第136話 鴉

 閻軍・鶏陵けいりょう


 孤立した朧軍を包囲してから3日。

 何度も降伏勧告をしたが、李聞りぶんの舟が近づく度に朧軍は矢を射て攻撃して来るので一向に捕らえる事ができないでいた。

 最初の接近で十数人が矢の餌食になった。李聞も危うく射殺されるところだったが間一髪周りの兵士に助けられた。


 朧軍を包囲している張雄ちょうゆうは潔く降伏しない朧軍に痺れを切らしているようで、何度も李聞の舟まで攻撃許可を求める遣いを寄越した。

 もちろん、李聞は攻撃の許可を出す事はない。あくまで全員を生きたまま投降させる。それは軍師である女、宵の願いでもあるからだ。

 張雄の不満は日に日に膨らみ、いずれ勝手な行動に出ないとも限らない。戦線から外した方が良いかもしれないが、それは逆に不満を爆発させる要因にもなりそうで命令を出す事を躊躇っていた。もし椻夏に戻した後に張雄が城の中で暴れたりしたら、城内の降将徐檣じょしょうがそれに呼応して反乱を起こす可能性もある。そうなれば、今椻夏にいる王礼おうれいだけではとても抑えきれないだろう。

 廖班りょうはんが死に、だいぶまともになったかと思っていたが、張雄の短気で自身の出世を優先する悪いところは、そう容易く治るものでもないようだ。


 椻夏周辺に湛える水は、日を追う事に水位を下げている。雨が止んでから3日でここまで引くのなら、10日もあれば歩兵が動けるようになるだろう。そうなれば、鶏陵の朧軍は包囲を突破し退却するだろうし、その前に敵の援軍が来るかもしれない。

 ならばこのまま投降を待つより、一気に殲滅してしまった方が良いのではなかろうか。


 宵の願いと現実と、李聞はどちらを取るべきか決めあぐねていた。


「李聞将軍」


 若い伯長はくちょうの男が浮かない顔をして報告にやって来た。


「どうした」


「慣れない船上での攻囲が続き、他の部隊から船酔いしている兵が続出しているとの報告がありました。……我が部隊も同じ状況です。兵の半数以上が項垂れております」


「……そうか。それはまずいな」


「私がこんな事を言うのはおこがましいかと思いますが……」


「何だ。構わん。申せ」


「鶏陵の朧軍はしばらくは動けません。船酔いしている兵は一度椻夏に戻し、健康な兵だけで再度部隊を編成し、攻囲にあたるのはいかがでしょう?」


「なるほどな。それは悪くない考えだ。だが私の一存では決められん。姜美きょうめい将軍と一度相談せねばな。よし、姜美将軍に遣いを送る前に、各部隊の使える兵数を正確に調べて報告せよ。数が分かり次第、姜美将軍と話してみよう」


「はっ!」


 伯長は返事をするとすぐに自分の部下達に命令を始めた。


 確かに、李聞の乗る中型の舟でも揺れを感じる。自分自身は平気だが、中には揺れのせいで船酔いする者が出てもおかしくはない。ましてやほとんどの兵は小舟に乗っているのだ。揺れはさらに強く感じるだろう。このまま放っておけば、いざ敵が攻めて来た時にまともに戦う事ができない。


「長引かせるのはまずいか」


 李聞は1人呟くと、腰の剣に手を掛け、ギュッと握り締めた。



 ***

 閻軍・威峰山いほうざん


 雨が上がれば空からは燦々と太陽の日が降り注ぐ。

 先日までの雨が嘘だったかのように今は雲一つない青空が広がっていた。

 ぬかるんでいた威峰山の山道もすっかり乾いて固まっていた。

 だが、麓の水はまだ湖のように茶色い水を湛えている。その上を、閻軍の斥候の兵や、補給物資を運んで来る兵站部隊が小舟で進む様子が見て取れる。

 瀬崎宵は軍務の合間に、1人しゃがみこみ、持参した湯呑みのお茶を飲みながら、ぽけーっとそんな風景を眺めてめていた。この洪水で民間人の死者は出ていないと報告を受けたが、低地の村や田畑は水に浸かり、今も避難生活を余儀なくされている民が大勢いるという。

 水攻めは戦術としては成功だったと言えるだろう。もちろん、水を流す前に住民の避難誘導をするように指示を出した。しかし、命は助かっても、家や土地を奪ってしまった事は、戦時下と言えど許される事ではない。


 宵は茶色い水を見る度にそんな事を思い出し心を痛めていた。


 茶を飲み干すと、宵は立ち上がり羽扇でパタパタと顔に風を送る。別に暑いわけではない。もはやその動きが癖付いており、羽扇を持つと知らぬ間に扇いでいるのだ。

 威峰山を奪還して4日目。

 椻夏からの斥候せっこうは来るが、未だに鶏陵の朧軍は降伏していないと言う。

 秦安しんあんからこちらへ向かっているという閻軍大都督呂郭書りょかくしょの動向は相変わらず分からぬままだ。

 楊良が言うように、呂郭書の到着は宛にしない方が良さそうだ。

 だが、もし朧軍が尉遅毅うっちき金登目きんとうもくをこちらへ送り込んで来たらどう対処すれば良いのだろうか。呂郭書やその副官の賈循かじゅんでないと対抗できぬ程に強敵だった場合、果たして宵の兵法で対抗できるのだろうか。

 楊良や桜史も威峰山にはいるので何とかなるとは思うが、宵には心のどこかで微かな不安が残っていた。


「宵殿! こちらにいらしたか。お1人で日向ぼっこですかな?」


 そこに元気良く現れたのは楊良だった。

 宵の不安な気持ちをその笑顔はすぐに吹き飛ばしてくれた。髪はしっかりと整えており、宵が知る謝響しゃきょうと名乗っていた頃とは印象が違う。どうやら楊良は、わざとみすぼらしい格好をして、面接官である梟郡きょうぐんの役人達を試していたようだ。見た目に囚われず能力で謝響を採用した事が、今の状況を作っていると思うと、あの時謝響を引き止めておいて良かったと、宵は心の底から思った。


「久しぶりにポカポカ陽気だったので……でももう戻ります。何か御用でしたか? 楊先生」


 宵も笑顔で楊良のもとへ歩みを進めたその時。

 ちょうど宵と楊良の目の前に何かがポタッと落ちてきた。思わず足を止め、2人は空を見上げた。

 そこには1羽の黒いからすが颯爽と飛び去る姿があった。


 宵と楊良はお互い顔を見合わせる。

 2人とも神妙な面持ちになっていた。

 宵のそれは、鴉のふんが降ってきて最悪〜という現代女子大生の感情とは違う。


「これは、吉兆ではないな」


「はい」


「何か良からぬ事が起こるやもしれぬ」


威峰山ここが攻撃されるか、もしくは椻夏……、景庸関けいようかんかも」


「それ以外の可能性も有りる」


「斥候を増やしましょう。私達もすぐに動けるように準備を」


「賛成だ」


 2人の意見が一致すると、お互い頷きすぐそばの本営へ戻ろうと歩き出す。すると、馬に乗った鄧平とうへいが顔色を変えてこちらへ駆けて来た。


「軍師殿! 楊良殿! 敵です! 南50里 (約20km)の辺りに水軍! 数、およそ100隻!」


「朧軍にそんな数の舟を集める余裕……」


 そこまで言い掛けた宵はハッとした。


洪州こうしゅうの水軍。あれは閻の舟だ」


 楊良の視線の先、山頂から遠く水平線の彼方に見える水軍。遠くからでも確認できる大きさの舟は間違いなく大型船だ。それが大半を占めているのを宵も自らの目で確認した。朧軍に降伏した洪州の閻軍が加勢したのだろう。


「さすがは周殷しゅういん。軍師がいなくとも隙がない」


 楊良は顎髭を撫でながら敵の大将を称賛したかと思うと宵へと視線を向けた。


「こうなれば朧軍の動きは儂らの想定の10日程も早いと考えた方が良いな。ことは一刻を争う。鶏陵の朧軍の投降を待つのはやめだ。即刻撃滅させた方がいいだろう」


「駄目です。殺すのは」


 宵は首を横に振る。


「それで味方が窮地に陥る事になってもか?」


「それは……」


黄旺こうおう全耀ぜんようをまとめて始末できる絶好の機会だぞ? こちらに水軍を向ける余裕があるという事は、鶏陵にも援軍を送っているだろう。投降しないのならば、今後の憂いを排除する為にも早急に殺さなければならない。もう猶予はない。やらなければ、こちらがやられる」


「……極力……殺したくはないです……何か策を考えます……何か……」


 宵は俯いて言った。


「軍師殿……!」


 宵のその態度にイラついたのか、鄧平の怒気の篭った声が聞こえた。


「そうか。なら、儂も他の策を考えてみようか。とりあえず、今はここも守らねばならん」


 楊良はケロッとした様子でそう言うと、鄧平に戦闘態勢を取るように指示を出した。すぐに鄧平は馬で本営を駆け回り始めた。


 その様子を見届けた楊良は、兵士を1人呼び寄せ何かヒソヒソと指示を出した。そして、楊良のめいを受けた兵士はすぐに山を馬で駆け下りていった。


「あの、楊先生、今のは?」


「何、気にするな。斥候を命じただけだ。さあ、軍議を始めるぞ、宵殿。帷幕いばくへ」


「あ、はい。それじゃあ、桜史おうし殿を呼んできます」


 宵はそう言って桜史がいる自分の幕舎へと走った。

 身体が震えている。目の前に迫る朧軍の水軍。これまではこちらから攻める事がほとんどだったが、今は違う。宵のいる場所に敵が迫っている。指揮官は誰なのか? 尉遅毅うっちき金登目きんとうもくか? どちらが来たとしても今の威峰山の戦力ではまともに戦っても勝つ事は難しい。兵法が必要だ。

 そして、鶏陵の朧軍を殺さず投降させる方法も考えねばならない。


「大丈夫……! 大丈夫……! 何とかなるって……! 皆いるんだから……」


 慌ただしく横を通り過ぎる兵達を横目に見ながら、宵はそう自分に言い聞かせた。

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