第131話 宵と桜史

 閻軍領・威峰山いほうざん


 威峰山を奪還した宵は、上陸した先の幕舎でようやく一息ついた。

 投降した朧軍の捕虜およそ1万を、外で田燦でんさん鄧平とうへいが取り纏めている。


 宵の為に建てられた幕舎に、麻の手拭い2枚と、着替えの閻服が兵士によって届けられた。その閻服も女物と男物の2着ある。


「はい。風邪ひいちゃうから、どうぞ」


 宵は手拭いと閻服を貴船桜史きふねおうしに渡す。


「ありがとう」


 桜史は手渡された手拭いを宵から受け取るとすぐに顔と髪を拭いた。


「ごめんね、私と同じ幕舎で。他の幕舎に1人にするのは、まだ危ないかなって……あ! 貴船君が信用できないって事じゃないよ? うちの兵士達の中には、まだ貴船君を疑ってる人がいるから……」


「あ、うん。気にしないで。俺は捕虜の扱いでいいと思ってるのに、瀬崎さんのお陰でこうして乾いた服に着替える事もできるんだから……ありがとう」


「え? ……あ、そんな、着替えなんて全然大した事じゃ……お礼なんていらないし」


「それもそうだけど、命を助けてくれてありがとう」


 濡れた髪を手拭いでかき上げる桜史の凛々しい瞳に頬を染め目を逸らす宵。


 (かっけぇぇぇ……)


 誰が見てもイケメンである桜史の顔を2人きりの時に見ると直視できない。しかも、水も滴るいい男状態。同じ兵法好きである桜史とはもう少し深く付き合うのもありかとは思っていたが、とても自分と釣り合うはずはないと、普段大学では距離を置いていた。桜史から宵に話しかけて来る時はどこかよそよそしく、あまり好かれていないとは薄々感じていた。

 それもあってか、比較的男友達の多い宵であっても、桜史とは深い関わりがない。むしろ光世とは仲が良さそうで2人はデキているのではないかとさえ思っている。光世と桜史が2人でこの世界に来たのもそういう事だったりするのかもしれない。


 宵が桜史と2人きりになるのは実はこれが初めてだ。


「貴船君こそ、私を探す為に朧軍に入って戦に参加してたんでしょ? 光世に聞いたよ。あ、ありがとう」


 桜史の顔をチラリと見て、宵は恥ずかしそうに礼を言う。

 すると、嬉しそうに桜史は頬を緩めた。


「あ……貴船君が笑うの初めて見たかも」


「え? 俺、笑った?」


「うん、笑った。さ、それより、早く着替えちゃいなよ。私、向こう向いてるから」


 そう言って宵は回れ右をした。

 自分もびしょ濡れの髪と顔を手拭いで拭く。

 服もびしょ濡れで今すぐにでも着替えたいところだ。


「瀬崎さんも着替えなよ。俺も向こう向いてるから」


「え? あ、うん」


 咄嗟に返事はしたものの、本当にこちらを見てないのかと、宵はこっそりと振り返り桜史の様子を覗く。

 そこにあったのはすでに新しい閻服を纏った桜史の背中。何という早着替え。もう帯を締めれば着替えは完了というところまで済んでいた。もちろん、宵の着替えを覗こうという素振りはない。

 宵は少しだけ服を脱ぐのを躊躇ったが、桜史は自分みたいな貧乳の幼児体型には興味ないだろう、と思い直し、意を決して帯を外し閻服を脱ぎ捨て裸になった。


「……」


 宵は桜史に背を向けたまま、濡れた身体を手拭いで拭く。身体を拭く音が部屋の中に響くのが恥ずかしい。脚を拭こうと前傾姿勢になった時、ハッとした。尻を突き出すこの姿勢だと、今桜史の方へ宵の大事なところが丸見えではないか! しかし、桜史の方からは何も音が聞こえない。それが逆に不安になる。


「……」


 音が聞こえてしまうのではないかと思うくらいに心臓をバクバクさせ、宵は震える手で急いで脚の水滴を拭き取った。

 一通り濡れた身体を拭き終わると、宵は裸のまま、またチラリと桜史の様子を覗き見る。

 だが、桜史はやはり宵に背を向けたまま腕を組んで俯いていた。

 その桜史の紳士な態度を目の当たりにして、宵は二度も覗き見てしまった自分の行動が恥ずかしくなり、急いで新しい服を纏った。


「お待たせ、着替え終わったよ」


 宵が呼びかけるとようやく桜史はこちらへ振り返った。

 鍾桂しょうけい鄧平とうへいであれば宵の裸をこっそり見ていたに違いないが、さすがは桜史。宵の身体になどまるで興味を持たなかった。……それはそれで悔しいが。


「ドライヤーとかないから不便だよね〜」


「そうだね」


「ね……」


 ダメだ。世間話はお互いできそうもない。こういう時、光世みつよのコミュ力が羨ましくなる。むしろ、光世がいないと、桜史と2人で会話が成り立たない。桜史もどちらかと言うと話す方ではない。いや、ハッキリ言って暗い。


「七歩の詩、あれよく考えたね」


「へ? あ、あれね! 凄いでしょ? 何かね、閃いたの。貴船君なら内容一切変えなくても私の意図汲んでくれると思ったら、見事的中!」


 桜史の機転の利いた話題に宵はすぐに饒舌に返答する。


「あれがあったから、俺は閻に瀬崎さんが居るって確信が持てたんだよ。あと、戦いを望んでいないって意思も分かってホッとした」


「やっぱりちゃんと読み取ってくれてたんだね! 良かったよ、相手が貴船君で……楊良ようりょうとかだったらどうしようかと……楊良……」


 そこまで話して、宵は今の状況の把握の方へ思考を切り替えた。


「そうだ! 貴船君! 楊良っていう軍師に会った? どんな人? 作戦とか聞いてる!?」


 宵が問い詰めるが桜史は静かに首を横に振る。


「いや、会ってない。楊良は椻夏えんか攻略の為、周大都督しゅうだいととくと西にいるよ。俺は椻夏攻略の策は聞いてないんだ。威峰山の攻略を任されてたから」


「……そっか……」


「ごめん。楊良や彼の策は知らなくても、各軍の配置や武将達、兵站の事なら調べたから教えられるよ」


「それはそれですっごく助かるよ。座って」


 宵は桜史を腰掛に座らせると、自分も腰を下ろした。

 そして外の兵士に地図とお茶を用意させ、それらを机に置いた。


「それじゃあ、知ってる事を教えて、貴船君」


「分かった……けど、その前に」


 桜史は辺りに人がいない事を念入りに確認すると、真剣な眼差しで宵を見つめた。

 宵は桜史の目力に負けじと見つめ返す。


「2つ確認したい。まず、厳島いつくしまさんと清春華せいしゅんかさんは無事って聞いたけど、本当?」


「あ、うん。そうだよね。まず2人の事話さなきゃだよね。私ったら戦況の事ばっかり……」


「いや、軍師なんだから、それでいいんだよ」


 桜史は優しい口調で軍師としての務めを果たそうとする宵を肯定してくれた。その言葉で宵の口角は自然と上がる。


「ありがとう。光世みつよ清華せいかちゃんも無事だよ。光世は麒麟浦きりんほの砦、清華ちゃんは……訳あって都・秦安しんあんにいるけど……」


「良かった。清春華って名前はやっぱ偽名だったんだ。実家に帰ったって聞いたけど、秦安がそうなんだね」


「ま、まあ、いずれ清華ちゃんの話はするよ。それで、もう1つの聞きたい事って?」


「もちろん、元の世界へ帰る方法について。だよ。何か知ってたりする? 俺は瀬崎さんのお祖父じいさん、瀬崎教授の竹簡が鍵なんじゃないかと睨んでるんだけど」


 皆まで話さずとも推測で当ててくる聡明な桜史の存在があまりにも心強く、嬉しさのあまり宵から満面の笑みがこぼれた。


「そうだね……じゃあ、その話も今しちゃおっか。大丈夫。私は軍師に馴染んじゃってるかもしれないけど、ちゃんとおうちに帰りたいから」


「良かった。それを聞いて安心した」


 桜史のクールな顔にも柔らかな笑みが浮かんだ。




 ***


 威峰山が再び宵達閻軍によって奪還されたその日の夜。

 夜陰に紛れて小舟が1艘、濁った水の上を進んでいた。

 雨は止んでいた。長かった雨季もようやく終わりを迎えた。ただ、空にはまだ厚い雲がゆったりと風に流れている。


「旦那、駄賃を弾んでくれるからこんな遅くに舟出してますけど、近くでは戦をやってるんですぜ? 敵だと思われたら俺たちゃ殺されますぜ」


 船頭の男が言うと、客の老人はガハハと笑った。


「大丈夫だ。心配するな。万が一怪しまれたら儂が上手いこと言いくるめてやる。いいからもっと速く漕いでくれ」


 言いながら、客の老人は手に持っていた小さな酒甕の酒をグビっと呑んだ。


「旦那、一体何者なんですかい? 頭がおかしい爺さんてわけじゃなさそうだ」


「今は無職のジジイだ」


「無職でも、カネをくれるんならお客様だ。……にしても、この洪水は難儀ですわな。うちの村も水に浸かったところがありますぜ。幸い死人はいないから良かったですがね。畑仕事には支障が出ますわな」


「だが、唯一船頭のお前さんにとっては稼ぎ時であろう?」


「ま、そうですな」


 船頭と客はそんな話をしながら静かな水面みなもを進む。水面みなもにはいつしか綺麗な月が映り込んでいた。

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