第119話 朧軍からの使者

 威峰山いほうざんでの姜美きょうめいの軍が敗走したという報告のあった翌日。

 宵はスッキリとした顔で麒麟砦きりんさいの防壁の上の軒下へ出て来た。

 相変わらずの雨だ。数里先さえ視界が利かない。もはや閻帝国えんていこくの晴天を見たのが遠い昔のように思える。

 突然宵が防壁の上に現れた事で、衛兵達はソワソワしだした。


「ど、どうされたのですか? 軍師殿。こんな所へ出て来るなんて珍しいですね」


 衛兵の1人が照れながら話しかけて来たので宵はニコリと微笑んだ。


「外の空気を吸いに来ただけですよ」


「そ、そうでしたか。こちらは特に異常はありません。……そ、それにしても、今日はやけに色っぽいですね……」


 衛兵がドギマギしながらそう言うと、周りの衛兵達も宵へと視線を向けた。


「そんな事ないですよ。いつも通りですよ? ほら、襦裙じゅくんもいつも通り。可愛いでしょ?」


 宵は笑顔で自慢げに衛兵達に薄水色の上衣を見せびらかす。ただ、胸には自慢できる脂肪の塊はない。鍛え抜かれた衛兵達の胸板の方が厚いくらいである。

 それでも衛兵達は皆笑顔になり、「可愛い」「美しい」と囃し立てる。

 気が付けば、宵は衛兵達に囲まれてまるでアイドルのように場を賑わせていた。

 男ばかりの職場で、若くて可愛くて愛想も良くて頭の良い女性が1人だけなのだから、その興味を引き付けるのは容易である。

 この雨が嘘のように、宵の心は晴れやかな気分だった。


「宵」


 だが、背後から自分の名を呼ぶ声に、浮かれていた宵は、この職場では紅一点ではない事を思い出し背筋を伸ばした。


 光世は眉間に皺を寄せて砦の中から防壁の上へと出て来た。

 その光世のオーラに、宵を囲っていた衛兵達は道を開けるように後ずさる。

 そして、宵の肩に腕を回し耳元で囁く。


「おはよう。ご機嫌だね。何朝から男と遊んでるのかな?」


 光世の口調は穏やかだが、宵の行動に苛立っているというのは伝わってくる。


「ち、違うの。私は外の空気を吸いに来ただけで……」


「宵ちゃんねー、男の人とお話したい年頃だからしょうがないのは分かるけどさ、あんまり女の子を見せびらかすと大変な事になるよ? 今は姜将軍も田燦でんさん殿もいないんだから、もし襲われても誰も助けてくれないよ?」


「そんなつもりないよぉ……で、でもほら、士気も上がるしいいじゃん」


「宵がそんなつもりなくても、男は宵とヤリたいと思ってるよ? 気を付けなさい」


 光世の忠告を受けて周りをチラチラと見ると、衛兵達は鼻息を荒くして宵を凝視していた。……いや、光世が宵の耳元で何か囁いているその様をニタニタしながら見ている気がする。


「分かったよ、ごめん。光世。とりあえず離れてくれない? 百合だと思われる」


「……百合って」


 宵は危険を感じ光世を引き離した。


「てかさ、なんか今日一段と肌の艶と張りが良くない? どうしたの? 調子いいの?」


 光世は不思議そうに宵の頬を指でぷにぷにとつつく。


「あ……うん、調子いいの」


「へぇ……」


 光世はニヤリとしながら宵の紫紺の大きな瞳を覗き込む。堪らず宵は目を逸らす。


「それならいいや。で? 1人で考えて、この後の策は決まった?」


「うん! 決まった! 今度こそ完璧! もう準備に取り掛かってる!」


「え!? もう??」


「この後光世にも話に行こうと思ってたんだよね」


 胸の前で左右の人差し指の先を合わせながらモジモジと弁解する宵。その仕草に光世は思わず笑みを浮かべる。


「そっか、なら良かった。中で話聞くよ」


「うん!」


 光世が宵を連れて中へ戻ろうとすると、突然、衛兵達がざわつき始めた。


「軍師殿! 朧軍が3騎でこちらへ向かって来ます!」


 部屋へと戻り掛けた宵と光世は軒下まで戻り衛兵達の視線の先へ目をやった。

 すると、確かに朧軍の兵が2騎。そしてその2騎を従えるかのように、鎧兜を纏わぬ文官風の男がこちらへ駆けて来ていた。


「朧軍が何でここに?? 姜将軍が防衛線を張ってるはずじゃ……」


 数十里先にいるはずの姜美の軍を無視してわざわざ麒麟砦まで来た朧軍には、気分絶好調の宵もさすがに狼狽えた。


 朧軍の3騎は、麒麟砦の下まで来ると馬を停めた。

 3名とも笠を被り蓑を纏っているが、武器らしい武器は文官の男の傍らに従う騎兵の2人の腰の刀だけのようだ。さすがに攻撃しに来たわけではなさそうだ。


「閻の軍師殿はいらっしゃるか!!」


 文官風の男が大声で叫んだので、宵と光世は顔を見合わせて頷いた。


「私が軍師ですが」


 名乗り出た宵だったが、普段出さない大声は弱々しく、この雨の音に掻き消されてどうやら文官の男には届いていないようだったが、宵の姿を見た男は話を続けた。


「おお! 貴女がくだんの女軍師殿でありますか。私は朱勤しゅきんと申す! 朧軍軍師、桜史おうし殿の使者として参った! 軍師殿とお話がしたい! どうか門を開けられよ!」


 朱勤の話に宵と光世は目を見開いた。

 まさか桜史が直接コンタクトを取ろうとしてくるとは2人は予想もしていなかったのだ。


「どうしよう、光世。今姜将軍いないし……勝手に敵を入れたらマズイよね」


 アタフタする宵に光世は冷静に応じる。


「また悪い癖出てるよ。今は宵がここの指揮官でしょ? それに、敵とは言え、使者を追い返すのは無礼でしょ? 話だけ聞いて、重要な決断を迫られたら返答を先延ばしにする。いい?」


「うん、そうだね。分かった。ところで、朱勤て人は知り合い?」


「知らない」


「そっか……じゃあ、先に私が朱勤殿を応接間に迎え入れるからさ、光世は私が呼んだら出て来て」


「え、いいけど」


 朱勤が何をしに来たのか見当を付けた宵は衛兵に面会承諾の返答を託し、門を開けさせた。



 ♢


「宵と申します。朱勤殿。本日はこの雨の中お越しいただきありがとうございます」


 朱勤を応接間に通した宵は部屋の中央で朱勤に拱手した。


「ああ、いやいや、そんな恐れ多い、宵殿」


 感じのいい笑顔を見せた朱勤という男は、口髭と顎髭を生やした30代半ばくらいの至って普通の男だった。


「早速ですが、まずお伺いしたい事が」


「その前に、立ち話もなんですから、どうぞお掛けください。お酒を飲みながら話しましょう」


 宵は朱勤に座るよう促し、彼が席についたのを見ると自分も部屋の奥の上座に腰を下ろした。

 朱勤の前の卓にも宵の前の卓にもすでに酒と料理が並べられており、宵は小さな酒甕から自分で酒を杯に注ぐとそれを朱勤の方へと掲げた。

 朱勤の杯には兵士が酒を注いでおり、朱勤はニコニコしながら宵の方へと杯を掲げる。


「さあ、どうぞ」


 宵が言うと、朱勤は「では」と言って一息に飲み干した。

 それを見ながら宵も杯を口に運びごくごくと一息に飲み干す──が、宵が飲んだのは酒ではなく水だった。この世界の酒が苦手な宵は酔い潰れて話が出来なくなるのはマズイと考え、酒甕に水を入れておいたのだ。これなら何杯でも飲める。


「いやぁ、美味い酒ですな。酒もそうですが、まさか、閻の軍師殿がこれ程までに若くてお美しいとは思いもしませんでした」


「あら、お上手ですね、朱勤殿。それはそうと、本日はどのようなご用件でしょうか?」


 ご機嫌な朱勤に宵も笑顔で応じる。


「まずお伺いしたいのが、我が軍師桜史殿は、景庸関けいようかんの戦いの折に、我が方からそちらへ投降した光世という軍師と、その下女、清春華せいしゅんかの所在を気にしておられました。2人はどちらに?」


「ああ、清春華なら故郷に帰らせましたのでここにはおりません」


「左様でございますか。では、光世殿は?」


「光世ならわたくし共の方で重用させて頂いておりますよ。光世!」


 宵が呼ぶと光世は部屋に入って来て宵と朱勤に拱手した。


「おお! これは……何と。まさか光世殿もこれ程お若くお美しい方とは……あ、いや、お元気そうで何よりです」


 嬉しそうな朱勤に、光世は淑やかに会釈だけして応えた。


「朱勤殿、宜しければ光世もこの席に加えても?」


「あ、ああ、構いません。お若くてお美しいお2人と酒が飲めるとはまさに至福というもの」


 朱勤は呑気に顔を赤くしてニヤニヤとして言った。

 どうやら朱勤の態度から察するに、朱勤も光世とは初対面のようだ。

 宵は光世の宴席も用意するとそこに光世を座らせ、再び乾杯をした。

 もちろん、また宵が飲むのはただの水である。


「さて、朱勤殿。桜史殿は2人の安否の確認の為だけに貴方を寄越したわけではないのでしょう? 本題は何なのですか?」


 宵が切り込むと、朱勤はガブガブ呑んでいた杯を卓に置いた。


「率直に申しますと、私は貴女方に投降を勧めに参りました」


「あら、投降ですか」


 宵は困ったような顔をして返す。


「ええ。先の威峰山いほうざんの戦いにて、姜美将軍の軍は大打撃を受け、威峰山より10里後退して4千程の軍で駐屯しています。聞くところによると、姜美将軍自身お怪我をされたとか」


「はい。全て報告は受けております」


洪州こうしゅうもほとんど抵抗する事なく我々に投降しました。それは、我が軍が精強で勝ち目がないからという理由以外に、我々が閻帝国の民を救う目的を持っていると知ったからです。決して侵略が目的ではないのです。このまま董炎とうえんの悪政が続けば必ずや閻帝国は内部から崩壊します。民達の反乱によってです。そうなるのももはや時間の問題。隣国の鳴国めいこく蓬国ほうこくもその反乱に乗じて貴国を攻めて来るでしょう。我々は豊かな閻帝国が滅ぼされるのを救いたいだけなのです。もはや閻には我が軍に対抗出来る強力な戦力はありません。ここは1つ、共に、董炎を倒しましょうではありませんか、軍師殿」


 宵は朱勤の話が終わると小さく息を吐いた。宵の紫紺の綺麗な瞳が鋭く光った。


「ご提案には感謝致します。朱勤殿。しかし、我々が朧国に投降する事はありません。確かに、閻の民は苦しんでおります。董丞相とうじょうしょうの農地収容法は民から土地という財産を奪い、その見返りに国の用意した粗末な住居、最低限の食料、指定された労働を与えました。民達は生きる上で必要最低限度の生活しか許されず、そこに自由はない。自由のない生活には幸せは感じられない。民達は生きていられるだけの人形に成り果てています。これは今すぐにでも変えなくてはならない重大な問題。……ですが、必ずしも武力での解決が妥当かと言われれば、私はそうではないとお答えいたします」


「何ですと」


「民を救う為と大義名分を掲げても、戦を起こせば少なからず犠牲が出ます。朧国の兵も、閻の兵も。そして、閻帝国内で戦をすれば、貴方達が救おうとしている民達にも犠牲が出るのです。田畑を戦場にすれば食料が失われ、城を攻めれば民の住む場所が失われる。戦とは、外交の中でも最も避けなければいけない事項。それを、十分に交渉しないうちから我が国に軍を寄越すのは如何なものかと思います。董丞相とて1人の人間です。話し合いで解決出来なかったのですか? 朧国は一体どれだけ我が国の民の為に董丞相に話し合いを持ち掛けてくれたのでしょうか? 武力での解決の方が早いからと、外交交渉を疎かにし、戦をする道を選んだのではないでしょうか?」


「なっ……そ、それは……」


「兵法では、『兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せずんばあるべからざるなり』とあります。要するに、戦はなるべくするなと言う事です。その大原則を破ってまで戦を仕掛けてきた朧国には、我々が負ける事はありません。故に我々は徹底的に応戦致します……と、桜史殿にお伝えください。桜史殿も兵法をお勉強なさったのなら、私の道理が分かるはずです」


 珍しく長々と喋った宵は、最後だけ満面の笑みを浮かべて見せた。

 朱勤はぐぅのねも出ず、恥ずかしそうに俯いてしまった。


「光世殿は、朧国で恩を受けておきながら、閻に味方するおつもりですか?」


 宵に論破された朱勤の狙いは光世へと変わった。

 しかし、光世はまるで動じた様子を見せず、淡々と話し始める。


「私は朧国で受けた恩を1日足りとも忘れた事はありません。故に、私はここにおりますが、朧国へ歯向かうような事をするつもりはありません」


「その言葉が本当なら朧国へ戻られよ」


「それは出来ません。私は朧国へ恩があるのと同じように、閻帝国にも恩があります。本来ならば捕虜として扱われるべき私を、このように重用してくださいました。つまり、両国に恩義がある状態。どちらかに加担するのは仁義に反します。故に私はここで両国の戦を静観させて頂こうと思います。もちろん、閻軍に献策は致しませんのでご安心を」


「分かりました。分かりました。では、桜史殿にはそのように報告させて頂きましょう。非常に残念ですよ。こんなお美しいお2人を討たねばならなくなるのは」


「ならばそちらが戦を辞めてくれれば宜しいでしょう。我々は貴国に攻められたから応戦しているまで。私は戦を好まないので、お帰り頂けると有難いのですが」


 宵が言うと、朱勤は鼻で笑って立ち上がった。


「結構! このお話はなかった事にさせて頂きましょう」


 立腹しながらも朱勤はしっかりと拱手して踵を返した。


「ああ、お待ちを。お帰りでしたら桜史殿に渡して頂きたいものがございます」


 宵は慌てて朱勤のもとまで行って懐から絹の書簡を1つ取り出した。


「これは?」


「実は私、詩を作るのが得意でして、手土産に聡明な軍師殿に私の作った詩を差し上げたくて。どうかお渡し頂けますか?」


「詩ですか。ま、酒をご馳走になりましたからな、必ずお渡し致します。では、失礼」


 朱勤は書簡を受け取り、礼儀正しくまた拱手すると足早に部屋を出て行った。



「ふぁー心臓止まるかと思ったぁー」


「いやー、ビックリしたよ宵。まるで諸葛孔明しょかつこうめい先生みたいな弁舌! 朱勤殿何も言い返せないからって私に石投げて来たしね」


「そんな〜孔明先生だなんて〜。てか、その石を投げ返しちゃう光世もカッコよかったよ」


「そう?」


 きゃはははと笑い合う宵と光世。その2人の姿は、たった今敵国の使者を言い負かした有能な軍師というよりも、どこにでもいる女子大生のそれだった。


「ところで、宵、詩なんて書けたっけ?」


「真似するだけなら私にも出来るよ〜」


「真似?」


「さあ、そんな事より、安心したらお腹すいてきちゃった。せっかく用意したご飯食べないともったいないよ」


「出た、日本人のもったいない精神」


「光世も日本人でしょーよ!」


 一仕事終えた2人の女子大生は、楽しそうにまた水と酒で乾杯した。

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