第122話 司徒董陽邸にて
特に警備などはない。見られてまずい情報がないからなのか、盗み見る者がいるはずがないと油断しているだけなのかは分からない。
昨日盗み聞いた董陽と
孫晃は董炎の命令で軍を動かそうとしない呂郭書に、すぐに葛州へ向かい朧軍を討伐せよと伝えに行ったという。もし呂郭書が従わなければ、呂郭書を殺して孫晃自身が軍の指揮を執り、朧軍討伐へ向かう事になっていた。しかし、孫晃は戻らず、呂郭書の軍も未だ靂州の東の
それだけ聞くと、董炎は国を守ろうとするどこにでもいる普通の丞相に見える。その反面、国を守る為なら指示に従わない味方の将軍も構わず処断する冷酷さを併せ持っているようだ。
ただ、それが悪かというとそうではないと、清華は思っている。董陽と董月の話を聞く限り、悪いのは指示に従わない呂郭書なのだ。
呂郭書は80万もの大軍を有しながら雨季を理由に葛州の援軍に行こうとしない。もし、呂郭書が葛州へ援軍として到着していたら、
そう考えると、清華には呂郭書の方が悪に感じられた。
だが、それは感情論に過ぎない。
呂郭書が軍を進めない理由が本当に雨季のせいなのかは分からないが、それが
清華はそんな仮説を立てながら、周りの目を気にしつつ、董陽の部屋の机の辺りを物色した。
──が、突然清華の肩に何者かの手が置かれ、清華は物色する手を止め硬直した。
しかし、何故か背後の人物は何も話しかけてこない。
ゆっくりと肩の手が下ろされたので、清華は恐る恐る振り向いた。
そこには、真っ白な髪の小柄な若い女が直立したまま、清華を見つめていた。
不審に思っている気配はなく、まるで好奇心旺盛な少女のように、その女は清華を興味深そうに見つめている。
だが、不思議な事に、清華と目が合ってもその女は何も喋らない。
まるで気配がなかったのだ。そのせいで手を止めるのが遅れた。言い逃れは出来ないだろう。
清華が思考を巡らせていると、その女は、董陽の机に置いてあった筆に墨をつけた。そして、同じく机に置いてあった竹簡を1巻手に取り、それを開くとサラサラと何か書き始めた。
書き終わるとそれを清華に無言で見せた。
『何してるの? 貴女は誰?』
その行動で清華はこの女は喋る事が出来ないのだと悟った。だが、喋れないからと言ってこの状況が打破出来たわけではない。
「私は下女の
『どう書くの?』
間髪容れずに女は竹簡に書いた文字を見せてくる。相当書き慣れているのか信じられない速筆だ。
「清らかな風に華やかの華と書いて清風華。今は……そのご主人様のお部屋のお掃除を……あの……失礼ですが、貴女は……?」
明らかに他人の机を物色していたのだが、他に気の利いた言い訳が思いつかなかった。冷や汗を浮かべながら、清華は白髪の女の出方を窺う。表情に感情は見えず、ただ無機質に感じられる。
すると女はまたサラサラと竹簡に文字を書いた。
『私は
董星。その名は昨日董陽と董月の話を盗み聞きした時に出て来た名前。董炎の三女で
言葉は話せずとも、董星の佇まいは確かに只者ではない。すでに清華が情報を盗みに来たと見抜いている可能性もある。どうする? 声が出せないなら今逃げれば逃げ切れる。しかし、逃げてしまったらこれ以上情報を集められなくなる。
清華は決断を迫られた。
「わ、私は……」
言いかけた清華に、董星はまた文字の書かれた竹簡を見せてきた。
『陽姉様が貴女を下女にしたのなら、貴女は悪い人ではないと思う。でも、今の貴女の行動、挙動はただの下女ではない。何か事情があるのでしょう』
「え……えっと……」
清華が答えるよりも早く、董星は凄まじい速さで竹簡に文字をしたためていく。
『可能性は2つ。ただの泥棒か、朧軍の
──マズイ。やはりバレている。
「私はただ……お掃除を」
『泥棒ならお仕置。朧軍の間諜なら
「私は……え……!? 見逃してあげる……って??」
清華は目を疑った。董星の持つ竹簡には信じ難い言葉が記されてあったのだ。
間諜なら見逃す? 意味が分からない。普通なら捕らえて目的などを聞き出すのではないか? もしかして、罠なのか?
清華は度重なる予想外の出来事に冷静な判断力を失ってきていた。
目が泳ぐのを止められない清華。反対に今も尚冷静に文字をしたためる董星。
『怖がらないで。私は争い事が嫌い。人が苦しむのも嫌い。壊れてしまった父上をもとに戻してくれるなら、私は貴女を許す』
その文章を読んだ清華は口を押え目を見開いた。
思わず董星の顔を見ると、今まで無表情だった董星の顔はいつの間にか悲しみに歪んでいた。
「……董星……様……」
この女は嘘はついていなさそうだった。
***
朧軍陣営・
「
声の大きな男が1人の若い武将を連れて雨中の
幕舎内の
「おお、待っていたぞ全耀。雨の中大儀であった。それで、そちらの若いのが」
「
全耀に負けず劣らずの徐檣の声は、透き通るように高くて清らかだった。兜を左脇に抱え、長い黒髪を後頭部で結っただけのいわゆるポニーテール。体型は小柄で華奢。豊かな胸を締め付けない余裕のある特注の鎧を身に付け、自身が女である事を隠すつもりは毛頭ないようた。
「なるほど、確かに光世と背格好が似ておるな。特にその切れ長の目がそっくりだ」
「裏切り者の軍師と一緒にしないでください! 黄将軍!」
キッと眉を吊り上げて老将黄旺に反論する
物怖じしないその姿勢は若いながら指揮官の風格すらある。
「まあ、そう怒るな徐校尉。光世は裏切ったのではなくやむなく閻に投降したのだ。それに、其方の父親は光世を大層気に入っておったぞ。あまり悪く言ってやるな」
「父上が……」
「それより、
「ここにはおらん」
「なっ!? 全将軍騙しましたね!?」
聞いていた話と違うと同伴者の全耀に鋭い目付きで睨み付ける
「徐校尉。其方は今回が
「私は! 戦をしに来たのではありません! 姜美を殺しに来たのです!」
「いきり立つな、徐校尉。其方の目的が何であれ、儂の
「私は……!」
「戦とは人を殺す事が目的ではない。儂が其方の戦場に立ちたいという願いを聞いたのは、其方の父親である、
黄旺の言葉を聞いた
「黄将軍に従います!」
黄旺は頷く。
「其方の父親直伝の武術の噂は聞き及んでおる。期待しておるぞ」
「はっ!」
幕舎の中に
そばで同伴者の全耀は安堵の溜息をついた。
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