第125話 閻仙・動く

 朧軍~椻夏えんか包囲軍~


 前線に出てきたばかりの将軍全耀ぜんようは自室でボーッと蝋燭の火を眺めていた。室内には弱まった雨音が幕舎の屋根を優しく叩く音だけが聞こえている。

 黄旺こうおうの話は衝撃的な内容だった。

 徐檣じょしょうが閻軍に投降したのは計略の一環に過ぎないと言ったのだ。

 偽りの投降をさせ、徐檣に内部から城門を開けさせ、そこに黄旺と全耀の軍勢が雪崩込む。そうすれば、徐檣は手柄を立てられるし、椻夏の降伏を待たずに城を落とす事が出来ると説明された。

 確かにこのまま包囲を続ければ悪戯に兵糧を消費し士気を維持し続けるのも難しい。しかし、まだ軍人としての経験のない子供のような徐檣にそんな重大かつ危険な任務を与えるとは正気の沙汰ではない。

 全耀はこの作戦の立案者である楊良ようりょうに憤りを感じていた。

 徐檣は生意気で我儘な子供だが、徐畢ともの娘。自分にとっても娘のようなものだ。それを全耀に相談もなく戦の道具にされたのだから腹の虫が治まるはずがない。

 楊良に直接文句を言いに行こうとしたが、黄旺に止められた。文句を言ったところで作戦は変わらない。それどころかお前が晋亭しんていに戻される事になりかねないと言われ思いとどまったのだ。

 徐檣に万が一の事があったら……そう思うと、全耀にとっては最早戦の趨勢どころではなくなっていた。


「分からん。俺はどうしたらいい? 徐畢じよひつよ」


 独り呟くと、小さな酒甕を手に取りそのままゴクゴクと喉を鳴らし呷った。


 ちょうどその時だった。

 全耀の幕舎に2人の人影が訪れた。その内の1人が幕舎の中へ入ると、遅れてもう1人の男が入って来た。最初の男は黄旺こうおうだが、後から入って来た年配の男を全耀は知らなかった。


「全将軍、斥候の兵が閻軍が大量の舟をかき集めていると報せてきた」


 黄旺が言うと、全耀は酒甕を卓に置きすぐに立ち上がって拱手した。


こう将軍! 舟ですか? 河を下ってこちらを攻撃するつもりか??」


「そうではないぞ、全将軍」


 全耀の推測を聞いた黄旺の隣の男が口を挟んだ。


「……黄将軍、そちらは……もしや」


「おお、ご挨拶が遅れたな。それがし楊良ようりょうと申す。以後お見知りおきを」


 楊良は拱手して頭を下げた。

 礼儀正しく小綺麗な身なりをしたその男は、愛想良く笑った。

 閻仙と呼ばれるくらいだから、てっきりもっと白髪頭で髭が長くヨボヨボの老人を想像していたが、全耀の想像とはかけ離れた、朝廷の高官にいそうな偉そうな老人といった様相だ。


「そうですか、貴殿が閻仙楊良殿。よくも徐檣じょしょうを危険な計略に巻き込んでくれましたな」


 心に秘めていた怒りをぶつける機会を得た全耀は、拳を握り締め初対面の老人に悪態をついた。


「全将軍! 楊良殿にそのような口の利き方をするとは……」


「構いません、黄将軍。全将軍のお怒りはごもっとも。友人の、まだ未熟な娘さんを敵城に潜り込ませたのだから怒るのは当然の事。しかも相談もなしにです」


「心中お察しいただけるのなら何故私に話してくれなかったのですか!?」


「話せば将軍は断るからだ」


「ぬっ……」


 確かに話してもらっていたら断っていた。作戦を敢行するならば、全耀が知らぬ間に事を進めるのが得策ではある。


「偽装投降は必要な事だった。椻夏の落城は時間の問題だが、閻の李聞りぶんという将軍は忍耐強い。無駄に粘られたらこちらも兵糧も金も必要になる。それを削減する為に、数日以内に確実に落城させられるよう徐檣を送り込んだのだ。それに、それがしは新参者故、そろそろ大都督に献策せねばならなかった。いつまでも静観しているだけでは信用もされんしな」


「椻夏を落とす策だというのは納得しました。しかし、献策の理由が貴殿の信用の為という事と、徐檣を偽装投降に使った事は納得がいきませんな。偽装投降なら私がやりましたものを」


「軍師たるもの信用は大事だぞ? 信用のない軍師の策など誰が用いようか? それに、偽装投降は全将軍では駄目だ。仮に投降したとして、どのような理由で投降するつもりだった? 李聞は忍耐の強さに加え警戒心も強い。投降する理由が弱いとこちらの策である事がすぐに見抜かれ潜り込む事など出来ぬだろう。それに比べ徐檣は新人の女将校。軍内での待遇に不満があるというのはありそうな事、事実、彼女は不満を抱いており、全将軍と言い争いになったと言うではないか」


「……そ、それは……」


「いや、責めているのではない。その言い争いを目撃した兵士が陣内に噂を広めてくれたお陰で閻の間諜にも徐檣の不満と全将軍との口論という事実が伝わり、まんまと閻へと情報を持ち帰ってくれた。お陰で反間の計は成功し徐檣は椻夏に潜り込めたのだ」


「反間?」


「敵の間諜を逆に利用し、偽の情報を持ち帰り敵を混乱させる計略だ」


「そんな、楊良殿は私と敵の間諜をも利用し、徐檣を椻夏に潜り込ませたというのですか……」


「そういう事だ。徐檣が疑われていないかどうかは分からんが、潜り込めた事は事実。あとは、徐檣が真面目に働いてくれれば椻夏は5日後に落ちる。それがしが合図を送ったら徐檣に門を内側から開けてもらう。その機に乗じ黄将軍と全将軍に椻夏城内へ雪崩込んでもらう。さすれば全員が手柄を立てられる。中々に良き策だ」


 楊良は一通り説明し終わると、急に神妙な面持ちになった。全耀は唾を飲み込む。


「……だが、どうやら閻軍は水攻めを企んでいるようなのだ」


「水攻め?? まさか、舟を集めているというのは」


「そうだ。奴らは河を決壊させ我々を水攻めにするつもりだ。この長雨の影響で河の水は溢れんばかりに増水している。堰を切ればあっという間にここら一帯は水没する。それがしの記憶では40年前に大嵐で荒水こうすいが決壊した際、椻夏周辺は洪水による甚大な被害を受けていた。今回も荒水を切られたら椻夏を包囲している我々は押し流されて全滅する」


「ならばどうします?」


「全軍を高台に移動させ水をやり過ごそう。水が引くまで閻軍には猶予を与える事になるが仕方あるまい。だが、安心しろ。徐檣が椻夏にいる限り、勝てる可能性はいつでもある」


 楊良の言う事は悔しいが正論だ。徐檣を勝手に閻軍に潜り込ませたのは許し難いが、楊良は朧軍の為を思ってそうしたのだ。こちらが引くしかない。

 全耀が頷くと、黙って会話を聞いていた黄旺が口を開く。


「だがな、楊良殿。万が一、閻軍が水攻めをせず、我々の包囲を解くのが狙いだったらどうする? 舟を集めて水攻めをするように見せかけて、我々が水攻めを警戒して撤退したところを奴らが城から出て追撃して来たら」


 黄旺の話を聞いた楊良は呵々と笑った。


「さすがは歴戦の猛将ですな。黄将軍。確かにその可能性はあります。ですが、水攻めで全滅するよりは追撃された方がマシ。もちろん、追撃された場合の策も考えてあります……が、それがしの推測では十中八九水攻め」


「その心は?」


「閻軍の軍師は若い女子おなごと聞きました。兵法を知り尽くしているとは言え、所詮は経験の浅い子供。この長雨の影響で増水した河があり、我々が土地の低い場所に陣取っていれば、どうしても水攻めをしたくなるもの。可愛いものです」


 今度は楊良の自信満々の解釈を聞いた黄旺が呵々と笑った。そして楊良に拱手する。


「素晴らしい! さすがは閻仙! 閻の女子おなごとは学んできた歴史が違いますな!」


「恐縮です。黄将軍」


 そんな機嫌の良さそうな黄旺のもとへ、突然大声で報告と叫ぶ兵士が飛び込んで来た。


「何事だ?」


「斥候からの報告! 荒水のそばに閻兵を発見! すでに堰を壊し始めているとの報告がありました!」


「何!? それが本当なら時間がないな」


 黄旺が楊良へ目をやると楊良は頷いた。


「今すぐに動くべきかと」


「よし! 全将軍! すぐに陣を撤収! 移動の準備をさせろ! モタモタしている者は斬る!」


「御意!!」


 全耀は拱手するとすぐに幕舎を飛び出した。

 雨はまた強くなっていた。

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