第130話 宵、窮地にて兵法を諳んじる

 雨に打たれる船上で瀬崎宵せざきよい貴船桜史きふねおうしに覆いかぶさったまま震えていた。


「軍師殿、何故敵の軍師を庇うのですか?」


 鄧平とうへいが傍にしゃがみ込んで宵に問う。

 混乱する頭の中を、宵は必死に整理して言い訳を考える。もし桜史と友だという事がバレたらきっと敵と通じていたとして殺されるだろう。姜美きょうめいがいない今、庇ってくれる者などここにはいない。


「わ、私は……」


「何です?」


 か細い宵の声に鄧平が耳を寄せる。

 周りの兵達はどうしたものかとザワついている。


「私は、誰も殺さず捕えるよう命じました」


「お言葉ですが軍師殿。逢隆ほうりゅうは軍師殿を殺そうとしたのですよ? 向こうが先に手を出したのです。奴を斬るのは当然」


「でもこの軍師は何もしていませんよ!」


「逢隆と共に来た軍師です。その男が軍師殿の暗殺を画策したのかもしれません」


「だからって、まだ何もしてないのに、いきなり殺すなんて野蛮過ぎます!」


 すると鄧平は大きな溜息をついた。


「私には軍師殿が別の意図でその男を庇ったように思えました。もしかして、その男と顔見知りだったのでは──」


 宵は怒りの形相でムクリと起き上がる。


「鄧平殿! 貴方は馬鹿ですか!? そうやって兵法を知る者を蔑ろにしていては朧軍に勝てませんよ?? この者は私の十面埋伏じゅうめんまいふくを破った策士です! “三略さんりゃく”という兵法書には『天下の英雄をあみすれば、すなわち敵国きゅうす』とあります。天下の逸材を漏れなくこちらが登用する事で、自国を強化し、敵国を弱体化させる事だって出来るのです! みすみす殺すなど馬鹿としか言いようがない! 馬鹿!」


 怒鳴った事などほとんどない宵は必死に大声を出して鄧平の間違った考えを咎める。

 普段見せない憤慨した宵には、さすがに宵に首ったけの鄧平も引き気味に顔を引きつらせる。


「お、おお、軍師殿。そんな馬鹿馬鹿と罵らないでくださいよ。私は軍師殿を虐めたい気持ちはありますが、虐められたい趣味はありません」


「はぁ!?」


「あ、いや、だからその、怒らないでください。確かに兵法を知る者を安易に殺そうとしたのは迂闊でした。お許しを」


「分かれば……いいです。桜史殿、大丈夫ですか?」


 拱手して頭を下げた鄧平から視線を逸らすと、今度は桜史へと視線を移した。


「ああ……ありがとうございます。怪我はないですよ。さすがに……ビックリしましたけど」


 桜史はそう言いながら上体を起こした。桜史も他人行儀な口調で初対面を装ってくれている。

 鄧平や周りの兵達も皆黙り込んでただ宵と桜史を見る。

 すると、気を取り直して宵は再び鄧平へと視線を向けた。


「鄧平殿」


「は!」


「逢隆は死んだのですか?」


「はい! 私が斬り捨てました!」


 宵は無言で頷く。


「桜史殿。逢隆は死んだようです。貴方に残された道はもう1つしかないかと思いますが……どうします?」


 宵は桜史の瞳を見つめる。

 桜史は黙って頷いた。


「宵殿に救われた命。自ら捨てる事など出来ません。投降いたします」


 桜史は拱手した。

 それを見て宵は唇を噛み締める。今すぐ、桜史をぎゅっと抱き締めたい衝動を何とか抑える。


「分かりました」


 宵は淡白に返事をした。


「では、早速で申し訳ないのですが──」


「分かっていますよ、威峰山の兵達を説得して来ます。逢隆将軍がいない今、威峰山の軍は私直属の軍です。また舟をお借り出来ますか?」


 皆まで言わずとも桜史は宵の考えを見抜いていた。宵が鄧平に指示を出すと、逢隆と共に乗って来た舟を用意し、そこに再び桜史は乗り込んだ。付き添いで鄧平と数人の兵士も同乗する。


「鄧平殿、桜史殿を頼みます。絶対、危害は加えないでくださいね」


「軍師殿の命令とあらば、必ず守ります」


 頼もしくも鄧平はそう言って拱手した。普段は変態的な男でも、戦場では宵を危機から救ってくれる頼れる武将である。そして、宵への忠誠心も高い。それが下心からなのか、純粋な主従関係なのかは分からないが。

 宵はそのまま甲板に残り、桜史と鄧平の遠ざかる後ろ姿を眺めた。


 そして四半刻 (約30分)もしない内に、舟から見えていた威峰山の朧軍は、次々に武器を捨て、水際へと集結した。


 その様子を見て、宵はようやく大きく息を吐き、胸を撫で下ろすとその場に膝から崩れ落ちた。




 ***


 葛州かっしゅう鶏陵けいりょう


 雨はだいぶ弱まっていた。

 朧軍の黄旺こうおう全耀ぜんよう率いる5万5千もの軍は鶏陵の台地に避難を終えた。だが、全耀の予想通り、軍は四方を水に囲まれ完全に孤立してしまった。

 校尉達が馬を駆け回らせて混乱する兵達を叱咤している。


「楊良殿が見当たりません!」


 軍を見回っていた校尉の1人が黄旺に報告に来た。


「何!? 全耀! 楊良殿を最後に見たのは?」


 黄旺に問われ、隣に馬を並べていた全耀は顎髭を撫でながら記憶を辿る。


「つい四半刻 (約30分)程前、最後尾の歩兵部隊の様子を見に行くと後方へ移動して行ったのを見たのが最後です」


「馬鹿な! それではぐれたのか!?」


「いえ、そんなはずは……歩兵部隊も全員この鶏陵へ到着していると報告がありました。楊良殿だけはぐれるなど……」


「現におらんのだろ!?」


 珍しく怒りと動揺の色を浮かべる黄旺。無理もない。この後どうするかは楊良しか知らない。その楊良がいなければ、このまま孤立無援の状態で閻軍が水軍を率いて包囲されるのを待つしかない。


「楊良殿を失っては我が軍もそうだが、儂の面子も立たん! 一体大都督に何と申し開きをすれば良いのだ」


 頭を抱える白髭の老将を横目に全耀は思案する。そして、ある恐ろしい事を思い付く。


「もしや、楊良殿は我々をこの鶏陵に誘導し、わざと閻軍の虜にさせるよう仕向けたのでは……?」


 その発言に黄旺はギョッとして目を見開く。


「何だと!? 何故楊良殿がそのような事……」


「楊良殿が閻軍と通じていたとしたら……辻褄が合いませぬか?」


「まさか……そんな……我々を鶏陵に待避させたのは水を避ける為ではなく、閻軍に捕らえさせる為??」


「この状況では、そう考えるのが妥当かと」


「あの狸爺め!!!」


 黄旺は顔を赤黒くし怒りに震えながら天に吼えた。


 そんな時、北東の方角から何艘もの舟が雨をかき分け続々とこちらへ向かって来るのが見えた。

 兵達が騒ぎ始める。


「閻の水軍か……!!」


 黄旺は双鞭そうべんを握り締め、水軍が来る方角へと馬を出す。


「狼狽えるな! 所詮閻軍は戦に関しては素人! ましてや水軍などで戦えるはずがない! 我々に負けはない! 必ず大都督が援軍を送ってくださる! それまで耐えるのだ! 降伏する者は斬る!」


 黄旺の大きな声は狼狽えていた兵達を一瞬で落ち着かせた。さすが百戦錬磨の老将である。


 全耀も手に持った槍をブンと振り回し、先頭に立った黄旺の隣へと馬を寄せ、閻軍の大船団へと向かった。

 いつの間にか、雨は上がっていた。

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