第127話 水はたちまち大地を呑み込んで

 ~朧軍ろうぐん黄旺こうおう軍~


 雨の中、全燿ぜんようは軍を鶏陵けいりょうへ向かい駆けさせた。

 前方には黄旺こうおうの5万の軍、その後ろに全燿の5千の軍が追従する形だ。

 軍師の楊良ようりょうは全燿の隣を駆けていた。

 文官の老人にしては馬に乗り慣れている。普段から学問だけではなく至る所を馬で駆け回ったりしていたのだろう。


 しばらく駆けていると、前方、まだかなり遠いが丘のような場所が見えてきた。目的地の鶏陵だ。

 鶏陵は椻夏えんかの西にある高台の土地で、この辺で唯一水没から逃れられると言う。水没を回避する為には打って付けの土地だが、全燿はその後が不安だった。鶏陵に軍を避難させた後、周りが水没し身動きが取れなかった場合、閻軍に包囲されてしまうのてはないか。


「軍師殿! 鶏陵へ退避した後、閻軍に包囲されたら一体どうやって切り抜けるおつもりでしょうか?」


「水没した後に鶏陵を包囲するとなると閻軍は舟を使うな。だが、奴らは戦に不慣れな連中だ。ましてや水軍の扱いなど到底知らぬ。いくら舟を集めようが無駄な事。奴らは策はあっても軍の実力が伴わん。そこを突けばこちらにも反撃の余地はある」


「なるほど……具体的にはどのような反撃を?」


 全燿がさらに詰めると、楊良は溜息をついた。


「今はそんな話よりも鶏陵へ急ぐ事が先だ。逃げ遅れれば瞬く間に我々は水に呑み込まれて全員死ぬ。貴殿は河の水が溢れて街を呑み込む様を見た事がないのだろう?」


「はい」


「やはりな。だから緊迫感が足りないのだ。良いか? 貴殿がそのように悠長な態度では兵達にも遅れが出るのだ。一刻も早く鶏陵へ軍を避難させるのだ」


「御意!」


 楊良の言う事は正しい。確かに今は水が来ない場所へ避難する事が急務だ。後の事はとりあえず避難が完了してから楊良に聞けばいい。


「全将軍。それがしは後方の歩兵隊の様子を見て来る。貴殿はこのままこう将軍の軍に追従しながら鶏陵を目指せ。良いな?」


「心得ました! 楊良殿、お気を付けて!」


 全燿が言うと、楊良はうむと自信満々に頷き馬首を返して隊列の後方へと駆けて行った。

 その姿を横目で見た全燿は大声で号令をかけつつ兵達を走らせた。



 ♢


 洪州こうしゅう・朧軍本営~烏黒うこく郡・烏黒城~


 椻夏より南に300里 (約120km)の烏黒に朧軍大都督周殷しゅういんはいた。

 雨の中休まず駆けて戻って来た斥候の兵士が持って来た閻軍による水攻めの情報を聞き、周殷は急いで机に広げた葛州かっしゅうと洪州の地図を凝視した。


「鶏陵……楊良は椻夏を包囲していた5万5千の全軍を鶏陵へ移動させたのか?」


「はい。全軍です。間違いありません」


 斥候の兵士は迷いなく応えた。


「確かに、鶏陵は他の地よりは標高が高いようだが、地図を見る限りだと、浸水した場合鶏陵は孤立する。その事を閻の生まれの楊良が知らぬとは思えん。何か策があるのか……」


 言いながら斥候の兵士に目をやったが、兵士は何も知らぬようで微かに首を横に振った。


「私も出よう。何か嫌な予感がする。尉遅毅うっちき金登目きんとうもくを呼んで来い。出陣だ」


 2人の名を聞いた兵士はギョッとして目を見開いた。その2人を同時に、しかも周殷自らが連れて行く事が信じられないと言わんばかりの驚愕ぶり。


「ぎょ、御意!」


 周殷が真面目な顔で兵士を見ていると、ようやく冗談ではないと理解したのか、兵士は慌てて雨の降りしきる陣営へと飛び出して行った。


 1人になった部屋で、周殷はおもむろに刀掛けに掛けておいた刀を手に取り、スラッと鞘から引き抜いた。

 刀身は良く研ぎ澄まされており、周殷の顔がハッキリと映り込む。


「さて。小娘軍師の自慢の兵法とやらを、完膚なきまでに叩き潰してやろうか。全ては閻の民の為に」


 周殷は誰もいなくなった居室で1人そう呟いた。



 ***

 ~葛州・麒麟砦きりんさい


 荒水こうすいの水は堰が切れるとあっという間に低い地へと溢れ出し、その茶色の濁流が草木を呑み込み、田畑や農民達の荒屋あばらやさえも呑み込んだ。水の流れは凄まじく、どんどん辺りは水没していく。そして1刻 (30分)もしないうちに、麒麟砦きりんさいの方まで水が押し寄せて来た。あっという間に河の真ん中に取り残されたようになってしまったが、頑丈に造られている麒麟砦はビクともしない。水攻めに備え日々兵達に補強させておいた甲斐があった。

 外に繋いでいた千隻もの艦船は水に浮かびようやく様になった。

 孤山である威峰山いほうざんの方にもすっかり水が来ており、貴船桜史きふねおうしら山頂の朧軍は前に進む事も後ろに退さがる事も出来ない。


「艦船を出し威峰山を包囲します!」


 肌寒い雨の下、綸巾かんきんの代わりに笠を被った宵の号令と振られた白い羽扇に呼応して、麒麟砦の姜美軍は喊声を上げ皆一目散に砦の外に出しておいた中型船の露橈ろうとうや小型船の走舸そうかへと砦の外壁から飛び降りて乗り込んでいった。


「予定通り、姜将軍は兵1千、艦船5百を率いて椻夏の李聞殿と合流し、鶏陵へ逃げた黄旺の軍を包囲してください。私は同じく兵1千、艦船5百を率いて田燦でんさん殿達と合流し威峰山の包囲に向かいます。麒麟砦の留守は光世、お願いね」


「軍師殿、本当にお1人で大丈夫ですか? 光世先生も」


 宵の隣の武将モードの凛々しい姿の姜美が心配そうに2人に訊く。

 すると、宵と同じく笠を被っている光世が浮かない顔をして応える。


「私は朧軍とは戦わないからここに1人で残るのはいいけど……やっぱり宵が心配」


 姜美同様に心配そうに宵を見つめる光世に、宵は逞しくも「うむ」と頷いた。


「大丈夫。私は1人じゃない。田燦殿と鄧平とうへい殿がいる。それに、朧軍の奇襲から生き残った校尉達も。皆と合流したら大丈夫だよ」


「でもなあ……」


「私以外行く人いないんだし、それに桜史殿は私が行って話した方がいいでしょ。私の姿を見せて……安心させてあげたい」


「宵……」


「軍師殿のお覚悟、 ご立派です! 感服いたしました! また、必ず会いましょう」


 姜美は頭を下げ拱手した。

 将軍が中郎将の宵にそこまで礼を示す必要はないと言うのに、姜美はまるで天子に敬意を示すかのようにしっかりと頭を下げていた。

 そして頭を上げるとキリッとした顔になり、腰の刀を引き抜き雨天の空へと掲げた。


「水軍部隊! 軍師殿を必ずお守りしろ! 逆らう者は斬る!!」


 姜美の号令に舟に乗り込んだ兵士達はまた喊声を上げて応えた。士気はかなり高い。


「宵。頑張って!」


「うん! 光世もね!」


「任せて!」


 笑顔で応える光世。その笑顔が作り笑顔だというのは宵には分かった。何故なら、宵も作り笑顔を浮かべたから。

 宵も光世も同じ気持ち。多少の不安や恐怖こそあれど、宵は覚悟を決めて一歩踏み出した。

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