第132話 戦友の娘

 閻軍・鶏陵けいりょう


 姜美きょうめいらが水軍を率いて椻夏えんかにやって来ると、李聞りぶんはすぐに張雄ちょうゆう楽衛がくえい成虎せいこ龐勝ほうしょうの4名を連れて舟に乗り込み、合計3万と1千の兵が乗る船団で、鶏陵けいりょうに向かい、黄旺こうおう率いる朧軍5万5千を包囲した。

 この頃にはもう雨も上がり視界もだいぶ回復していた。


 椻夏より東の威峰山いほうざんには宵や校尉の田燦でんさん鄧平とうへいらが向かったと姜美から連絡があったが、この洪水のせいで伝令も遅く、まだ状況は分からない。


 朧軍は水から逃れる為に鶏陵の台地に退避したので、周囲は水に囲まれてしまい進む事も退く事も出来ない状況になっていた。

 こちらの接近が確認できた当初は血気盛んに水際まで軍を進めて戦う意思を見せていたが、こちらがただ包囲だけして様子を見ているだけだと知ると、誘き出そうと罵詈雑言を飛ばし挑発を始めた。

 もちろん、李聞はそのような見え透いた挑発には乗る事はない。


閻仙えんせん楊良ようりょうという男は、やはり大した事がなかったという事か。孤立する土地に軍を移すとは」


 船上で李聞はそう呟いたが、あれだけ噂になっていた兵法家の男がこんな失態をするとはにわかには信じ難い。これも罠なのか。

 だが、状況は誰が見ても閻軍の優勢。舟から矢を射掛ければいくら朧軍の方が兵力が上と言えどすぐに殲滅できる。


 ──しかし、無駄な殺しは無用。


 李聞は挑発を続ける朧軍に向かい降伏勧告を始めた。




 ***


 朧軍 (黄旺こうおう全耀ぜんよう軍)・鶏陵


 閻軍が見えた当初は、その船団に向かって水際ギリギリまで兵を進め交戦の意思を見せた黄旺と全耀だったが、閻軍は応戦する様子はなかった。それ以上は騎兵も歩兵も進めない。

 仕方なしに、黄旺は兵達に閻軍へ罵詈雑言を浴びせ挑発するように命じたが、それから1日が経っていた。それでも閻軍は仕掛けてこない。ただこちらが疲弊するのを待っている。朧軍が椻夏を包囲した時のように。

 兵糧は運んで来られたがたったの7日分。さらには、朧軍の中には一晩中雨に晒され続けたせいで風邪を引き倒れる兵も出始めている。雨は上がったとは言え、そう長くは持ちそうもない。


 しばらく膠着状態が続いたが、閻軍が攻撃してくる事はなく、ついに降伏勧告をして来た。

 もちろん、黄旺は勧告に応じるつもりはない。降伏するくらいなら死ぬ覚悟だ。



 全耀ぜんようにもその覚悟はあった。

 だが、直前になって心残りができてしまった。

 友人、徐畢じょひつの愛娘、徐檣じょしょうの安否である。

 楊良の話では、機を見て椻夏に潜り込ませた徐檣に門を内から開けさせ、そこへ黄旺・全耀の軍が雪崩込む算段だった。だが、もはやこの状況でその策が成功するとは思えない。そうなった場合、徐檣はどうなる? 永遠に閻軍に偽装投降したままになるのか? あの娘の性格ではその内痺れを切らせて閻軍内で無謀に暴れて捕まってしまうのではないか?


 そんな不安が後を絶たなかった。せめて死ぬ前に徐檣の安全だけは確認したい。


「ええい! 楊良め!! 見付けたらただでは済まさんぞ!!」


 ふつふつと湧き上がる無責任な楊良への怒りが、温厚な全耀の口から吐き出された。


「全将軍! 閻軍の奴らにありったけの矢を食らわせてやろう! 降伏勧告の為に近付いて来たあの指揮官の乗る船ならこちらの矢は届く! 1人でも多く閻軍を減らせ!」


 全耀の嘆きを聞いた黄旺は目の前の敵にのみ集中していた。それは勇猛果敢。祖国への忠義の揺るがないまさに武人の鑑だ。


「歩兵部隊は盾を構えよ! 弓兵構え! 閻軍の船に矢の雨をくれてやれ!! これが我々の答えだ!!」


 黄旺の号令と共に矢の雨が、閻軍の母艦へと降り注いだ。


 投降を受け入れていたなら、徐檣と再会できたかもしれない……。

 そう考えた全耀だったが、その考えが無意味な事を理解し、槍をぬかるんだ地面に突き刺すと、自らも弓を取り、閻軍に矢を放った。



 ***


 時は少し遡り、閻軍が出陣した直後の閻軍・椻夏えんか城内。


「ねぇ、鍾桂しょうけい! 皆出陣したのに、私は何故置いてけぼりなの!? 皆、朧軍を倒しに行ったのでしょ??」


「そうですが、貴女はまだ投降したばかり。すぐには連れて行けないでしょう? 兵だってまだ与えられていないんだから」


 部屋から出ようとする徐檣じょしょうの腕を鍾桂は必死に引っ張り中に戻そうと引きずる。しかし、徐檣は駄々をこねる子供のように首を横にぶんぶんと振り無理やり出て行こうと抵抗する。


「だっておかしいじゃん! 椻夏は朧軍に包囲されてたでしょ?? なのに、ほぼ全武将が出陣したみたいじゃん?? 総攻撃って事でしょ?? て事は、朧軍が押されてるって事じゃないの?? 勝てそうだから、皆出てったんでしょ??」


「俺も詳しくは知らないけど、そうみたいだよね。大方、水攻めが成功して、朧軍を散り散りにできたんじゃないかな?」


「そんな……!? 水攻めって……どういう事!?」


「何でそんなに焦ってるの? 徐檣」


「あ、いや、焦ってるわけじゃ……」


「閻軍は初めから水攻めを狙ってたんだ。低地に布陣した朧軍を河の水で押し流してしまおうってね。この城も下の階は水が来てるはずだ」


「じゃ、じゃあ、椻夏を包囲していた朧軍は皆水に??」


「俺も見たわけじゃないし、状況も知らないからそこまでは分からないな」


 何故かソワソワしている徐檣を、鍾桂は怪訝そうに見つめる。


「おじさんが……」


「え?」


「私の父上の友達が……あの軍にいるの。おじさんも……水に流されちゃったかもしれない……」


 今にも泣きそうな顔で徐檣は鍾桂の両肩を掴む。


「そう……なんだ……ま、まぁ、李聞将軍の事だから、無益な殺生はしないよ。上手く水を逃れて李聞将軍達に包囲されてたなら捕虜として捕えられるはず。殺しはしない」


「私……こんな事になるなんて予想してなかった。おじさんが危険な目に遭うなんて……だっておじさん、強かったから……父上と同じ戦場で戦ってきた武人だったから……」


「……そっか。でも、今俺達に出来ることはない。ここで待つ事しかできないよ」


 徐檣の言動はどこかおかしい。自軍に身の安全を心配する人物がいたのに、何故1人だけ投降して来たのか。投降すればその人物と敵同士になってしまうという事が分からなかったのか。

 答えは否。徐檣の投降はやはり偽装。本当は椻夏の閻軍を内側から攻撃する為に送り込まれた間諜だったのだろう。決して頭の良いわけではない鍾桂にさえそれが分かってしまうのは、徐檣という女が浅慮で幼稚だからだ。

 そんな素質の欠ける徐檣を、重要な間諜の任務に充てるとは、朧軍の上層部は大した事がないのか、もしくは相当な人材不足かどちらかだろう。


「私……怖い……また私の大切な人が死んじゃうの……耐えられない、今度は私……壊れちゃうかも」


 徐檣はついに涙を零し鍾桂の胸に顔を埋めて嗚咽を漏らし始めた。

 この女がどんな過去を背負っているのか鍾桂は知らない。ただ、自分より過酷な人生を歩んで来たのだろう事は容易に想像できた。

 例え浅慮で幼稚でも、この女が敵だとしても、この涙は本物だ。

 しかし、鍾桂には震えて泣く徐檣を優しく抱き締めてやる事しかできなかった。

 どうかこのままこの女が、自分が敵である事を言い出さない事を願って。

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