に掲げ叫ぶ鄧平。
味方の
どうやら、尉遅太歲の残兵も殲滅が完了したようだ。
そんな歓喜の兵達の後ろで、馬に跨って様子を見ていた宵は、白い羽扇を撫でながら静かに呟く。
「初めは処女の如く、敵人戸を開き、後には脱兎の如く、敵
勝利は喜ばしい事だが、やはり人が死ぬ事は受け入れ難い。しかし、これでいい。これでいいのだ。
宵は勝鬨を聞きながら、1人自分にそう言い聞かせた。
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