第135話 楊良の工作

 閻軍・威峰山いほうざん


 宵と桜史おうし田燦でんさん、そして、途中から加わった鄧平とうへいの4人は、単身訪ねて来た楊良ようりょうを威峰山山頂の本営に招いた。

 田燦が皆に茶を振る舞うと、宵は自分と楊良の関係を説明した。敵である楊良と知り合いである事を白状してしまったが、田燦と鄧平が宵を咎める事はなかった。


「事情は分かりました。では、楊良殿がここへ御1人で来られた理由をお聞かせ願えますか?」


 田燦が言うと楊良は頷いた。


「儂がここへ来たのは朧軍での工作しごとが終わったからじゃ」


「……と、言いますと?」


「儂が朧軍に仕官したのは、強力な敵国を内部から崩す為。閻を見限って朧軍に力を貸したわけではない」


 楊良の話に4人は目を見開いた。


「本当ですか? 楊先生。それが本当なら……私……凄く安心しました。敵じゃないって事ですもんね?」


「左様。儂は閻の民じゃ。故郷を侵す侵略者を放って置くわけにはいくまい。それに、儂には兵法がある。その力を持ちながら今使わず一体いつ使うのか。なぁ、宵殿。其方も同じ考え故、軍師としてここにおるのだろ?」


「はい、その通りです。……あの、それで工作とは一体何をしてくださったのでしょうか?」


 宵が興味津々に問うと、楊良はふむと顎髭を撫でる。


「まあその前に少し朧軍の話をしよう」


 宵は「はい」と頷く。


「朧軍は閻軍と違い戦慣れしている。北と西の国境と内部の山岳地帯で異民族の討伐をつい最近まで行っていたからな。平和ボケした閻軍とは戦の経験値が違う。まともに戦えば、いくらこちらが領土、兵数、兵糧で勝っていたとて勝ち目はない。宵殿と桜史殿も兵法を学んだのなら、戦の勝敗が兵の数だけで決するのではない事は理解していますな?」


 宵と桜史は頷く。

 楊良の話は兵法の原則をしっかりと抑えていた。兵法という学問が廃れたこの世界で、確かに彼だけは兵法を知っているようだ。


「仰る通りです。しかし、楊先生。朧軍が最近まで異民族討伐を行っていた現役の軍隊だというのは初耳でした」


「宵殿。戦の基本は『敵を知り、己を知る事』ですぞ。いくら己を知ろうとも、敵を知らなければ戦には勝てませんな」


 痛い所を突かれた宵だが、兵法に関してだけは論破されるのは癪に触った。

『彼を知り己を知れば百戦危うからず』は宵が孫子の一文で特に好きなもの。


「それは重々承知しています。楊先生。だから私は閻と朧の事を調べて──」


「調べ切れていないのは其方の能力の限界じゃ。確かに、其方は兵略に長けている。景庸関けいようかんを火攻めで奪い返し、この威峰山と椻夏えんかの朧軍は水攻めで孤立させた。これは紛れもなく其方が持つ兵法の力。しかし、肝心な敵の情報というものを其方は取りこぼしていたのじゃな」


「それは……私が未熟だから……」


「そうだな。だから儂が来た」


「え?」


「儂は其方を梟郡きょうぐんで見付けてから只者ではないと見ていた。其方が途中で軍に召集された時確信した。この娘は兵法を使えるのだと。それから其方への興味が尽きる事はなかった。廖班りょうはん率いる閻軍が、朧軍を奇策で破ったという噂は梟郡きょうぐんにも届いた。廖班がそんな奇策を使えるはずはない。宵殿の力だと確信した。ただ、其方は優秀ではあるが、まだ軍師として以前に、人としての未熟さがあった。故に儂は梟郡きょうぐんを出て、朧軍と戦う宵殿の力になろうと画策した。力を合わせて朧軍と戦おうとな」


 そこまで話すと楊良は一度茶を口に運んだ。皆楊良の話を興味深そうに黙って聞いている。そして楊良は再び話しを続けた。


「そんな時、儂を探しに董炎とうえんの手の者が梟郡きょうぐんにもやって来た。楊良と思しき人物を捕らえよとの命令が下ったのだ。儂の兵法を利用する為だろう。身の危険を感じた儂は即座に梟郡きょうぐんから脱出した。そのまま宵殿を追い葛州かっしゅうへ入ろうかとも思ったが、洪州こうしゅうが陥落した後だったので閻軍不利とみて一旦朧軍へと仕官する事にした」


「それは、初めから朧軍を欺く為?」


「その通り。朧軍を内部から掻き乱して閻軍に勝機をもたらす為の偽装の仕官じゃ。おそらく、そうでもせねばこの後の戦いで必ず閻軍は苦戦する事になると見ていたからな」


「そうだったのですね。初めから閻の為に。そして私を助ける為に……ありがとうございます。でも、素直に董炎に仕えなかったのは何故ですか?」


 宵の質問を聞いた楊良は鼻で笑う。


「董炎のような独裁者の直属の部下になるのは嫌だった。それだけじゃ」


 楊良は平気で董炎の批判を口にした。宵はギョッとして田燦と鄧平の顔を横目で見たが、気にした素振りは見せず、その批判を咎める者はいなかった。


「朧軍での工作しごとが終わった後、初めは麒麟砦きりんさいに行く予定だったが、威峰山が閻に奪還されたと聞いてここへ来たのだ。きっと宵殿がいると思ってな。しかし、桜史殿、何故貴殿は戦わずして降伏した?」


 急に話を振られた桜史だったが、いつも通りの冷静な顔を楊良に向ける。


「指揮官である逢隆ほうりゅう将軍が死に、私だけでは閻軍に勝てぬと思ったからです。部下たちの命も無駄に散らせる必要はありませんし」


「そうか。まあ、賢明な判断だ」


 楊良は桜史の閻軍投降についてはそれ以上触れなかった。


「それで、楊先生。具体的にどんな工作を仕掛けてくださったのですか? 」


 宵が詰めると、楊良はそうだそうだと思い出したように話を続けた。


「朧軍の黄旺こうおう全燿ぜんようという将軍は朧国内部の山岳地帯の異民族の反乱鎮圧で名を馳せた猛将でな、運悪くその2人が椻夏の包囲に回っていた。5万5千の大軍だった。李聞りぶん将軍がいたとしても、とても椻夏の老将王礼おうれいでは勝ち目はない。おまけに全燿は、景庸関けいようかんの戦いで戦死した徐畢じょひつという将軍の娘、徐檣しょしょうも戦場に連れて来ていた。儂も噂程度で聞いた話だが、徐檣じょしょうは父に勝るとも劣らない武力を持ち、全燿もその力を認める程の人物らしい。そんな女まで椻夏の戦線に加えられてはいよいよ閻軍に勝ち目はない。だから儂は一計を案じた。宵殿の水計を利用してな」


「私の水計を?」


「宵殿の水計だけでは椻夏の包囲こそ解く事はできても、黄旺や全燿を倒す事はできない。何故なら、黄旺と全燿は戦慣れしている故に、水没の心配がなく、補給も容易にできる洪州へ後退し態勢を建て直してしまうからだ。それでは結局時間を稼いだだけで、水が引いたらまた奴らは椻夏を攻めに来る。おそらく初陣である徐檣も全燿配下にいる限り一緒に逃げ遂せるだろう」


「確かに……」


「だから儂はまず、徐檣を椻夏に偽装投降させた。黄旺や全燿には、椻夏の城門を中から開けさせる為だと言ってな。儂から合図があった時に城門を開けるように命令しておいたが、もちろん、そんな命令をする事はない」


「凄い、それで徐檣を封じたのですね」


 楊良は頷く。


「そして黄旺と全燿だが、奴らには宵殿が水攻めをして来ると煽り、洪州ではなく鶏陵けいりょうへ退避するように献策した。鶏陵は台地で水は避けられるが、ひとたび水が来ればその進退は窮まり、補給もできない、まさに鳥籠の土地と呼ぶべき場所へ誘導し孤立させた。閻仙・楊良の言う事ならば、まともな将軍程言う事をきく」


「という事は、今まさに黄旺と全燿は鶏陵に孤立して──」


「李聞将軍達の包囲を受けているだろうな」


「それでは前線の有能な敵将は皆、楊先生が無力化してくださったのですね!」


 血を流さずして敵将を封じる。

 これこそが兵法の極意、軍師の策略の真骨頂。

 楊良という老人には、年齢に大差はあれど、その風体ふうていや態度も相まって、三国志において鳳雛ほうすうと呼ばれた蜀の軍師の1人『龐統ほうとう』を彷彿する才能を感じた。

 宵は本物の軍師の策略を身近に感じ、胸が高鳴る。全身の細胞が嬉しさのあまりキュンキュンとしているのを感じる。自分より歳上の頼りになる存在の安心感と言ったら宵の乏しい語彙では表現ができない程に絶対的である。


 そばで楊良の話を聞いていた田燦と鄧平も心強い味方を得た事にようやく微笑みを零す。


「となると楊良殿、残る強敵は周大都督だけという事ですか?」


 1人だけ笑顔を見せていない桜史が落ち着いた口調で問うた。


「いや、それが朧軍の大将周殷しゅういん厄介な2人・・・・・を此度の戦に呼んでいるようなのだ」


「厄介な……」


「2人?」


 宵と桜史はお互い顔を見合わせ眉間に皺を寄せた。


「朧国の東の異民族討伐の戦において、巨大な狼牙棒ろうげぼうで千人を打ち殺した『鉄面狼牙てつめんろうが尉遅毅うっちき』。そして北の鉄馬族の鉄騎兵3万を僅か5百の軽騎兵で破った『大刀旋風・金登目きんとうもく』。朧軍の3本の指に入る実力者だ」


 宵も桜史も田燦も鄧平も、楊良が名を挙げる程の猛将の存在に微笑みをは完全に消えた。辺境で活躍した武将を連れて来るくらい、朧軍は本気という事だ。


「……そんな猛将を閻帝国侵攻に動員していたのですね。……ちなみに……閻軍でその2人に対抗できる将軍はいるのでしょうか? 楊先生」


「そうだな、儂の知る限りでは3人いる。まず1人目は大都督の呂郭書りょかくしょ。そして2人目はその副官の賈循かじゅん。そして3人目は、将軍ではないが、今は確か、葛州刺史費叡かっさゅうししひえいの副官の中郎将、公孫艾こうそんがい。その3人が唯一、朧軍の怪物、鉄面狼牙と大刀旋風に対抗しうる人物じゃな」


 呂郭書の名を聞いて宵は下唇を人差し指で触る。


「呂郭書って確か100万の兵を率いて葛州に向かっているっていう?」


「ああ、100万か。そんなに来るわけがない。せいぜい5、60万だろう。数を大袈裟に言う事は良くある事。それに到着したとしても練度の低い非力な禁軍 (近衛軍) 共だろう」


「そう……なのですね」


「呂郭書が良く訓練された兵を率いたなら敵にとっては脅威にもなろうが、遠征で疲弊した脆弱な禁軍ではむしろこちらの邪魔になるなだけじゃ。永遠に来なくても構わん」


「……なるほど」


「まあ、呂郭書がおらずとも、儂と其方には兵法がある。兵法さえあれば、いくら屈強な武将の率いる軍と言えど打ち破る事ができる。そうであろう? 宵殿」


「はい! その通りです! 楊先生!」


 閻仙と呼ばれる楊良からの言葉は、少し弱気になり掛けた宵を奮い立たせるには十分過ぎた。

 例え相手がどれ程強くても、兵法を知らない相手ならばこちらが勝てる可能性は高い。それに、今は光世も桜史も楊良もいる。戦の終わりも近そうだ。


「これは心強い味方を得た。して、楊良殿。椻夏の方は放っておいても問題ないという事で大丈夫ですか?」


 黙って話を聞いていた田燦は嬉しそうに訊く。


「ああ、問題ない。もはや黄旺と全燿は袋の鼠。李聞将軍が降伏勧告でもしている頃だろう。降伏を受け入れず戦闘になったとしても、陸上の朧軍が水上の閻軍を倒す事は難しい。朧軍に援軍でも来れば別だが、朧軍とて水上を進軍するのは不慣れであろう。水が引くのには10日以上はかかる。到着する頃には、片は付いているだろうよ」


 楊良は涼しい顔で説明するとまた茶を飲んだ。


「まあ、今はここで椻夏からの吉報を待ちましょう。万が一、朧軍が椻夏に援軍を差し向けるような動きがあれば、その時動けば良い」


 堂々たるその余裕に、宵を初め、その場の誰もが安心し頷いた。

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