第137話 軍師の責務

 帷幕いばくに集まった田燦でんさん楊良ようりょうのもとに、宵は桜史を連れて参入した。


「朧軍が水軍でこちらに向かっているそうですね」


 桜史は開口一番にそう切り出した。


「そうです。南50里 (約20km)の所に約100隻。今鄧平とうへいに迎撃の準備をさせています」


 宵と桜史は田燦の返答を聞きながら胡床に腰を下ろす。


「戦うしかないですよね。ここにいる戦力だけで。他から援軍を貰う時間はないですし」


 宵が言うと田燦は頷いた。


「この状況ならそうするしかないでしょう。ただ、

 敵は100隻もの軍艦。兵力はこちらの数倍はくだらないでしょう。まともに戦っても勝ちは薄い……。先生方、何か策はありませんか?」


 参謀が3人もいる。今までで最も心強い状況だ。ひとまず宵は威峰山の地理を頭に思い浮かべた。


「1ついいですか?」


 桜史が落ち着いた口調で言った。


「何か妙案が? 桜史殿」


「いえ、田燦殿。その前に前提として、朧軍は威峰山が奪還された事を知らない可能性もあります」


「え?」


 田燦は首を傾げたが、宵と楊良は同時にポンと手を叩いた。


「あ、そっか!」


「儂はてっきり威峰山の朧軍の降伏は周殷の知るところとばかり思っていた。そうか、まだ気付かれていない可能性があるのだな。それは良い情報だ。桜史殿がいてくれて助かった」


 桜史はいえいえと小さく両手を振る。


「斥候は今舟を使ってしか送れない状況。ここが閻軍に奪還されてから、哨戒を強化していますが、敵の斥候らしき小舟の接近はありません。威峰山の朧軍がまだ健在だとして、洪州の朧軍本隊と連絡が途絶えている状況を怪しいと思われているかもしれませんが、この洪水では仕方ないと思うのも当然。おそらく周大都督は、こちらがどういう状況なのか把握できておらず、とりあえず様子見の為に水軍を寄越した可能性が高いです」


「確かにな。威峰山がまだ朧軍の援軍を待っている場合はそのまま合流する。だが、閻軍に落とされていれば、水軍で威峰山を攻撃する。どちらにせよ、まず奴らはこちらの様子見から始めるか」


「仰る通りです。楊先生。なので、今の戦闘態勢はすぐに解除し、朧軍にはこちらがまだ逢隆ほうりゅうの指揮下にあるように思わせ油断させておくのが良いかと」


「それで桜史殿があの水軍を説得してこちらに寝返らせるんだね?」


 意気揚々と宵が言うと、桜史と楊良の顔は曇った。

 その様子に宵は不安を募らせる。


「説得してこちらに寝返らせるのは現実的じゃないね。現に鶏陵けいりょうの朧軍は未だ降伏していないし、ここの指揮官だった逢隆ほうりゅうも降伏する考えは持ち合わせていなかった。なら、今からこちらへ向かって来る朧軍も同じものと考えた方がいいよ。宵殿」


「じゃあ……」


「油断しているところを奇襲する。それしか兵力の多い相手に勝つすべはない」


 同じ世界、同じ大学の仲間である桜史から和平ではなく抗戦の提案が出た事に、宵はショックで肩を落とした。

 そんな様子を見た楊良は一つ息を吐くと、顎髭を撫でながら話し始めた。


「人を殺す事を躊躇う気持ちはよく分かる。人は生来、何の恨みもない相手に殺意など芽生えぬ。儂とて出来ることなら人を殺めずこの戦を終わらせたいものだ」


 宵は優しい口調で語り始めた楊良に視線を向けた。楊良の眼差しは宵の祖父、瀬崎潤一郎を彷彿とさせる柔らかなものだった。思わず宵はその瞳を見つめ楊良の話に耳を傾けた。


「しかしながら、人が死なずに事が済む段階は過ぎてしまった。本来なら、戦が始まらないように、外交で食い止めなければならなかった。だが、今となっては後の祭り。ここは戦場だ。人が死ぬのが不思議ではない場所。相手はこちらを殺すつもりで来る。なれど、こちらは相手を殺さないように動いてばかりでは、隙が生まれ、必ず出遅れる。そして、こちらの生命いのちが危険にさらされる。時には、敵を殺さずに捕らえる事もできるかも知れぬが、そればかりに執着していては勝機を逃す」


「はい……」


「宵殿。其方は今や閻軍の軍師。この軍の将兵の生命いのちを守る義務がある。辛いのは其方だけではない。桜史殿は、自らを受け入れ軍師に取り立ててくれた恩人のいる軍と戦わねばならんのだ。その桜史殿が覚悟を決めている。宵殿も朧軍と戦う以上は覚悟を決めねばならぬ」


 決して叱責している感じではない。ただ優しく孫娘を諭すように、楊良は未だ人を殺す事を躊躇う宵に言った。

 おじいちゃん子だからなのか、楊良の言葉は宵の胸に深く響いた。

 そして、宵は神妙な面持ちの桜史へと顔を向ける。


「宵殿。君が人を殺さずに戦に勝ちたい理由は、ただ殺戮が嫌だからって事だけじゃないよね。孫子では『戦わずして人の兵を屈するのは、善の善なるものなり』と言って、戦わずに敵を降伏するのが最善だと説いている。だからその教えに従いたいんだよね」


「……うん」


 自分の心を理解してくれる桜史の言葉に、宵は素直に頷く。


「俺も、人を殺したくはない。朧軍とも戦いたくない。……けど……やらなければこちらがやられる。ここは俺達の国とは違う。君を信じて付いて来てくれた将兵達の為にも、俺達軍師はその状況に応じた最善の策を講じなければならないと思う。常に敵を殺さない事が最善とは限らないんじゃないかな」


 宵よりも遥かに軍師としての心が完成されている桜史に、宵は頷いて見せた。

 何度も挫けては、その度に色々な人達に助けられて来た。成長したと思っていた。覚悟も決めたと思っていたが、まだまだ人として未熟だった。軍師としてもだ。


「そうだ。私は……軍師なんだ!」


 宵はそう言って胡床から立ち上がった。

 そして羽扇を持った手でその場の3人に拱手すると、今度こそ覚悟を決め口を開く。


「ウジウジしてごめんなさい! もう迷いません! 応戦する為の策を、僭越ながら申し上げます」


 その言葉を聞き、田燦、桜史、楊良は同時に立ち上がる。


「「「ご教授ください」」」


 3人の拱手を受け、宵は頷くと、羽扇を口元に当てた。




 ***


 周殷しゅういんの話によれば、威峰山は朧軍が制圧しているという。だが、閻軍の水攻めのせいで、その後の連絡は途絶え、現在は状況が分からぬままになっていた。


 尉遅毅うっちきの命を受け、降伏した洪州の閻軍の艦船100隻をかき集め、2万の水軍で威峰山の様子を見に来たのは、尉遅毅の従兄弟に当たる尉遅太歲うっちたいさいだった。

 尉遅太歲は、尉遅毅の麾下で異民族討伐で名を馳せた豪傑でり、尉遅毅の右腕とも呼べる将軍である。

 筋骨隆々の恵まれた身体。鼻の下から顎にかけて繋がった剛毛の茶色がかった髭。鷹のような鋭い眼光。右眼にある眉間から頬の辺りまでの痛々しい刀傷が、その男の蛮勇を物語っていた。

 騎兵の指揮が得意分野である為、水軍の戦闘は不得手であるが、それは閻軍とて同じ事。船上で戦えば、より戦慣れしている方が勝つというもの。

 尉遅太崔は水軍での戦闘に関して少しの不安も持ってはいなかった。


 威峰山まで3里 (約1.2km)程の距離まで近付くと、味方の朧軍の布陣が見えてきた。

 どうやらまだ威峰山は朧軍の支配下にあるようだ。

 連絡が途絶えたのも、やはり洪水が原因だったのだろう。

 そのまま舟を進めていると、威峰山の方から、朧軍の兵士の乗った小舟が1艘近付いて来た。


「援軍ですか? 感謝致します。逢隆将軍の命でそちらの指揮官と兵数の確認に参りました。上陸されるのであれば、受け入れの準備が必要との事です。威峰山の行軍可能な山道は1本のみ。山頂の本営は狭く、これ以上兵を置く余力はないそうなので、新たに森を切り拓き、陣屋を設営する必要があります」


「なるほど、指揮官は俺だ。尉遅太歲だ。兵は2万。俺達は貴殿らの様子を見に来たのだ。この洪水で斥候からの連絡が途絶えていたからな。だがどうやら威峰山は無事なようだな。安心したぞ。とはいえ、せっかくここまで来たのだ。逢隆将軍と桜史とかいう軍師と話をしていこう。5千だけ先に上陸する。場所を確保しておけ。準備が整ったら太鼓を鳴らして合図を送れ。その合図を確認したら上陸する」


「御意!」


 兵士は拱手すると、また小舟を反転させ、威峰山の方へと漕いで行った。


「妙だな」


 逢隆の遣いの兵士が遠ざかると、尉遅太歲はゴワゴワの顎髭を扱きながら呟いた。


「3日以上孤立していたのであれば、補給もなく、いつ敵に攻められるか分からないという切羽詰まった状況のはず。それなのに、今の斥候の兵士はとても落ち着き払った態度であったし、2万もの大軍がさらに上陸しようとしているにもかかわらず、兵糧の話を一言もしなかった。湖の真ん中に取り残されている状況だと言うに、恐怖や不安を感じていないように思えた」


「将軍。では、これは敵の罠だと?」


 そばの兵士が不思議そうな顔で訊ねる。


「念には念を入れろ。俺の流星錘りゅうせいすいを持ってこい!」


「はっ!」


 兵士はすぐに武器を取りに船内に駆けて行った。

 甲板から威峰山の麓の朧軍を眺めるが、まるでこちらを警戒している様子はない。至って普通。だが、それが逆に怪しさを漂わせる。尉遅太崔は鼻で笑った。


「罠ならばその罠ごと薙ぎ払うまでよ。岩をも砕く、俺の流星錘でな」


 1人呟いた尉遅太歲は、ゲラゲラと低い声で笑った。

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