第126話 宵、命を下す

 閻軍~椻夏えんか


 宵が荒水こうすいの堰を切ると言っていた正午まであと2刻 (1時間)。急に城を包囲していた朧軍の動きが慌ただしくなった。

 陣を撤収し隊列を整え始めたのだ。

 宵の話では、2刻前に間諜を使い敵に水攻めを報せ、朧軍に考える暇を与えずに鶏陵けいりょうの丘に退避させ、水が朧軍の退路を絶ったところへ椻夏と麒麟砦きりんさいの軍で包囲するというものだ。そうする事で朧軍と交戦せず降伏させる事が出来るはずだと言う。


 朧軍が陣払いしだしたという事は、まさに間諜がこちらの水攻めの情報を流し、朧軍を動かす事に成功したと見て間違いないだろう。


 状況を分析しながら、李聞りぶん王礼おうれいと共に椻夏の角楼から慌ただしい朧軍の動きを眺めていた。


徐檣じょしょうはどうしている? 何か妙な動きはないか?」


 不意に李聞は背後の衛兵に訊ねた。


「いえ。特に報告は受けておりません。何度か城内を監視の兵と共にウロウロしているところを目撃しましたが、騒ぎもありませんので今のところ問題ないかと」


「まあ、眼前の朧軍があの状況では、徐檣が内通者だったとしても何も出来ぬか」


 李聞はそう言うと衛兵を下がらせた。


「王将軍。昨日、徐檣に朧軍の包囲の弱点とやらを聞いてみましたが、どうも胡散臭い。他に大した情報も持っていませんでした。我々を誘き出して罠に嵌めようとしているように思います」


「そうか。やはりあの女の投降は敵の策略か」


「徐檣の投降が、閻仙楊良えんせんようりょうとやらが仕組んだ計略だとしたら、例え徐檣が暗愚でも気を抜かない方が良いでしょうな」


「閻仙楊良か」


 王礼は遠い目をしてボソリと呟いた。


「楊良について何かご存知で? 王将軍」


「ああ。儂は若い頃の楊良に一度だけ会った事がある。若い頃から風変わりな男だった」


「そうでしたか」


「奴は閻で生まれ閻で育った儒者の1人だった。儒教の教えを守りながら、当時廃れていた『兵法』を親の代から受け継ぎ研究していたが、当時の儒帝じゅていの、“戦を惹起する兵法の研究を禁ずる”というみことのりのせいで、みやこでの研究がご法度になり、楊良はいつしか閻の国から姿を消した。朝廷に捕まり処刑されたのだとか、どこかの山に籠り兵法の研究を続けているだのとか噂が流れたが真相は分からぬまま。そんな中、山に籠って兵法を研究し続けていると信じた者達から、奴は“閻仙”と呼ばれるようになったのだ」


「兵法は詔によって禁じられていたのですか? それは初耳でした」


「元々閻には兵法など研究する者は楊良くらいしかおらず、実質、都・秦安しんあんにのみ出された詔、いや、楊良に対して出された詔と言って良いだろう。地方の者は知らなくて当然。さほど強制力もなかったしな」


「なるほど。つまり、楊良は国から兵法研究を禁じられていながら、国が危機に瀕すると今度は国から兵法を使って国を守れと無理やり仕官させられそうになり、さすがに愛想を尽かして朧国へ降った……そういうところでしょうか。王将軍」


「推測だがな。だが、先程も言ったが奴は風変わりな奴だった。閻よりも朧に味方した方が都合が良いと思えば簡単に靡く可能性はある。奴が何を考えているのか、凡庸な儂には分からん。そもそも、本当に奴が切れ者なのかどうかも分からん。事実、奴自身が何かを成し遂げた実績はないのだからな」


「『代々兵法を研究していた家系』『正体不明の老人』確かに私もその程度の情報しか持ち合わせていません。まさか……本当は賢人ではないと?」


 楊良が持ち上げられるほど有能ではない可能性がある。にわかには信じ難い王礼の仮説に、李聞は眉間に皺を寄せて短い顎髭を撫でた。


「過去に実績はないが、実際のところは分からん。油断しないに越したことはない。まあ今は、眼前の朧軍が鶏陵けいりょうに移動するか、洪州まで撤退してしまうか。どちらを選ぶかで楊良の技量が分かるだろう、李聞よ」


「洪州へ撤退すれば有能。鶏陵に移動すれば無能……という事ですな」


 王礼は頷く。


「そうだ。貴殿の信頼している宵という娘軍師には、朧軍が洪州へ撤退した場合、鶏陵へ朧軍を誘導するようにと言われていたな。上手く出来るか?」


「分かりません。全力で事に当たるのみです。朧軍が洪州へ撤退した時の為にすぐに動けるよう軍を準備して参ります」


「頼むぞ」


 高齢で戦の経験もない王礼には軍を率いて戦う事は出来ない。

 李聞は王礼に拱手すると、すぐに角楼の階段を下りた。

 李聞の視線の先、階段の下にはすでに張雄ちょうゆう楽衛がくえい成虎せいこ龐勝ほうしょうが雨に打たれながら待機していた。


 ♢


 部屋を出ようとした徐檣は、廊下で待機している鍾桂がまた付いて来ようとしたのを見てさすがにウンザリして溜息をついた。


「鍾桂君。貴方もう付いて来なくていいわよ?」


「いえ、私は貴方の付き人に選任されましたので、どこまでもお供します」


 平然とした調子で答える鍾桂に、拳を握り締めて震える徐檣は今にも殴り掛かろうとする勢いさえあったが、どうにか堪えて腕を組むと、自慢の胸を強調するかのように鍾桂の目の前に差し出した。

 鍾桂の視線は案の定、徐檣の胸の谷間に落ちた。


「もしかして私信用されてないのかなぁ? どうしたら信用してもらえると思う? 鍾桂君が李聞将軍に口添えしてくれたら信じてもらえるかな?」


 誘惑しようとする徐檣だが、そういう事に慣れていないのか、あまりに不自然でそそられない。鍾桂は溜息を着くと徐檣の胸から視線を徐檣の切れ長の瞳へと戻した。


「私が口添えしたところで何も変わらないでしょう。私にそんな権力はありませんから。それよりも、徐檣殿は城内をウロウロとし過ぎです。李聞将軍のご命令があるまでしばらく大人しくなさっていた方が宜しいかと」


 色仕掛けが効かない事に、徐檣は不機嫌そうな顔をする。


「だってさー、私戦うって言ってるのに軍を与えてくれないどころか貴方のような監視を付けて軟禁されてるんだよ? 退屈過ぎて死にそうなのよ!」


「じゃあ私が遊んであげますよ。何します?」


「ふ、ふざけんなよ! 子供扱いしてぇ! 同い年でしょ!?」


「同い年ですね」


「ぐぬぬ……」


 面倒くさそうに返す鍾桂の態度に益々腹を立てる徐檣。ついにどうにもならないと悟ったのか、不貞腐れて部屋に戻り膝を抱えて蹲ってしまった。


「徐檣殿。そんな拗ねないでください」


 少し不憫に感じた鍾桂は膝を抱える徐檣の隣に腰を下ろし優しく声を掛けた。


「……しは……」


 ハキハキとした物言いだった徐檣は急に小さな声でボソボソと何か喋りだした。


「え?」


「私は……こんな事をする為にここに来たんじゃない」


 俯いたまま、悔しそうに徐檣は言った。


「徐檣殿は……貴女を虐げた朧軍を倒しに来たんですよね?」


「……」


「違うんですか?」


「違くない……違くない」


 俯いたまま子供のように首をブンブン振る徐檣。鍾桂はさらに優しく問い掛ける。


「朧軍を倒しに来たのに、ここでもまともに取り合ってくれないから悔しいんですね? これじゃあ朧軍にいた時と同じ。戦いたいのに戦わせてくれない」


「……うん」


 俯いたまま、徐檣は頷く。


「そうですか。なら誠意を見せなければ。自分の思い通りにいかないからと言って、自分勝手な事をしていたら誰からも信用してもらえません。李聞将軍は人格者です。貴女が誠意を見せれば、必ず貴女に軍を率いる機会を与えてくれます」


「ほんと?」


「本当です」


「じゃあさ、誠意って何? どうしたら見せられる?」


「そうですね。貴女は投降して来たばかりなのですから、まずは大人しくしている事ですかね」


「分かった……」


「では、私はまた廊下にいますので、何かあったら──」


「待って、鍾桂」


「はい?」


「何で私に優しくしてくれるの? こんなに我儘で鬱陶しい女なのに」


「何で……って……言われても」


「光世に似てるから?」


「いえ、そうではありません。貴女が光世に似てようが似てまいが、それは関係ありません。貴女は貴女です。私は貴女が落ち込んでいたから声を掛けただけです」


 俯いたままだった徐檣が、ようやく横目で鍾桂を見た。その瞳は涙で潤んでおり、微かに赤く充血していた。


「鍾桂、貴方は良い人だね。私、大人しくしてる」


「そうして頂けると私も助かります。では」


「ううん。行かないで。一緒にここにいて。退屈だから、話し相手になってよ。どうせ貴方は私から離れられないんでしょ? だったらさ……その、な、仲良くしよ」


「わ、分かりました」


「2人きりの時は、敬語もやめて欲しいな」


「分かったよ」


 鍾桂は心を入れ替えた徐檣に狐につままれたような感覚に襲われた。今までは何かを企んでいた雰囲気があったのだが、それが一切感じられなくなった。まるで何かを諦めたかのように。

 鍾桂は毒の抜けた徐檣の隣に腰を下ろした。嬉しそうに微笑むその徐檣の表情は、宵や光世と何ら変わらない、可愛らしい女の子のそれだった。



 ***

 朧軍~麒麟砦きりんさい


「軍師殿! 椻夏包囲中の朧軍が移動を開始しました!」


 びしょ濡れで兜や鎧から水を滴らせている斥候の兵士は、議場に入るとすぐにそう報告した。

 時期を待っていた宵と光世、そして姜美きょうめいは顔を見合わせて頷いた。


「間諜の兵達が上手くやってくれましたね。それで、朧軍はどちらに向かっていましたか?」


 重要なのはそこだ。洪州に撤退されたのでは前線の朧軍を捕らえる事が出来ない。鶏陵に逃げてくれれば朧軍を高台に閉じ込める事が出来る。宵の狙いはそれだ。


「西の鶏陵に移動しています!」


「よし! ありがとうございます!」


 宵は斥候の兵士を下がらせると姜美へ視線を向けた。


威峰山いほうざん桜史おうし殿達も動いていない。姜将軍! 好機です!」


「そうですね。典瓊てんけい!」


 姜美に呼ばれた部曲将の典瓊が部屋に入って来た。


「では軍師殿、典瓊に命令を」


 姜美は典瓊へと腕を伸ばし、宵がめいを下すようにと促す。典瓊も姜美ではなく宵の方を向き姿勢を正している。

 宵は頷く。

 そして羽扇の羽先を典瓊へと向けた。


「典瓊に命ずる! 鶏陵並びに威峰山の朧軍を水攻めにします! 荒水こうすいの堰を破壊してください!」


「御意!!」


 典瓊は威勢の良い返事をすると、部屋から飛び出し雨の中へと消えていった。


 ついに動き出した水攻め。

 失敗したら取り返しがつかない。宵の顔に笑顔はない。


 小さく息を吐いた宵の肩に、光世の右手が乗った。


「大丈夫」


 光世の笑顔に、宵の顔も少しだけ笑顔が戻った。

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