第121話 雨水は手のひらから溢れて零れる

 姜美きょうめい部曲将ぶきょくしょう典瓊てんけいと他10騎のみを従えて麒麟砦きりんさいに戻って来た。

 姜美は自ら馬に乗り、乗降も1人で難なくこなしていた。伝令の情報ではかなり具合が悪いと聞いていたがそのようには見えない。

 降りしきる雨の中、門まで出迎えた宵と光世はすぐに姜美を彼女の自室へと連れて行った。


 机から溢れた竹簡が転がっている宵の自室と違い、姜美の部屋は整理整頓が行き届いており余計なものが何一つない。同じなのは壁に貼ってある大きな葛州かっしゅうとその周辺の地図だけだ。


「傷の具合は? 高熱を出したと聞きました」


 女子3人の室内。宵が開口一番に訊ねると、姜美は何でもないと言わんばかりにいつも通りの動きで鎧兜を脱ぎ始めた。部屋着になると、その小さな尻を寝台に乗せた。


「ご心配をお掛けしましたが今は平気です。傷は治りました。熱も薬のお陰ですっかり良くなりましたよ。問題ありません」


「それは良かったですが……でも、傷口がまた開いてしまっては大変です。しばらくは安静にしていてくださいね」


 宵の言葉に長い黒髪をフワッと手で払いながら姜美が頷く。


「ええ。そのつもりで戻って来ました。しばらく休ませてもらい、傷を完全に治します。でなければまともに指揮もとれません」


 いつもなら自分の身体を犠牲にしてでも動こうとするのだが、この時の姜美は何故か素直だった。

 いつもと雰囲気が違う姜美に違和感を覚えたのは宵だけではなさそうだ。光世も怪訝そうに姜美を見ている。


「あ、あの姜将軍。私の策、十面埋伏じゅうめんまいふくが失敗してしまい、大勢の将兵が亡くなったと聞きました……本当に……申し訳ございません」


 心に留めておいた人々の死の現実。自分が殺したわけではなくとも、自分で献策した策が失敗し、そのせいで人が死んだなら責任の一端は宵自身にある。数ヶ月軍師として軍に身を置いてきたがその現実に慣れる事はない。


「軍師殿。戦に犠牲はつきものです。いくら貴女が有能な軍師でも、何も失わずに戦えるなどと思わないでください。一々謝罪など不要。貴女に過失はありません。軍師として策を立てるならば、人の死を受け入れる覚悟を持っていなければなりませんよ」


 姜美の言葉は厳しかった。自惚れるなと言われた気がした。軍人としての心構えは姜美に及ぶ事はない。戦で人が死ぬという現実を、平和な日本の女子大生の感覚でいつまでも受け取っていてはいけないのだ。

 光世も真剣な表情で姜美の話に頷いていた。


「肝に銘じます、姜将軍」


 宵は唇を噛み締め拱手した。


「それより、お2人とも私が留守の間変わりはありませんでしたか?」


 姜美は話題を変えた。その質問に、宵は朧軍の貴船桜史きふねおうしから投降を要請する使者が来たが詩を渡して断った事を報告した。詩の内容と意図まで説明すると姜美はお見事と宵を賞賛した。


「『七歩の詩』? よく思いついたね、宵」


 桜史へ送った詩がどんなものなのか詳しく聞かされていなかった光世は、その詩が七歩の詩だと知ってなるほどと納得した。


「この間、皆でお風呂に入ったじゃない? あの時姜将軍の『釜茹でにならないように』って言葉で閃いたんだ。『釜茹で……釜……』あ! あの詩、使えるかも、って」


「そんな事言いましたか? 私」


「言いました! ちゃんと覚えてますよ」


「まあ、いずれにせよ、それで桜史殿が軍師殿の意図に気付いてくれれば、今後は我々は朧軍と無益な殺し合いをせずに済むという事ですね?」


 長い黒髪を両手で撫でながら姜美が言った。姜美が女性らしい仕草をするのは珍しい。


「はい。ただ、閻仙楊良えんせんようりょうがどう動くか。彼は私達の味方ではないでしょうから、私と桜史殿の内通が露見したらとてもマズイです」


 宵と姜美のやり取りを聞いて、壁に寄り掛かり腕組みをしていた光世が口を開く。


「今回、姜将軍の十面埋伏を見破ったのは桜史殿か楊良か。そこは分かりませんが、桜史殿の使者の朱勤しゅきん威峰山いほうざん方面から来た事から、桜史殿は威峰山に来ている可能性が高い。そうなると、楊良は椻夏えんか黄旺こうおうの陣営にいる……。軍師を1つに固めないのが大都督周殷しゅういんのやり方でしたから」


「なるほど。そうであれば、椻夏の王礼おうれい殿と李聞りぶん殿が籠城して持ち堪えている間に威峰山を何とかしてしまう事が出来るかもしれませんね、軍師殿。何か策はありますか?」


「はい。威峰山だけではなく、椻夏を包囲している朧軍もとりこにする策はすでに考えてあります。準備も勝手ながら進めさせていただいています」


 自信満々に薄い胸を張って言い切る宵。


「おお! 是非、ご教授ください! どんな策ですか?」


 大きな胸を揺らし、姜美は拱手した。

 宵は頬笑みを浮かべると、窓際へと移動し木の窓を開け、そこからおもむろに右手を伸ばした。するとあっという間に宵の手のひらには雨水が溜まった。その右手を光世と姜美へ見せつける。

 宵の行動に光世は背筋を伸ばした。


「まさか、水攻め?」


 宵は頷く。


「さすがは光世。ご名答。これ程の雨量であれば河を決壊させる事は容易です。まさに天からの贈り物」


 宵の手のひらからポタポタと雨水が床に滴る。


「でも……宵、水攻めだと、たくさんの人が死ぬ事になるよ……」


「もちろん、それも分かった上で私は水攻めを献策してる」


「どういう事?」


「光世にも分からないならこの策は成功かな」


 ニヤリと得意げに宵は微笑んだ。

 すると姜美が唇を触りながら話し始めた。


「軍師殿が大勢の人を殺すような策をとるとは思えません。もしや、水攻めで朧軍の動きを封じ、動けなくなった朧軍を投降させる腹積もりでしょうか?」


「はい。すでに地図上で低い土地は確認済みです。姜将軍がお戻りになられたら実際にこの目で浸水予定の地域を見て回ろうと思っていました。護衛の兵を2、3人お借り出来ますか?」


「それは構いませんが……」


「ちょっと待ってよ宵!」


 勝手に話を進める宵に光世の待ったが入り、宵は姜美から光世へ視線を向ける。光世は眉を吊り上げていささかお怒りのようにも見える。


「私達閻軍は高台に移動すればいいかもしれないけど、朧軍はどうなるの? 朧軍にも水攻めするから高台に移動しなさいって言うわけ?」


「間諜を使う」


「間諜……」


 光世は険しい表情のまま呟く。


「洪州の朧軍に潜入中の甘晋かんしん殿に、私達が水攻めを行う事を、堰を切る2刻 (1時間)前にわざとバラしてもらう。で、指定した場所に軍を動かせば助かると誘導してもらって朧軍を高台に閉じ込める。そこへ私達が舟に乗って降伏勧告をしに行く」


 宵の策を聞いた光世と姜美は口を閉じた。

 上手くいくか疑っている。いや、上手くいくはずがないと思っているのだろう。姜美はともかく、光世が賛同しないというのは宵にとっては不安以外の何者でもない。


「無理……かな」


 宵が小さな声で聞くと、光世は何も言わず壁に貼ってある大きな地図の前へ立った。


「どこの堰を切って、どこが水没して、どこに朧軍を誘導するのか。それと決行日時、舟の調達方法、水没後の兵站。すでに準備が完了している事は何か、全部説明して」


 光世はそう言うと地図をバンと叩いた。

 いつになく真剣な眼差しの光世。寝台に腰掛けていた姜美も立ち上がり光世の隣で地図を見上げた。


「これだけの事を宵1人でやろうとするのは無理! ちゃんと説明してもらって、私と姜将軍が納得したら 実行に移そう。じゃないと、万が一失敗した時、全部宵の責任になっちゃうよ」


 勝手に動こうとしてしまった宵を光世は優しく諭してくれた。

 確かに、宵は事を急ごうと相談もせず自分の中だけで計画を進めようとしていた。それで失敗したらきっと自分はまた多くの人々の命を犠牲にした事にショックを受けて二度と立ち直れないかもしれない。


 ──光世。貴女がいてくれて本当に良かった──


 宵は心の中で改めて光世の存在の大きさを認識した。


「では、僭越ながら申し上げます」


 宵は光世と姜美へ深々と拱手し頭を下げた。

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