第128話 威峰山包囲、交わる視線

 露橈ろうとうに乗り込んだ宵は、茶色く濁った水の上を進み威峰山いほうざん方面へと南下した。


 露橈ろうとうは中型船であるが、小舟である走舸そうかを何百艘も引き連れていればその舟に指揮官が乗り込んでいる事は一目瞭然。

 露橈ろうとうは全部で6艘を葛州かっしゅう各郡から集められたが、他の4艘は姜美きょうめいの方へと回した為、宵が率いる軍には宵自身が乗り込んだ1艘と伯長はくちょうに指揮させているもう1艘の計2艘しかない。姜美きょうめいの方は、いずれ李聞りぶんのいる椻夏えんかの軍と合流し露橈ろうとうを引き渡す手筈になっているので宵の方に回せないのは致し方ない事だった。


 この世界の舟はまさに三国志に登場する木造の手漕ぎの舟ばかり。波が穏やかな広い河川や湖での航行に適した、船底が平べったい構造になっている。いわゆる、竜骨のないジャンク船である。

 資料でしか見た事がなかったその舟に乗れた事は宵にとって狂喜乱舞したい程だった。しかし、そんな嬉しさを外に出せるような雰囲気ではないので、小躍りしたい気持ちを押し殺し、宵は雨の降りしきる甲板の上で近づいて来る威峰山をただ黙って眺めた。


 閻の兵士達は、舟での戦の経験こそないが、日常的に河川で舟を使う事があるようで、ただ操舵するだけなら特に苦労する事もなくやってのける。お陰様で麒麟砦きりんさいから威峰山の麓までは滞りなくやって来れた。船酔いする兵士は多少はいるがほとんどがしっかりと仕事をしている。宵も船酔いする事なく、ケロッとして平たい胸の前で白い羽扇を撫でた。

 ただ、やはり姜美も副官の鄧平とうへいもいない状況で戦場に出るのは初めての事で心許ない。姜美や光世には気丈に振舞ったが、今はどうしようもない不安に苛まれる。


 やがて、高台に避難していた田燦、鄧平の軍が見えて来た。



 ***


 ~朧軍・威峰山~


「どうするのだ! 桜史おうし! 水に囲まれたぞ!?」


 怒りに顔を真っ赤にした将軍の逢隆ほうりゅうが軍師の貴船桜史の幕舎まで来て詰め寄った。

 無能な逢隆が怒り狂う事は想定内だった桜史は、涼しい顔をしたまま逢隆の怒りに歪んだ顔を見る。


「進む事も退く事も出来ぬ! 補給線も絶たれた!」


「落ち着いてください逢隆将軍」


「落ち着けだと!? この状況で!? 貴様が高い場所は有利だからと言うからこの山に布陣したというのに! 何かこの状況を打開する策があるのだろうな!?」


「ここに布陣していたからこそ、この洪水で損害が出なかったのではありませんか」


「それは……! そうだが……」


 逢隆は桜史が気に入らないのだ。それ故にこの状況を桜史1人の責任にしようとする……とは言っても、逢隆の言う通り、この状況を作り出したのは桜史の策略なのだが。


「桜史、貴様は閻軍が水攻めをしてくる事を知っていたのか? だから安全な威峰山に留まったと?」


「この長雨です。閻軍が水攻めをして来なくとも、河が氾濫する可能性は十分にありました。山頂であるこの場所は水攻めの直接的な損害を受けません。それに、例え補給線が絶たれても、兵糧は一月ひとつきは持ちますし、水はこの雨水で補給も出来ます。この山には湧き水もありますし」


「兵糧が底を尽きたらどうするつもりだ! 水には困らなくとも、腹が減っては戦は出来ぬだろう!」


「一月あれば雨も止んでいるでしょうから水は引いてますし、その間に後方の洪州から援軍が来ますよ」


 落ち着いて兵糧や後の事を説明すると、ようやく逢隆は怒りを鎮めた。


「では、我々はこのまま一月。洪州から援軍が来るか水が引くまでここに閉じ込められたまま大人しくしてろと言う事か??」


「そうなりますね。他に出来る事はありません」


 桜史のやる気のない発言に逢隆は舌打ちをして睨みつける。

 と、その時、慌てた様子で兵士が1人幕舎に報告に入って来た。


「報告! 麓に閻軍の水軍が集結しております! 前方にも、後方にも! 我々は……完全に囲まれました!」


「水軍だと!? 馬鹿な!! いくら何でも早過ぎるだろ!? まるで閻軍は洪水を予測していたかのようではないか! ……まさか!」


「閻軍の水計……という事ですか。なるほど、女軍師は大胆な計略を使いますね」


「呑気な事を……! おい! 馬を持て! 様子を見に行く! 桜史! 貴様も来い!」


 またしても怒り始めた逢隆に急かされ、桜史はやれやれと腰を上げると逢隆に続き幕舎を出た。報告に来た兵士は急いで逢隆と桜史の馬を近くの兵士達に連れて来るように伝える。

 水計は宵の策略だろう。宵が動いたのだ。桜史はこれを待っていた。宵が動くのを。


「何とかしてもらうぞ! 桜史!」


「ええ。何とかしましょう」


 馬に飛び乗った逢隆の言葉に軽く返すと、桜史も馬に跨った。



 ***


 田燦でんさん鄧平とうへいと合流した宵は彼らの兵達も舟に乗せると総勢2千の兵を引き連れ威峰山の包囲へと向かった。


「また軍師殿の副官に戻れて光栄の極みです。田燦と2人の時は何の楽しみもなくまさに苦痛でした」


 自らの舟に同乗させた鄧平はさぞ嬉しそうに宵の隣で思いの丈を述べた。


「貴方を乗せたのは私を守ってもらう為です。それが貴方の仕事なので。決して、貴方に気があるからではありません。勘違いしないでくださいね」


 ツンとした態度で言い放つも、やはり鄧平には堪えていない。はいはいと嬉しそうな顔をして、宵が照れ隠しを言ったような扱いをしてくる。まあ、こんな男でも、いないよりはマシである。ここに来るまでに抱いた不安や緊張感は尋常ではなかったが、鄧平に会えてその不安も緊張も半減した。この男なら宵を命懸けで守ってくれるというのもそうだが、戦場ではかなり頼りになる事は間違いない。


「しかし、まさか河の水を利用するとは、何たる奇策。軍師殿にしか思い付かない。やはり貴女の兵法は素晴らしい!」


「え……そ、そうかな? そんな、大した事ないですよぉ」


 急に褒められた宵は頬を緩めモジモジとする。その仕草を見た鄧平は悶えるように身体を震わせている。


「そ、それより、今は気を引き締めてください! 鄧平殿! 威峰山の朧軍を降伏させるのですから。私達が腑抜けていてはいけません。私を褒めるのは後にしてください」


 宵は特に乱れていない髪を整えながら鄧平を叱責する。


「御意!」


 しかし、その叱責さえも、鄧平にはご褒美にしかならないようだ。まあ、それでしっかり働いてくれるなら良いのだが。


 やがて、宵の乗る露橈ろうとうは威峰山の朧軍の兵士達の顔が見えるくらいの位置まで接近し錨を下ろした。


「それじゃあ、鄧平殿。私の代わりに降伏勧告をお願いします」


 宵はあらかじめ降伏勧告を書いておいた竹簡を鄧平へと渡した。

 鄧平はそれを開いて一通り目を通す。

 その間に宵は威峰山の兵達の観察を始めた。

 閻軍が舟で押し寄せたのを物見遊山気分で麓辺りまで見に来た兵達が誰も彼も恐怖におののいて騒いでいる。統率が取れているようには見えない。


「『軍みだるる者は将重からざるなり……』威峰山の大将は大した事がなさそうですね」


 そう呟いた宵を隣の鄧平がニヤリと笑って見つめてきた。


「軍師殿が兵法を唱えるの、狂おしい程に好きです」


「いいから! 早く勧告しなさい!」


 照れながらも怒る宵を他所に、鄧平はキリッと目付きを変え、背後に控えている太鼓隊へ合図を出した。

 すると「ドンドンドン」と太鼓が打ち鳴らされ始めた。

 鄧平が一歩前へ出る。

 再び鄧平が合図をすると太鼓が止まった。


「朧軍に告ぐ! 貴公らは完全に包囲されている! 今大人しく降伏する者は丁重に扱い命は奪わない! 降伏したい者は武器を捨て、鎧を脱ぎ水際まで降りて来るように!」


 鄧平の降伏勧告を聞いた朧軍はさらにざわつき始めた。ここまで混乱しているなら投降する者も出て来るはずだ。

 どうやら、桜史は宵の存在に気付き、水攻めの対策は特にせず、兵達を纏める事もせず、わざと放っておく事で不安を駆り立て軍としての戦力を削いだのだろう。

 桜史がいれば威峰山の朧軍を全て投降させる事も出来るはずだ。


「朧軍よ! 指揮官か軍師はおらんのか! 話をしようではないか!」


 鄧平はさらに呼び掛けた。

 これで桜史が出て来れば……。


 その時────


 威峰山の木々の間を駆け下りて来た数騎の中に、見覚えのある顔の男がいるのを見付けた。


 甲板の手すりギリギリまで足を進め、目を見開きその男の姿を良く見る。

 すると、男もこちらに気付き宵へと視線を向ける。


 お互いの視線が交わった。

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